7月上旬、梅雨が明けていよいよ夏が始まろうとしている今日この頃。
朝練に励む生徒たちの掛け声を聞きながら、リネンはいつも通り校門をくぐった。
声をかけられればにこやかに挨拶を返し、よく知る友人がいれば自分から声をかけ。
これから訪れる変化に気付くこともなく。
「おはよー、魅朕ちゃん」
下駄箱に着き、そこにいた見知った顔の女子生徒に声をかける。
魅朕がむっつりした顔で見上げてくるのを気にするでもなく、リネンは自分を手で扇ぎながら話しかけた。
「今朝も暑いねぇ」
「そうね」
「魅朕ちゃん、そんな背中に髪垂らして平気なの?」
「そんな風に見える?」
柔らかく量が多い髪を梳きながらリネンが言うと、魅朕は元から鋭い目をさらに吊り上げながら手を払う。
「早く靴履き替えなさいよ」
「分かってるよー」
叩いてくる手をよそに自分の靴箱を開けるリネン。
その時、靴箱から大量の何かが飛び出した。
「うわっ!」
思わず魅朕とともに後退る。落ちてきたそれを二人で見てみると、それは大量の紙だった。長方形やらハート型やら、色々な形に折られたルーズリーフに、ハートのシールで封がされており、いかにもラブレターといった風情がある。
「相変わらずモテるわね」
「こんなにたくさん入ってたのは流石に初めてだよ」
魅朕がからかってくる横でしゃがみ込み、手紙を残らず拾う。
「ねえ」
その時、廊下の方で中性的な声がした。顔を上げると、一人の大柄な女子生徒が下駄箱の隣に立ちこちらを見ている。
「ザイカ」
魅朕が呼びかける。立ち上がるリネンの手元を、ザイカはまっすぐ指差した。
「それ、ぜーんぶ読んでね!」
「は?……これ、まさかアンタが、」
「じゃーねっ!」
「あっ、ちょっと!」
魅朕が呼び止めるのも聞かず、ザイカは言いたいことを言ってそのまま走り去っていった。魅朕がすかさず後を追うが、小柄な彼女では到底あの長い脚には追い付けないだろう。
取り残されたリネンは、拾い上げた大量の手紙を見つめながらしばらく立ち尽くし、程なくして我に返り手紙をカバンに押し込んだ。
教室で手紙を取り出したリネンの机を、数人の男女が取り囲んでいる。その中には隣の席の魅朕もいた。
「しっかし、ザイカがお前にラブレターとはなぁ」
前の席に座る男子生徒が不思議そうに口を開いた。
「あの学年一の問題児がまさかお前を好きだとは」
「羨ましいぞーこの野郎」
「もー、やめてよ」
別の男子生徒が小突いてくるのを笑いながら受け流すリネン。この場にいる者は全員、やけに神妙な顔で手紙を見下ろす魅朕を除けばこの状況を楽しんでいるようだ。
「つかこんな大量に一人で書くとか……」
「流石に学年一の問題児はやることが違うよね」
「中身はどうなってるんだか……早く開けてみてくれよ」
前の男子に急かされ、リネンは大きく『①』と書かれた手紙を開く。入っていた手紙にはすべて番号が振られており、恐らくはこの順番で読めというザイカのサインなのだろう。
破いたものをテープで繋いだと思しきルーズリーフにはこう書かれていた。
『突然のお手紙ごめんなさい。きっと驚いたよね。
これまで話したことも、顔を合わせたこともないけど、あなたのことが好きです。ずっと前から好きでした』
「……え、そんだけ?」
「あのザイカにしては丁寧な字だな」
リネンの周りから手紙を覗き込んだ生徒たちが口々に感想を述べる。
「あいつにこんな理知的な文章が書けるとは思えないけどなぁ」
「言うてアレじゃん、テレビで馬鹿やってる芸人だって、あれで案外色々考えてたりするべ」
「えーでもさぁ……あいつがそれだったら何かヤじゃね?俺的にはザイカにはずっと考えなしのガキでいてほしいっていうか……」
「お前はあいつの何なんだよ」
すると、今まで黙っていた魅朕が口を開く。
「あんた達如きが好き放題言うんじゃないわよ」
「うわっ出た」
「こわ~……」
わざとらしい仕草で怯える男子たちをよそに、魅朕はどこか不機嫌そうにリネンに促した。
「まだ結構残ってるでしょう、早く読んじゃいなさいよ」
「あ、うん……」
