6ペンスの恋人――おとうさん、これなに? 何円硬貨?
神田がまだ小学校に上がる前のことだった。
何かを探していて開けた、父親の部屋のデスクの引き出しの中に、古いコインを見つけて尋ねた。
コインには女性の横顔と、反対側には植物のような模様だけがあって、神田が知っている硬貨のようにどちらかには大きく額面が印されていることはなかった。
――ああ、それはイギリスのお金だよ。だいたい十円くらいになるのかな。と言っても、いまは使われてないんだけど。
そう教えてくれた父は、懐かしいなあ、と息子の小さな手の中にある、銀色の古びた銀貨を見て目を細めた。
――ええと確か、そう、Something old, something new, something borrowed, something blue, and a sixpence in her shoe.
耳慣れない異国の言葉を父が口ずさむ。どこか夢見るように。
きょとんとした神田に父親は教えてくれた。
それは外国の童謡で、なにかひとつ古いもの、なにかひとつ新しいもの、なにかひとつ借りたもの、なにかひとつ青いもの、そして靴の中に6ペンス銀貨を、という意味で、結婚式に花嫁が身につけると幸せになる四つのもの《サムシングフォー》のことで、これはその6ペンス銀貨だと。
でも指折り数えてみた神田は首を傾げた。五つあるよ、と。だったらこのコインは仲間外れなの?と。
うーん、どうしてだろうな、と父親は少し考えて口を開いた。前の四つはそれが示す言葉にちなんだものなら何でもいいけど――サムシングは『何か』って意味だからね――、コインは6ペンス銀貨って決まってるからじゃないかな。なんで6ペンスなのかはさすがにお父さんも分からないけど。ああ、そうだ、忠臣。
――なに?
――それはおまえにあげよう。そしておまえがもっと大きくなって――
神田が覚醒を促されたのは、鼻腔をくすぐるふくよかな芳香のせいだった。
「ん……」
寝返りを打とうとして、いま自分が寝ているベッドのレイアウトが違うことに気づいて、そこが自分の部屋ではないことを思い出す。
引いたカーテンからこぼれる曙光に目を細めた神田の視線が、二口コンロとシンクだけの単身男性向けのシンプルなキッチンの前に立つ、そのすらりと伸びた背へと移される。
嗅いだだけで苦さとほんの少しの酸味が舌の上に思い起こさせるそれは、部屋のあるじである弓場の手元から薫っていた。
最後の一滴がドリッパーからサーバーに落ちるのを待ってから、弓場はふたつのマグカップにその琥珀色の液体を注ぐ。
「目が覚めたら、さっさとベッドから出ろ、神田ァ」
身じろいだ神田の体が軋ませた音で気づいたのだろう、弓場は背を向けたままそう告げた。
「弓場さんのほうが先に起きちゃうんだ」
隊長の言葉に従ってベッドから降りた神田は、そのままぺたぺたと足音を立てて、彼の肩に顎を乗せて手元を覗き込む。
「おめェ―が夜明けのコーヒーが飲みたいなんて甘ったれたことぬかしやがるからわざわざ早起きして用意してやってんだろ。文句あンのか?」
文句なんてあるはずないですけどーと神田は弓場の腰を抱く。昨夜指の形が残るほどに強く掴んだ腰を。
「どうせなら、ベッドでまだ寝ぼけまなこの弓場さんに、俺が焼きたてトーストとスクランブルエッグとサラダとコーヒーのモーニングを用意したかったんだけどな。『おはようねぼすけさん』って目覚めのキスをして」
「だったら、これでいいか。これで、オラ」
コーヒーを注ぎ終えた弓場は、首だけを向けてぶつけるみたいに乱暴なキスをしてくる。
「だから立場が逆なんですよ」
おそらくはまだ手で雑に梳っただけの少し乱れた弓場の髪に神田は指を差し入れて引き寄せると、すぐに離れようとする唇を追いかけるように合わせ直す。
キスしながら神田が唇だけで弓場の上唇を食むようにすると、男はやんわりと年下の青年の下唇に歯を立てる。
「弓場さんがそう簡単に起きられないように、昨日は頑張ったんだけどなあ。油断した」
「残念だったな」
まだ夜としては浅い時間から十代の若さをぶつけ合うように体を重ねた同士として、弓場と神田は共犯のような笑いを交わした。
「出した数まで数えちゃいねェーが、てめェーのほうがはるかに動いてんだから、疲れるに決まってんだろう」
