涙のゆくえ「若いのに古寺くんはきちんとしてるね。ちゃんと使えるものは使おうとしてて」
閉鎖環境試験初日の夜、話し合いの結果、5番隊の二人部屋の寝室を割り当てられたのは隊長の来馬と弓場だった。
今日の振り返りと、明日の予定の洗い直しをざっとした後、ふと思い出したようにベッドに腰かけた来馬はそう、口にした。
「でも結構まっすぐなアプローチだから、もう少し駆け引きっていうかそういう綾みたいなものを覚えられるといいかもしれないね」
「ッスね。あの調子で諏訪さんあたりに伺ってたんだとしたら、ちったァ痛い目見たかもしれねェーと思います」
「でも、それも経験だからね」
ふふ、と優しげな口元を楽しそうにほころばせた。
試験に於いてはライバルの立場とはいえ、若木が育つのを感じてだろう、来馬は嬉しそうだった
それは、自隊で一世代若いメンバーを抱える弓場も同様だった。
「でも、古寺くんのおかげで何となくだけど、傾向みたいなもののヒントはもらえたかな。ぼくの得点はたぶん隊長ブーストってところじゃないかな。弓場くんみたいに、今回の試験の異議を具体的に提案してはいないから」
「そんなことはありゃァしませんでしょう」
そうかな、と来馬は小首を傾げた。
成人した男性ではあり、決して華奢というわけではないけれど、その育ちの良さが伺える品のある立ち居振る舞いや、首から肩の線にかけてのなだらかなラインなど、人の気持を惹きつけるものを備えている人だ、とこうして改めて闘いの場や大学以外の場で一対一で向かい合うと思い知る。どうせ同性に惚れるなら、こういう人を選べばいいものを、とこの試験に赴く前々日に抱き合った青年を思い浮かべる。
多くは伝えなかった。
ただ、九州へと出立する日には見送れなくなった、とだけ神田には言った。
しかし聡明な彼は、詳細は分からずとも、それがボーダーに於ける重要な案件であるということは察したのだろう。分かりました、とだけ返して、そして、今日なら一緒にいられますか? と感情を押し隠して、それでも笑って訊いたのだった。
当たり前だ。だからわざわざおめェーんトコに押しかけてやったんだろうが、と弓場もあえて剣呑に笑いながら返した。
『眠りたくないなあ。ずっとこうして弓場さんの顔を見ていたい。この夜が明けなければいいのに』
ふたりでは狭苦しいセミダブルで、裸の肩を寄せ合いながら、神田が抑えきれぬ胸臆をこぼすように、寝息交じりに呟いた言葉。
弓場とて愛惜の情がないはずもなかったのだけれど。
『知らねェー場所でままならねェーコトもあるだろうが、てめェで決めたことだ。しっかり努めてこい』
『神田、了解。三門をお任せします』
『おう』
とても、情人同士の別れの場とは思えないようなやりとりをして、弓場は神田の部屋を後にした。
それが、たぶん、自分たちには一番似つかわしいものであったはずだ。
だが、それでも。
「弓場くん?」
いぶかしそうな来馬の声に、弓場ははっと我に返る。記憶と共に蘇りそうになる、神田の熱や匂いをもはや過去のものと心中に押し込んで言葉を継いだ。
「来馬さんもそれくらい気がついてらしたでしょう。俺たちが意見を出せるようにそれとなく導いてくれてた」
「それに気が付く弓場くんだって気がついてたんじゃないか。いや、弓場くん風に言うなら『理解』ってたって感じかな」
と、来馬は少しだけ茶目っ気を交えて答えた。けれど、まるで今しがた弓場を捉えた甘く苦い追懐を見て通したかのように、彼は訊ねる。
「神田くんはそろそろ発つの?」
「……ッス」
言葉少なく、そうとだけ弓場は答えた。
「そう、淋しくなるね」
「はい」