魅朕の剣幕に押されつつ、リネンは二番目の手紙を開いた。
『思えば入学式の日、長い髪を風になびかせながら、桜を眺めるあなたを見た時から恋に落ちたような気がします。桜吹雪の中に佇むあなたは周りのどの生徒とも違う世界に生きている感じがして、どうしようもなく惹かれました』
ここまで読んだ瞬間、チャイムが鳴り担任が入ってくる。
「やべっ」
周りの生徒たちも蜘蛛の子を散らすように自分の席に戻っていき、後にはリネンと魅朕だけが残った。
「……大丈夫?」
担任が話しているのを尻目に小声で魅朕に話しかけるリネン。魅朕は不機嫌そうな顔をますますしかめて、
「何よ」
「いや、何か怒ってるのかなぁって」
「別に。……早く前向きなさいよ」
低い声で言われ、リネンは慌てて手紙をしまい前を向いた。
それから、授業の合間だったり休み時間などの合間を縫って、リネンは手紙を読み進めていく。
手紙の一枚一枚はごく短い文章で、リネンのこういうところ惹かれたというものが大半を占めている。
『あなたはいつも人に囲まれていて、いつもその中で一番笑顔が輝いている。どんなに周りが騒がしくても、ひとたびあなたの笑い声が聞こえたら僕にはもうそれしか追えなくなってしまう』
『よく、あなたが慌ただしく廊下を駆けているのを見る。聞けばああいう時は大抵何か頼まれごとを引き受けている時みたい。誰かのために頑張れるところが素敵だなと思う一方で、頑張りすぎていないか心配になる』
授業をよそに、窓の外から校庭を見下ろす。隣のクラスの生徒たちが体育の授業を受けているようだ。
(あ、アレって)
ふと、リネンは見覚えのある姿に気づいた。灰色の髪を高い位置で結んだ、周囲の女子たちはおろか、男子と比べても遜色ないほどの大柄な女子生徒。今朝下駄箱で自分に声をかけてきたザイカだ。隣を歩く男子生徒にしきりに絡んでいる。男子生徒は慣れているのか逆らえないのか、特に嫌がる様子もなくされるがままだ。
その時、彼女と目が合った。隣の男子の肩をめちゃくちゃに叩き、こちらを指差してくる。しかし、男子生徒はリネンと目が合うなりそそくさと歩き去ってしまい、ザイカは不服そうに何かわめきたてた後、こちらに大きく手を振ってから男子生徒を追いかけていった。
それに小さく手を振り返し、教師がこちらに背を向けているのを確認してから次の手紙を開く。
『たまに、苦手な授業でかつ特に寝る気分でもない時には、窓から校庭を見下ろすことがある。他のクラスの生徒が体育の授業を受けているのを眺める。その時にちょうど、ジャージを着て走るあなたが見えると、今日はいいことあったな、と思えるのだ』
リネンは思わず目を瞠った。まるで今の自分の状況を写したかのような手紙の内容。今自分がしていたように、ザイカもまた授業を受ける自分を見下ろしていたというのか?
「ではここの音読を――おい、リネン聞いてるか?」
「!」
教師の呼ぶ声が聞こえて慌てて顔を上げる。しまった、手紙を読むのにかこつけて全く聞いていなかった。
「はい、えっと……」
「教科書の音読だ。魅朕、読むところ教えてやれ」
周囲からクスクス笑われながら、魅朕に段落の箇所を教えてもらう。彼女からの呆れた視線が突き刺さって、何とも居心地が悪い。
何とか読み終えて机に突っ伏すと、笑い声がますます大きくなった。
『あなたと同じクラスの人間が羨ましい。あなたの音読を同じ空間で聴くことができるんだから。あなたの声を一番近い場所で聴けるくせに、それがどれだけすごいことか気づいていないんだから。代わってくれればいいのに』
昼休み、昼食を終えたリネンは委員会の仕事のため図書室にいた。
といっても、昼休みにここを利用する生徒はあまり多くない。貸し出しや返却がなければ、リネンはただカウンターに座り、本を適当に読むだけだ。
しかし、今日はラブレターを一式持ってきていたのでそれを読むことにする。もうだいぶ読み進めてきて残りは少ない。……それにしても、よくもまあこんなに小分けにして書いたものだ。どうして一枚にすべて書き切らなかったのだろう?
