甘えられるのに弱い鯉月 その休日は、珍しく何処かへ出かけようという予定が無かった。前日の夜、月島は一応鯉登に「明日どうします?」と寝床で尋ねてはいたのだが、明日が休みという開放感で盛り上がってしまい、明日の予定などそっちのけになってしまっていた。
そんなわけで予定らしい予定を決めることなく、平日よりちょっと遅く起床し、平日よりゆっくりと朝食をとり、今は洗濯機のスイッチを入れたところだ。月島は寝室へ行って、充電しっぱなしになっていた携帯電話をチェックすることにした。充電は完了していたので、アダプタを外して携帯を手にリビングへ向かう。
「月島ぁ、今日どうする?」
「あー……そうですね……」
横長のソファへ寝っ転がって、携帯の通知一覧に目を通してみたところ、メッセージが数件入っていた。いくつかは読みもしない宣伝の類いであるが、一件は無視できないものだったので、月島は鼻でため息をつくと、寝転がったまま顔の上で文字を打ち出した。
「コーヒー飲むか?」
「ええー……はい……」
「…………」
誰が聞いたってわかる生返事に、鯉登は口を開きかけたが、結局そのまま閉じた。電気ポットにいっぱいの湯を沸かしている間にマグカップを並べ、ドリップバッグの内袋を開ける。月島は面倒だからと、粉にお湯を注ぐだけのインスタントばかり飲んでいるが、それではやはり味に深みが足りない、と鯉登は思っていた。ある時、鯉登が自分がやるからとドリップで淹れたコーヒーを月島が「美味しいです」と言ってくれたので、それからコーヒーは鯉登がドリップで淹れるようにしている。もっとも、月島は自分ひとりのときにはやはりインスタントを飲んでいるようだが……。
ドリップバッグの封をペリペリ切ってマグカップにセット出来たら、湯を少し垂らして粉を膨らませる。コーヒー用のケトルがあるとやりやすいのだが、あいにく電気ポットからの直だ。それでも器用な鯉登は、大体どちらのマグカップも同じ量になるよう、2回3回と小さいドリップバッグの中へ湯を注ぎ足して、およそ3分後、コーヒーは出来上がった。
「出来たぞ~」
「はーい……」
低い返事をしながら、月島は寝転がってソファを占領したままで携帯をいじっている。
「おい座らせろ」
無言で月島が両膝を立てて鯉登がぎりぎり座る分のスペースを開けた。マグカップふたつをローテーブルに置いて、鯉登がソファに座る。くるりと横を向いて、月島の膝に手を掛けてがばりと開いた。
「おいっ」
「はい?」
「聞いとるんか!」
携帯をちょいとずらして月島が顔を覗かせた。
「聞いてますよ。あとそういうことをしない」
「ならこういう姿勢を取るなやりたくなるから」
「……返信考えてるのでちょっと待ってください」
再び月島は携帯の方に目をやってしまった。鯉登がムスッと不機嫌な顔になって、月島の膝の間に自分の身体を割り込ませた。ちら、と月島の目が揺れたふうに見えたが、それだけだった。鍛えられた腹筋の上に顎を乗せて呼びかける。
「なあ~」
「もうちょっと待ってください」
月島が話すのに合わせて、振動が直に頭に伝わってくるのは少し面白いな、と思いながら、鯉登はのしかかったままずりずりと進んだ。
「そんなに大事な内容か?」
「仕事の」
「休みの日に仕事を持ち込むのは健康的じゃないぞ」
「う……」
文字を打つ手が止まる。鯉登の言葉に一理あると思ってか、月島が渋面になった。もう一押しすればいけるのではないか、と鯉登はなおも月島の身体を這い上がる。
「なあなあつきしま~……」
「……いや、向こうだって休みなんです。それで送ってきたってことは急ぎなんですから、こっちも早く返したほうがいいんです。そうでしょう?」
「ぐぬぅ……それは……」
理屈はわかるだけに言い返せず、今度は鯉登が顔をしかめた。月島の部屋着をぎゅっと握って唸ってみせる。
