可愛い犬にも牙はある「初恋が実らないというのは迷信だったな」
それは、鯉登からの何十回という交際の申込みを月島が断りに断り続け、どう断っても諦めようとしない鯉登の態度に音を上げた末、仕方なく形の上では受け入れることになってから数日経った日のことだった。兵の訓練を指導して戻る途中である。
何故か得意げに発された、その聞き捨てならぬ言葉は月島の軍帽の下の眉間に深い皺を形成した。
「まるで私が初恋の相手のように聞こえるのですが……」
「そうだが?」
何を当然のことを、と言いたげに鯉登の目が軽く見開かれる。
――いや、なにが「そうだが?」なのだ。
大体、既に何度も玉砕しておいて、今更これを「実った」と言ってよいのか。月島としては、どうにか鯉登には目を覚ましてもらって、当人にふさわしい、本当に好いた人を見つけてもらうまでの繋ぎの相手のつもりでしかないのであるが。さも当たり前のような顔が妙に苛立たしく、月島は胸の当たりがもやもやした。
「少尉殿の初恋のお相手は鶴見中尉殿かと思っておりました」
「いや……それは違う」
ふるふると首を振りながら、立ち止まった鯉登は片手を挙げて否定した。その手をそっと胸に当てて憂うように顔を伏せる。
「確かに、鶴見中尉殿のことは尊敬しているし、お姿を前にすると上手くお話することもできない……」
「早くお話出来るようになってください」
月島の冷静な発言に、癖の強い鯉登の眉がぴくりと引き攣ったが、構わず続けた。
「現に今も、こうして考えるだけで胸は高鳴り、体温は上昇し、手には汗をかいてしまうほどで……」
「眼の前にいる私にはそんなふうにならないですよね?」
「ええい、いちいち話の腰を折るんじゃない」
両手を腰に当てて、鯉登が月島を睨んだ。新兵であればともかく、そうやって見下ろされることに慣れてしまっている月島には、あまり効果がなかった。
「私を相手にしている時より、よほど深刻ではありませんか?やはり少尉殿がお好きなのは中尉殿なのでは……」
「だから違うと言うに。私は中尉殿をやましい目で見たことはない」
「はあ……」
気のない相槌をうって、それから月島は小首を傾げた。
「私のことはやましい目で見ているということですか?」
「ッ」
鯉登の身体が目に見えて硬直した。みるみる褐色の頬には赤みが増し、助けを求めるように目が左右に泳いだが、幸か不幸か周囲には誰もおらず、正面に立つ月島は感情の無い瞳をじっと向けている。
底の見えないその瞳に圧されて、きゅっと口をひしゃげると、鯉登は顎を引いて俯いた。恥ずかしさと後ろめたさが混じった如何ともし難い上目遣いになり、彼らしくもなく、それはそれは言いにくそうに呟く。
「…………見てる」
ぼそっと低い呟きの奥に潜む危うい欲望と、それを発する若者の初な顔とがあまりにかけ離れていて、その懸隔に月島はしょぼしょぼと瞬きした。
「鯉登少尉殿は、なんというか……」
「な、なんだ」
何を言われるのかと鯉登が身構える。
この上官、些か正直がすぎるのでは、とか、お可愛いことだ、とか、いや成人男性に可愛いは無いか、とか、様々な思いが月島の胸を巡った。こんなことで彼は将校としてやっていけるのだろうか。いつまでもこの体たらくではいずれ足を掬われてしまう、そうならないよう、変わってもらわねば……と、そこまで考えたところで、月島はふっと視線を落とした。
「いえ、なんでもありません」
「……?」
踵を返して、先を促すように月島が歩き出した。
鯉登の補佐が、自分の仕事だ。彼の足りないところを補うために自分はいる。鯉登にとって必要が無くなるまで。それまでは。
「自分が頑張ります」
目を丸くした鯉登は、たたっと足早に隣へ並ぶと、横から月島を覗き込んだ。
「それは今晩付き合ってくれるということだな?」
「あ~そう取りましたか。違います」
むっと鯉登が口を尖らせた。
ただ、軍帽の庇のせいで月島は気づかなかった。顔をあげた後で、鯉登がにやりとほくそ笑んだのを。