「弓場さんだって俺の上に乗っかって相当搾り取ってくれたじゃないですか。それに揺さぶられるほうだって結構しんどいって聞きましたよ、犬飼から」
「何てェ話してんだ、おめェーらは。……砂糖入れるか?」
せっかく豆から入れてくれたんですから、コーヒーの味だけ楽しみます、と神田は弓場からマグカップを受け取る。
「誰かさんのせいで、慣らされちまったからな。最初は翌朝立つのもしんどかったくれェーだが」
部下であり情人である青年に向けて呟く、少しばかりの自嘲を交えた苦笑を飾った横顔は、神田の目には何よりも気高く冒しがたいものだった。
「すんません」
「謝るようなコトじゃねェー。そのあたりは薄々承知でおめェーと」
カップを持たない手を引き寄せて、その指先に弓場は唇を触れさせた。
「こうなったんだからな」
「ありがとうございます」
「礼を言われることでもねェーな」
「だったら俺はなんて言ったらいいんですか?」
「おはようだけで十分だ」
言われてやっと朝の挨拶すらまだだったことに気づいて、改めて神田は一夜を共に過ごした愛しい人へ、残り一年もない間にあと幾度告げられるか分からない言葉を囁いた。
「……おはようございます、十九歳の弓場さん」
重ねるように置かれたふたりの携帯端末には四月三十日の日付が表示されていた。
誕生日、何か欲しいものはありますか、と神田が尋ねたのは葉桜が目立ってくるあたりの頃だった。その少し前に在校生として弓場を送り出した神田は六頴館高校最上級生になり、そして弓場は三門大学に通うことになっていたが、ボーダーの隊員としての立場は変わらず、桜など見えない作戦室で少し前のシーズンで抜けた王子と蔵内の代わりに入った帯島と外岡が、弓場さんもうすぐ誕生日なんスか、と隊長に顔を向けて確認する。
「まだ一カ月近くも先の話だがな」
「当人に何が欲しいか直接訊くってのもずいぶんと即物的な奴だな。お、サンキュ」
空になった藤丸のタンブラーに気づきウーロン茶を継ぎ足す外岡に、端末に入力していた手を止めて藤丸が礼を告げる。
「ハズレのものを贈って後悔するより、お目当てのものがあればそれを渡すほうが双方ガッカリがなくておれは悪くないと思うスがね」
「サプライズ感とどっちを優先するかってことではあるけどな」
「でも弓場さんなら何を頂いても落胆するってことはないと思うっス」
帯島の言葉にそれはどうかな、と弓場が彼にしては珍しく構うような答えを返すと、褐色の健康的な肌の色をした少女は、え、とその瞳をこぼれそうなくらいに見開く。
「冗談だ」
「俺もそう思いますがね、贈るほうの心持の問題ですよ、つまりは」
神田は秘密の恋人でもある隊長に、穏やかな視線を送る。
「がっかりされたくないですもん」
「人の心づくしに落胆するようなしみったれた根性はしてねェーよ。例え、道端のペンペン草だろうが、財布の中に入れっぱなしにしてた神社で貰った福銭だろうがな」
「安く済む男だな、おまえは」
呆れたように藤丸は笑い、ランク戦の開始時間が近づき、その話は一旦そこでお開きになった。
さすがにペンペン草で済ませたくないかな、とランク戦と反省会を終え、帰途に着いた弓場の後を追いかけながら告げる。
人目につかないところに用意された直通通路の出入り口から外に出ると、足元にはペンペン草ならぬ名前も分からない白い花が道端で揺れていた。
「ところで福銭、でしたっけ。ずいぶんと具体的だったですけど誰かに貰ったりしたことあるんですか」
「福銭じゃねェけどな。寛永通宝だ」
「ああ、真田の六文銭」
打てば響くように返ってきた答えに、話が早い、と弓場はにやりと唇を緩めた。
「生駒がな、前にンな話をしてたことがあってな。剣術を習い始めた時に、人殺しの技を身につける以上三途の川の渡し賃として身に着けとけってェー爺さまに持たされたらしい。実質一枚一〇〇円やねんけどな、って笑ってたがな」
「いや、それ割とハードな貰い物じゃないですか」
「それが剣士の覚悟ってェモンだろ。ま、好いた奴から貰えるならどんなもんでも悪かねェーがな」
「好いた奴?」
と少し前に告白をして、望外にも恋人としての関係を紡ぐことになった神田は、少しだけ遠慮の気分もあって確かめるように自分を指さした。