「高校の入学式で、弓場くんが蔵内くんと一緒に神田くんを紹介してくれた時は、こんなに細っこい子がボーダーなんてやれるのかなって思ったけど、あっという間に弓場くんが背中を預けるに足る頼もしい隊員になって……偉いな。ちょっともったいないくらいだ。こう言ったら弓場くんには怒られちゃうかもしれないかな?」
「来馬さんを怒るなんて、とんでもない。でもありがたいッス。うちのをそう言っていただいて」
「正直なところを言っただけだよ」
でも、と来馬は言う。
「神田くんが三門に残る選択をしてたら、この試験ではどうなってたのかなって思っちゃうな」
「上層部はどんな役回りを期待してるか、ということッスか」
「そう。弓場くんだって、今回のドラフト会議がまったく何の作為なしに公平に行われたなんて思ってないだろう?」
「はい」
来馬の言葉に誘われるように、弓場は想像する。神田がもし三門に残る選択をしたとしたら、歌川や水上たちのように隊長不在時の隊長代理として試されているのかもしれない、と。そして、無意識に幹部候補から外した自分に気づいて苦笑した。
あれの将来はボーダーの外にある。それは、弓場の中で譲れない。譲ってはいけないものだった。その未来を選んだ神田の尊厳の為にも。
「口幅ってェーですが、考えるだけ野暮なコトッスから」
「そう。……弓場くんは本当に神田くんのことが好きだったんだね」
「来馬さん!?」
「違った?」
まさか関係を悟られていたのかと血相を変えた弓場に対して、来馬はむしろおっとりとした様子で問い返す。
「ああ、もちろん、今ぼくが指摘した『好き』は部下として以上の意味だよ」
「追い打ちが得意たァ思ってもいませんでしたよ、来馬さん……」
「鈴鳴の戦術は日々進化してるからね」
巧く悪戯が成功したこどもみたいに、あどけなく鈴鳴第一の隊長は告げる。だが、ふっとどこか寂寥めいた影が一瞬だけその顔に射す。
「同類相哀れむっていうのもあるかな。じゃなきゃ気づかなかったかもしれない。……いくらヒントがあっても」
「ヒント?」
「さっきまでは、換装してたから分からなかったけど」
と来馬は掌で自分の左の首筋を撫でてみせる。
弓場は思わずひゅっと息を呑んで、来馬が掌を置いたのと同じあたりを手で覆った。
あの夜、神田は弓場の名を呼びながら、そこに幾度となく疼痛と恋情の口づけを落していたのだから。
しばし、首筋と目の当たりを押さえ、弓場にしては覇気に欠けた声で何とか応じる。
「……見られたのが、来馬さんで良かったッス」
「だね。小荒井くんや小佐野さんにはちょっとまだ早いかな。ごめんね、弓場くん」
「いえ、これは、全部、自分の手抜かりッスから……」
「いや、そうじゃなくて。神田くんが三門に残ったらなんて『もし』を言ってしまって」
「……」
「弓場くんも、神田くんも、そのあたりは全部呑み込んだ選択なんだから」
「そこまで偉ェもんじゃねェーッスよ」
「そうなの?」
「……もし、こないだの大規模侵攻以上の近界からの攻撃があって、例えば本部が機能しなくなったとしたらベイルアウトシステムもおじゃんになる可能性が、絶対にねェーとは言えないでしょう」
「そう、だね」
アフトクラトルの人型近界民の強化トリガーと対峙した経験を持つ来馬は、僅かに表情を強張らせて頷いた。
「絶対に何事も起きねェーって保証はない。けど、九州に行ってくれてたら、少なくとも俺の目と鼻の先でマズいことにはなりゃァしません。だから、あいつが九州に進学を決めた時は、正直、ホッとしたんスよ」
「弓場くん」
それは神田にすら伝えていない、弓場のもうひとつの本音だった。
安全の為に、関係に何の瑕疵もない妻子と離別した鬼怒田室長を笑えない。
「この先、防衛に残るにしろ、遠征に行くにしろ、万が一があったとしたら、神田は俺を覚えてくれてる。そう思ったら……いや、俺のことなんて忘れちまってくれたほうがありがたい、ッス」