……魅朕や周囲はこの手紙をザイカが書いたものと思っているようだが、リネンは疑い始めていた。何となくだが、彼女は別の人間から頼まれるなりして手紙を持ってきたのではないか?と思い始めていたのだ。そして、次の手紙を開き確信した。
『本は好きだ。本を開いてるうちは他人のことなんか気にしなくていい。あんまり難しいものは頭がくらくらするけど。それに、図書室も好きだ。いろんな本があるから。静かで落ち着くから。そして何より、あなたに出会えるから』
(……俺が知る限り、彼女が図書室まで来たことはない)
思い返してみる。あんなに目立つ生徒がここに来たことがあれば、確実に覚えているはずだが、どんなに記憶をたどってもザイカがここに現れたことはない。
なら、この手紙を書いたのは一体誰なんだろう?ザイカに近しい人間か、はたまた誰かに頼まれたのか。そんなことを考えていると、カウンターに誰かが立つ気配がしたので顔を上げる。
髪も肌も白い、人相の悪い大柄な男子生徒が目の前にいた。逆立った柔らかそうな髪の一房が額にかかっている。おどおどした感じでこちらを見下ろしながら、こちらに本を差し出してきた。
「返却?」
問いかけに頷いた男子生徒が、今度は別の本を差し出してきた。今渡してきた本の下巻だ。今度はこちらを借りるのだろう。
上巻の方を受け取ってから下巻の貸し出し手続きをする。といっても、本についているバーコードを機械で読み込むだけの簡単な作業だ。
「どうぞ」
「…………」
作業はすぐに終わり、貸し出し予定の本を男子生徒に差し出す。
「来週には持ってきてね」
本を受け取った男子生徒が頷く。彼は何度か図書室で本を借りに来ているが、とても無口でリネンは彼の声も聞いたことがない。自分と同学年で、隣のクラスにいることは知っているが……。そういえば、先程授業中にザイカと目が合った先に彼も一緒にいた気がする。仲がいいのだろうか。
「…………あ」
ふと、男子生徒の口から小さく声が漏れた。リネンが彼の方を見ると、男子生徒は何かを見つけて驚いた顔をしている。その視線はリネンの方ではなく、厳密には彼の傍らに向けられているようだ。
「?」
視線の先を追ってみて、リネンは気づいた。彼はリネンが手元に広げていた手紙に気付いたらしい。
「これがどうかした?」
目の前に掲げて見せると、男子生徒は途端に青ざめた。
「あ……あ……」
肩で息をしながら、その顔はどんどん赤くなっていく。
やがて、
「! あ、ちょっと!」
半ばひったくるようにして手紙を奪ったかと思うと、男子生徒はそのままものすごい勢いで走り去ってしまった。
「………………」
呆然としながら、リネンは手紙の真の差出人にこれで気づいてしまった。あれではほとんど手紙の差出人は自分だと知らしめているようなものだ。
(どうしようかな……)
それから瞬く間に午後の授業は過ぎ、放課後となっていた。
「どうすんだよリネン~、返事すんのか?」
荷物をまとめているリネンに、前の席の男子生徒が話しかけてくる。
「お前とザイカがくっつくとなると、男子も女子も大勢が涙を呑むことになるだろうな」
「まあ、何かしら返事はするつもりだけど……」
そう言って、リネンは最後の手紙を彼に見せる。今までのものとは明らかに違う筆跡で、
『放課後校舎裏!!!!』
と書かれている。
「……果たし状かよ」
「そういうわけだからもう行くね」
「おっ、覗き見しちゃおうかな~~~~」
すると、魅朕が横からその男子生徒に話しかける。
「アンタは委員会の打ち合わせがあるでしょうが!早く行くわよ」
「分かってるよ!またな~」
魅朕に引きずられるようにして教室を後にする男子生徒を見送り、リネンも鞄を持って立ち上がった。
校舎の裏に着いたリネンは、建物の影から何やら男女の争う声が聞こえるのに気付いた。聞き耳を立ててみると、片方は聞き覚えのある声。ザイカともう一人がそこにいるようだ。
「ほらぁ、大大大チャンスだよヒョウガ!」
焦れたようなザイカの声がする。
「せっかくあたしがお膳立てしてあげたんだからさぁ、活かさない手はないでしょ!」
「そんなの頼んでない……!」
それに対し、男の声が言い返す。……何となくだが、昼休みに聞いた覚えがある気がする。
「そっちが勝手に下駄箱に入れた癖に……!」
「じゃああんなの最初から書かなきゃいいじゃん、ラブレターなんかさぁ」
「……それは……」
何となくだが、事情が見えてきた。恐らくだが、告げられない想いを抱いて葛藤している彼を見かねたザイカが、彼がこっそり何枚もしたためていたリネンへの手紙を盗み取り、リネンの下駄箱に入れたのだろう。
「早く行ってきなよ!呼び出してあげたんだから!」
「どうせ来てないよ……」
「わっかんないじゃんそんなの!」
いよいよザイカの声に怒りが滲み出てきたのを受け、リネンは自分から彼らの元へ飛び出した。