そんな神田に弓場は「ハ」と呆れたように笑う。
「好いてもいねェー奴と寝るか」
「今でも、まだ夢じゃないかって思うくらいなんですよ、俺は。玉砕覚悟、だったから」
「……」
「伝えないままのほうがいい。だって、きっと俺の気持を押し付けるだけで、弓場さんを困らせてしまいそうだったから。でも」
「困るか、ンなことで。舐めんなよ」
春の気配の香る夜の中を、彼はたゆむことなく歩を進める。その生き方が如く。
「おめェーは可愛い部下で、後輩で、それにもうひとつばかり違う関係があっても悪くねェ。そう思えたからおめェを受け入れた、恋人としてのおめェをな」
「弓場さん」
「今のところ悪くない。そっちのおめェもな」
「うぬぼれちゃいますよ」
「いいんじゃねェか、そういうのも。目に余ったらシバくがな」
「手厳しいなあ、弓場さんは」
人目がないことを確かめて、神田は一瞬だけ弓場の掌を握って、そして手放した。そして、ただの先輩と後輩のように並んで歩く。
「ホントに貰いたいものとかないんですか?」
「手に入りそうなモンならてめェーでどうにかするからな。……ああ、だったら、そうだ。こういうのはどうだ」
「え?」
さきほど帯島に見せたような、弓場とてまだ十代の青年だと思わせるような稚気を含んだ表情をかすめさせる。
「おめェーのわがままをひとつ聞かせろ。聞き分けがいいのはありがてェーが、おめェは恋人としては行儀が良過ぎるんだよ。ベッドの中以外はな」
「あの、弓場さん?」
「俺が欲しいモンはそれだ。……どうなんだ、神田」
弓場の静謐な夜色のまなざしが、挑むように、そして誘うように神田を捉える。
そんなのプレゼントに全然なってないのに、と神田はこらえきれない笑いを浮かべて、そして少し考えてから、その耳元にそっと囁いた。
弓場さんと夜明けのコーヒーが飲んでみたいです、と。
それまで神田弓場とも自宅住まいで、お互いの部屋で遠慮なく抱き合うことなんてとてもできず、未だ夜を過ごした朝を迎えることはなかった。
けれど、この春に大学に進んだことをきっかけに弓場は一人暮らしを始めたことを知った上での神田の申し出だった。
わがままってほどのモンじゃねェーだろと笑って、弓場はあっさりと神田の願いを叶えてくれた。
今シーズンのB級ランク戦が終わったその二日後、弓場の誕生日の前日に。
「今更俺が言うのもなんですけど、いいんですか、今日はおうちに顔を出さなくて。家族がお祝いしてくださるはずだったんじゃ?」
今日はもう夕方から夜にかけて、弓場隊は防衛任務が入っていた。GWといえど三〇日は平日で、きっと本来なら前日の二十九日の夜に前倒しで、きっとささやかでも温かい家族の団らんの中で誕生日を寿いだのではないだろうか。
「十八回もう祝ってもらえれたんだ。十分だ」
彼はそんな風に穏やかに告げる。
テーブルの上にはコーヒーを淹れる準備をしている間に焼かれたトーストとスクランブルエッグとはいかなかったがな、と言いながら供されたソーセージと卵焼き、そして神田が昨夜手土産に持ってきたコンビニのサラダが並んでいた。
「弓場さん、ハンドドリップの道具なんて持ってたんですね」
「ああ、ついでだから揃えたんだ」
「俺の為?」
「俺とてめェーの為だ」
弓場から帰ってきた予想外に甘い言葉に神田は笑み崩れた。
「インスタントコーヒーでいいのに」
「恋人のせっかくのおねだりにこれっくれェーなら応えてやるくらいの甲斐性はあるんだよ。ほら、冷めねぇーうちにさっさと飲め」
そう言いながら弓場は自分のカップにはミルクを注ぎ足す。
「ますます弓場さんへの誕生日プレゼントじゃなくなっちゃった気がするなあ」
「見様見真似だから旨いかは保証できねェーぞ。古寺にでもうめェーコーヒーを聞いておけば良かったかもしれねェな」
「美味しいに決まってるでしょ」
「だったらいいがな」
苦いはずのコーヒーは砂糖も入っていないのに、ほのかに甘い。
そんなことすら思ってしまいそうになる。
「弓場さん、料理できたんですね」
昨晩は麻婆豆腐と中華風のコーンスープという夕食が用意されていて、タレは市販のものとはいえちゃんとトロミもついていて、豆腐の水切りもちゃんとされていたらしく水っぽいことはなかった。