情ねェーもんだな、と弓場は、この人なら受け止めてくれるだろうという甘えを承知で、ずっと抱え込んでいたものを吐露した。
「肌なんて重ねるモンじゃァねェーっすね」
「どうしてだい?」
問い質す声はひたすらに柔らかで、博いものだった。
「なかったものが、重なった時間と熱からどうしても生じちまう。こんなコトなら、迂闊に寝てくれなんてェー頼みに頷くんじゃァなかった。……バカですよ、俺は」
「それはちょっと違うんじゃないかな」
「ェ?」
「元々あったんだよ」
弓場くんの中に、と来馬はかたちよく整えられた品のある指先が自らの胸を指し示しながらほほ笑む。
「小さな種が。それが芽吹いて育っただけのことじゃないかってぼくは思うんだ」
それに、いつかは三門市に帰ってくるんだろう? と来馬は優しく問いかける。
「……どうスかね」
「そうなの?」
「神田の気持を疑うわけじゃァねーですが、あいつは見栄え以上に気性のいい男で、惚れてくれる奴もきっといる。寄せられる好意を無碍にするような真似はして欲しくはないですし、あっちで生活の基盤を築いたってそれはそれでいい。自分の夢を追うのに、幾らでも選択肢はある、はずっスから」
口腔に広がるわずかな苦さを噛み殺しながら告げる弓場を、来馬は静謐な、けれど深いものをたたえたまなざしでじっと見やる。
「だったらこっちでのことなんざァ、若ェ時分の一時の気の迷いで済ませてくれりゃァいいんです。妙な義理みたいなもので、あいつの可能性を封じちまうことになったら俺は、てめェ自身を許せねェッス、きっと」
「弓場くんは厳しいなあ、自分にも、ね」
「いえ。ンなことないっス」
ため息のように呼気を含ませながらの来馬の言葉に、弓場は自分の多弁を恥じ入るように、軽く頭を下げた。
「ごめんね、試験とは関係ないことで煩わせてしまったみたいで」
だが、弓場は、いえ、と首を横に振った。
「誰かとあいつの話をできるのは、嬉しいッス」
「そう。じゃあ、いつか、ぼくも弓場くんと話すことがあるかもしれないね。あの子は神田くんと逆で『帰る』場所があるから」
「来馬さん?」
「あの子には、自分との折り合いの付け方をここで覚えて、巣立って欲しいんだ。だって彼にはここで青春を費やす義理も義務も責任も本当はありはしないんだ。だから、ぼくは……」
それが、誰なのかとは、聞けはしなかった。来馬があえて言葉にしない「あの子」。それを察せない弓場ではなかったが、それを問う愚も冒せなかった。
だから告げられる言葉は多くなく。
「強いですね、来馬先輩は」
「そんなことないよ」
常夜灯の柔らかな光に照らされて、来馬は囁く。
穏やかで優しく、けれどその軸は炎を灯し続ける蝋燭の芯のように、すっと通って他者を照らし続ける。高校の時から反対する親族を説得し続け、ようやく大学入学と同時に許しを得て、この街を守る闘いに身を投じた人だった。それを、弓場はひとつ下の立場からずっと見ていた。
人として、彼のようにありたいと思った男は、弓場にひっそりと笑いかける。
「その日が来たら、きっと、ぼくは泣いてしまうよ。弓場くんみたいに我慢できやしない」
「泣くのが、弱さじゃないと俺は思います」
「……」
ゆっくりとまばたきする、来馬の瞳に映る己の顔がどんな表情をしているのか、メガネを外した弓場には確かめることが出来ず。だから。
「涙にしちまうのが、俺は、怖ェーんです」
ほう、とため息をついたのは果たして、弓場と来馬のどちらだったのか。それともどちらもだったのか。
「そう。そうなのかもしれないね」
おやすみ、と来馬が眠りを促す言葉と共に、外界から切り取られた空間の、戦いに身を置く者たちはベッドへと横になった。
それぞれに想う人に、安らかな夢と豊かな未来が訪れることを願いながら。
そこに、いっそ自らの姿などないことも。