「うぅ~……」
「もう少しなので」
言いながら返信を求められている内容について月島は考えを巡らせた。スケジュールを確認し、トトトと指先を忙しく移動させる。
突然、月島の顔と携帯の間に、ずぼっと鯉登が顔を突き出してきた。両手で携帯を掴んで文字を打っていたので、ちょうど空いていた隙間に鯉登が顔をねじ込んだのだ。
「な……犬ですか!」
「まだかまだか~」
「間違いないか確認してるんですからまだ待っててください」
月島の上で「伏せ」の姿勢になり、鯉登が上目遣いで恨みがましそうに見上げる。心なしかうるうるとして、無駄に罪悪感と庇護欲を掻き立ててくる。突き刺さるような視線を感じながら、月島はさっと文面を読み直してトンと「送信」を押した。追加で質問が来ないよう、関連した内容まで念入りに書き添えて送ったので、このメールはこれっきりでいいだろう。
「終わりました」
「よし!構え!」
目をきらりと輝かせて勢いよく鯉登が頭を上げた。その急な動きで月島がつい手を滑らせ、落下した携帯電話が鯉登の頭を直撃した。
「あだっ」
「ああ、すいません」
月島は片手で鯉登の後頭部をさすってやりつつ、携帯を拾ってローテーブルへ避難させた。むすっと頬を膨らませて鯉登は月島に訴える。
「いたわりが足りとらん!もっと!丁寧に!」
「はあ……わかりました」
小さなため息をつくと、月島は鯉登の頭を胸の中に包み込むように抱きしめた。
「!?」
鯉登の目が丸くなる。月島はぶつけたと思しきあたりを優しくかき混ぜるように緩く撫でてやった。空いた手の指先が襟足に戯れるようにふわふわと動いて、時折うなじを掠めていくので、鯉登は擽ったいのを堪えるのが大変だった。
「……おい……撫で方がいやらしいぞ……」
「え?そう思うほうがいやらしいのでは……」
「だってシてるときと撫で方が似とる」
「……そんなの覚えてません」
「こっちは覚えとる」
「…………」
黙ってしまった。それでも月島の指先が愛おしそうに触れてくるので、鯉登はたまらなくなった。
「……なあ……」
のそっと鯉登は顔を上げた。首を伸ばして、上から月島をじいっと甘えるように見つめる。
「……え、と」
困ったように月島の眉毛がハの字になった。そのままたっぷり見つめ合ってから、鯉登は目を閉じて唇を突き出した。月島はわからないふりをするから、このくらいわかりやすく「おねだり」してやるほうが効き目があるのだ。
またも小さなため息。目を閉じていても、この距離だからわかる。
月島の両腕が首に回され、鯉登は期待に心臓が飛び跳ねるのを感じた。どきどきしているうちに、顔が引き寄せられていって――ちゅ、と触れる感触があったのは額だった。
――ん?
目を開くと飛び込んできたのは月島の髭である。
「んん!?」
「はい、これでいいですか」
ぱっと腕をほどいて、何事もなかったような顔で月島が小首を傾げた。
「い、いいわけないだろう!」
「でもコーヒーが冷めちゃうので……」
「それはお前が……!」
「鯉登さんのコーヒー飲みたいです、だめですか……?」
「くっ……」
不満たらたらに仕方なく鯉登は月島の上から退いた。軽やかに身を起こして座り直した月島を横目に、ハァ、と顔を覆って嘆息する。
「お前に甘えられると弱い……」
「日が昇ってるうちは理性が勝ってくれるようでありがたいです。まあ、お互い様ですよ」
「だといいんだがなー……」
拗ねたように鯉登が呟いて、自分が淹れたコーヒーを啜った。
月島もまた、用意してもらったマグカップを手に取り、一口飲む。
芳醇な香りが広がり、落ち着いた温度が渇いた喉を絹のようにさらりと流れ落ちていく。カップの水面が不自然に揺れているのを気づかれないように、月島はもう片方の手を添え両手でしっかりカップを包んだ。