「おめェーもあれっくれェならできるだろ?」
「ええ。母が父の事務所の共同経営者でしたからね。俺が小さい頃はそれでも母だけ少し早めに帰って、食事の支度をしてくれましたけど、父が亡くなってからは母は父の分も切り盛りしなきゃならなくなったし、さすがにそこまで甘えてられませんからね。飯とみそ汁くらいなら何とか。あ、でもハンバーグは美味しいって褒められました」
「なるほど。今度食わせろ」
「喜んで」
何年も組んでても、何度も寝ても、知らねぇーことはあるな、と彼は優しい視線を神田に向けた。
「うちは下にこまっけぇーのがふたりいるからな、どうしたって育ち盛りの空いた腹を親が帰ってくるまで我慢してろっていうのもしんでェー話だろう。自然と、な。ま、簡単なものしかできねェ―けどな」
「もしかしてパウンドケーキも?」
最初は黒焦げのホットケーキから始まったよ、と自隊に手製のパウンドケーキを持ち込んでくる男は肩をすくめた。
「苦くてじゃりじゃりするって文句言われたのが悔しくてなァ。だったらいっそもっと上手ェもん食わせてやるって突っ張ったんがきっかけだ」
「はは、弓場さんもそんな可愛い頃があったんだ」
目玉焼きをトーストの上の乗せて齧りながら、神田は目を輝かせた。
「あるに決まってンだろ」
「見たかったな、その頃の弓場さん」
「そのうち家に来い。アルバムくらいなら見せてやる」
「いいんですか?」
だって、と告げる神田の言葉にかぶせるように弓場は言う。
「どうして悪ィことがある? 前にも来たことはあるだろうが。王子や蔵内と一緒に」
「だってあの頃はお宅の大事な拓磨おにいちゃんに手を出した不埒者じゃなかったからなあ」
妹さんと弟さんに蹴られそう、と不埒者は肩をすくめる。
「手は出させてやったんだし、別に、こいつが俺の男だって紹介したって構わねぇーが?」
「マジすか」
「遊びのつもりで、寝やしねェーよ」
「……弓場さん」
「融通の効かねェ男だと呆れたか」
まさか、と神田は首を横に振って、マグカップの傍らに置かれた弓場の手の上に自らの掌を重ねた。
「あのね、弓場さん。向こうの大学を卒業しても戻ってくるにはそこから五年、いや、もっとかかると思います」
実務が二年、管理建築士の資格で更に三年。でもそれはトントン拍子に上手くいった場合だ。幾ら父親の信用と地盤はあっても、それは全く別の話で。ちゃんと神田忠臣建築士としての顧客を呼べるだけの実績がなくては一人前とは言えない。そして、そうでなければこの人の前にもう一度立つなんて出来ないのだ。
「俺、待ってて欲しいなんて傲慢なこと言えません」
「あっつー間だろ、五年なんざ。『あの日』からもうどれだけ経った?」
「それは……」
三門市を襲った世界に例のない奇禍。薄紙一枚ほどの近さに異なる世界が存在することなど想像すらしたこともなく、ただ当たり前の毎日が続くと思っていたただの十五と十四の少年だった。
たかが四年すら立たぬ、鮮烈な過去。
「あれからボーダーが出来て、志願して、正隊員になって、色々な奴と出会って、競って、近界民を何体も倒して、……あっという間だったよ。おめェ―は違うのか」
「いえ、ええ、そうっスね。あっという間でした」
永遠に続いて欲しかった時間は、だが今にして思えば一瞬のようですらあった。
「きっと、十年だってすぐに過ぎる。それとも俺は、おめェーを待つこともできねェーくらい薄情で辛抱ができねェとでも思ってんのか」
「その言い方はずるいですよ。俺の、問題なのに」
「たかが十年、待ってやるよ」
それは神田にとっても、弓場にとっても、今まで生きていた人生の半分以上だというのに。
そして、弓場は更に、けどな、と言葉を重ねてきた。
「けどな、おめェ―が向こうでこうと思った相手が出来たらそれはそれで構わねェよ」
「弓場さん、どうしてそういうことを言うんですか」
「おめェーには出来るだけいい人生を選んで欲しいからだよ」
「弓場さん」
「あのな、神田。待つのは俺の勝手だ。おめェーがそれに付き合う必要はねェんだ」
「あんたこそ、俺がそんな薄っぺらい覚悟で告るような奴だと思ってるんスか」
「まさか。おめェーはとびっきりのいい男だよ、神田」