「やあ」
「!!!」
目の前に現れたリネンを見て、ザイカともう一人が目を見開く。男は案の定、今日の昼休みに図書室に来たあの男子生徒だった。
リネンの顔を見てザイカがにやりと笑う。
「よくぞ来てくれた!じゃあ頑張りなよ!」
そうして、男子生徒の肩を叩いて歩き去ろうとする。男子生徒が引き止めようとするが、ザイカはそれをひらりとかわした。
「! ちょ、」
「ばいば~い!リネちゃ!ヒョウガのことよろしくね~~~~」
「リネちゃ……あ、うん。バイバイ」
そのまま風のように去ってしまったザイカに手を振りつつ、リネンは男子生徒――ヒョウガと向き直った。
「ええと、ヒョウガくん」
「……!」
呼びかけると、ヒョウガの肩が大きく跳ねる。人相が悪いわりに、その表情は何だか迷子の子供のように心細げだ。
そんな彼を怖がらせないように、努めて優しく話しかける。
「あの手紙は君が書いたものなの?」
「………………」
ヒョウガは俯いて黙り込み、視線をあちこち彷徨わせた後頷いた。何だか落ち着かなそうに手を組んで目を合わせようとしない。
「あの内容は本心?」
「……?」
目が合わないのはひとまず気にせず再び質問する。すると、質問の意図が理解できなかったのかヒョウガが顔を上げた。赤い透き通った目がこちらを見つめてくる。
「ええと、あれは本当に、君が俺に対して思ったこと?」
「…………」
もう一度聞くと、ヒョウガはややあって頷いた。
「………………ごめんなさい」
そして、再びじっと俯きたっぷり間を置いてから、こう言った。広い肩を落とし、今にも泣きそうな顔と声で震えている。
「謝ることないよ、嬉しかったよ?」
「…………?」
ヒョウガが再びリネンを見る。泣きそうな顔をしつつもやや不思議そうに首を傾げていた。
「ほら、誰かに好きって思ってもらえるのは、それがどんな種類であれ俺は嬉しいと思うし。だから、君のあの気持ちも嬉しかったよ」
そう、それが紛れもないリネンの本心だった。男同士の恋愛に偏見があるわけではないし、愛というのはどういうものであれ、素敵なものだと思うからだ。
「でもね」
「……」
「正直な話、同じように君のことを好きになれるかは分からないんだ。俺達、まだ知り合ったばっかりでしょ?」
「………………」
リネンが続けると、明るくなりかけていたヒョウガの表情が少し暗くなる。振られる予感を抱いているのか不安そうだ。
そんなヒョウガに、リネンは問いかける。
「だからさ、まずは友達から始めてみない?」
「!」
続いた言葉が予想外だったのか、ヒョウガが何度か瞬きをする。きょとんとした顔は何だか幼く見えた。
「ほら、俺としても君のこともっと知りたいし……どうかな?いい考えだと思うんだけど……」
「………………」
言われたことを反芻するように、ヒョウガは俯いてじっと考え込んでいる。その様子を見ながら、リネンは彼の答えを待つ。二人の沈黙をよそに、校庭の方では運動部の部員たちが部活に励んでいる声が聞こえてくる。
やがて、先程よりも長い間の後ヒョウガは小さく頷いた。
「よかった、これからよろしくね」
リネンがにこりと微笑み手を差し出すと、ヒョウガはぎこちなく頷いた。
互いの手を握ると、ヒョウガの顔がだんだん赤くなっていく。それを見てリネンが笑うと、ヒョウガはますます赤くなり固まってしまった。
翌日、またリネンはいつも通りの時間に校門をくぐる。
いつも通り友人に挨拶し、挨拶されればにこやかに応える。
……ふと、リネンは立ち止まった。そのままいつもの昇降口へは行かず、その近くにある水飲み場へ向かう。そこに見覚えのある白い頭を見つけたからだ。
「ヒョウガくん」
「!!!」
水を飲み終えたその肩に手を置いて呼びかけると、ヒョウガが大げさに震えて振り向いた。
「おはよ」
「………………」
酷く驚いたその顔に笑いかけ、挨拶する。ヒョウガは驚いた顔で何度か瞬きをした後、下を向いた。
「…………おはよ」
そして、ひっそりした声で挨拶を返す。
満足したように笑い、リネンは再び話しかけた。
「朝練?ご苦労様」
「…………」
「よかったらお昼遊びに行こうか?君のクラスに」
「!!!」
弾かれたように顔を上げるヒョウガ。
「友達がいつもそっちに行くからさ、俺もついて行こうと思って」
「…………」
「そうしたら色々話そうね」
「………………うん」
ヒョウガが頷いた直後、校庭の方から招集を呼び掛ける声が響く。
「あ……」
一瞬校庭の方とリネンを交互に見比べた後、ヒョウガはリネンに頭を下げて走り出した。
その背中にリネンは手を振りながら呼びかける。
「また後でね!」
ヒョウガは立ち止まり、振り返って軽く手を振った後、再び校庭の方へ走って行った。
リネンもそれを見送り、昇降口へ向かう。
いつもと同じ日常は、それから少しずつ変わっていくのだった。