弓場は重ねた神田の手に指を絡めた。そして掌同士を合わせるようにして握り込んだ。
「けど、人生ってェのはどう転ぶか分からねェもんだからな。だから、面白い。その十年を俺は楽しみにするつもりだ」
「……だったら覚悟しておいてくださいよ」
「お?」
「俺はね、十年先でも二十年先でも弓場さんにとって一番のいい男でいてみせるから」
「言ったな、こいつ」
そして神田の手ごと上半身を引き寄せて、テーブル越しにその瞼に唇を寄せた。その瞼の裏に描いたであろう未来を慈しむように。
「俺も、そのうちおめェの家に挨拶に行くからな、覚悟しとけ」
「覚悟って」
くつくつと神田は喉で笑った。
「おふくろさんをたまげさせちまうかもしれねェーがな」
「気にしませんよ、うちの母なら。……だったら、やっぱりこれは弓場さんに持っていてもらおうかな」
神田が取り出したのは英国の女王の横顔とその名前と西暦が刻印されたコインだった。長く人の手を渡ってきた時間の経過がくすんだ風合いから伝わるようだった。
「父が結婚式の時に母の靴に入れるはずだった6ペンス硬貨です」
「靴に?」
「はい。マザーグースの童謡にあるらしいんですよ。花嫁に幸せをもたらす四つのアイテム」
「ああ、それなら聞いたことがある。サムシングフォーだな。伯母の結婚式でおふくろが自分のイヤリングを貸してやってた」
「サムシングボロウド《なにか借りたもの》ですね。あとは古いもの、新しいもの、そして青いもの。その唄のラストにあるんですよ。『そして靴の中には6ペンス銀貨を』って」
でも、と神田はそれを聞かされた時の父親の面影を懐かしむようにゆっくりとまばたきをひとつだけして続けた。
「でも、式の当日に使ってくれって渡そうとしたら、母ときたら幾ら今は使われてないコインでお金をも踏みつけるなんて罰が当たりそうでイヤって一蹴したって」
「なるほど?」
「で、自分はあなたと幸せになれる為の四つは用意してあるんだから、ひとつくらいは分けてあげるから感謝なさいって胸ポケットに押し込まれたらしいんです」
「剛毅なおふくろさんだな」
でしょ、と神田は笑った。
「だから弓場さんがお宅の忠臣さんをください、って言っても、こんなかさばるのが欲しいならどうぞ遠慮なく持っていってくださいくらいは言いますよ、きっと」
そして弓場の掌に神田はその6ペンスコインを置いて、掌で彼の手を覆うようにして握り込ませた。
「とりあえず俺の前にこれを貰って。やっぱり、ちゃんと弓場さんの誕生日に贈りもの、したいですもん」
「けど、こいつは親父さんの大切な遺品だろ」
「親父が遺してくれたものは沢山ありますから。それに、いつか俺が大きくなったら今度こそお嫁さんの靴に入れてやれって。
だからお嫁さんじゃないし、弓場さんもきっと踏みたくないだろうから、俺がいなくなってもお守り代わりに持っててくださいよ」
「神田……」
「きっとネイバーの襲撃が途絶えることはない。四年前みたいな大きな規模で襲ってきてもおかしくない。俺がここを出た後にも。俺にはもう何もできなくなった後でも。でも、それでも、……コイン一枚分だけ、安心できるから」
たった一枚分だけでも。
一年後、神田はもうここにはいない。彼の誕生日を直接祝うことすらも出来ない。きっとそうできるのは十年を経た後で。
弓場の手を握ったまま、見つめる瞳に言葉にしきれない思いだけをこめて、神田は彼を双眸にとらえる。
「分かった」
弓場がコインを握った手の上に重ねられた神田の手の、その上にもう片方の手を添えた。
「こんなに重てェーコイン、貰ったのは初めてだよ。ひとりで持ってんのは少しばっかしんどそうだから、いつかおめェに返す。必ず、取りに戻ってこいよ。それまでせいぜい大事に預かってるから。それで、いいな?」
利子はつかねェがな、と弓場は磊落に告げ、神田もほろりと笑み崩れた。
重なった温度も、コーヒーの味も時間の果てにきっと記憶の彼方になる。
でも。
綺麗に平らげた皿を片付けながら、神田は、あ、と声をあげた。
「でもそうなると誕生日プレゼント、結局なしになっちゃうじゃないですか。来年は直接渡せないのに」
「安心しろ。とっくにおめェーからは貰ってるよ」
十年分くれェはな、と隊長であり先輩であり恋人でもある男は少しだけはにかんでそう告げた。