おもいの果 前日は家族と、前々日は友人たちと過ごすだろうからな。だったら四日前くらいが案配がいいか。その日、空いてるか、神田。
そんなことを打診されたのは、かつての同僚でもあった王子隊のふたりも招いての打ち上げの場だった中華料理屋を出ていこうとするその時だった。数日前に、抱いたばかりの弓場から。
そして、季節の変わり目に体調を崩すなんて久々で呆れる、と自嘲気味の弓場からのメッセージが神田の個人端末に飛んできたのは、約束した日の前日のことだった。俺からスケジュールを抑えさせておきながらすまない、とも。
風邪をこじらせたようなものだから心配するな、と付け加えらえてはいたものの、自分から申し出た約束を違えるなど、義理堅く、仁義に篤い彼がめったなことではするはずもなく、翌日神田は思いつく限りのお見舞いの品を抱えて、弓場の元へと向かった。
警戒区域近くの、ボーダーで買い上げた古びたアパートの一室に、弓場が高校時代から一人暮らしをしていることだけは知っていて、長く彼の下にはついていたけれど、神田がこうやって訪ねるのは実のところ初めてだった。おそらくは隊の仲間たちも誰ひとりとして個人的に迎え入れたことはないはずだ。
きっちりと公私に一線を引きたがる弓場らしいといえば弓場らしい。会長って固定シールド並にガードが固いわよね、というのは、神田がまだ六頴館高校の一年坊主だった頃の、ボーダーに所属している生徒たちの間での、当時生徒会長だった弓場の評判であった。
(嵐山さんたちは来たことあるのかな……)
そんなことを思いながら、ペンキを塗り直したばかりらしい外階段の手すりを眺めつつ、神田は足取りばかりは軽やかではあったが、少しばかりのためらいと戸惑いを伴いながら二階へと上がる。
奥の一番突き当りの部屋の、そのドアの前には出前のものらしい空になったどんぶりが置かれていた。
食べてはいるらしいが、寝込んでいるような人間の胃にラーメンとチャーハンが適しているとはどうしても思えず、神田は眉をひそめた。レトルトとフリーズドライのおかゆを持ってきて良かった、とも思う。
「……弓場さん、神田です」
ノックと声かけ。数秒ほどのラグの後、ドアの向こうから、かすれた声が何とか聞こえてきた。
「鍵ァ開いてる。入れ」
「お邪魔します」
弓場の言葉通り、ドアノブを回すとあっさりとドアは開いた。靴脱ぎを上がればすぐにキッチンがあり、その奥の六畳ほどの洋間の壁際にあるベッドに、弓場の姿があった。
「……なんだ、その面は」
「開けっ放しで大丈夫なのかなって」
「独り暮らしなんざしてると、いつ動けなくなるか分からねェからな。例えば、何とか救急車呼んでも入れないんじゃ本末転倒だろ。まァ、親にゃ合鍵渡してあるけどな」
でも、と言い募る神田の頬を、伸ばした腕の指先がとんとんと叩く。
「こんな図体のでかい男をどうこうするような物好き、滅多にいやしねェよ、心配すんな」
「……いますよ、ここに」
「どうこうさせてンだよ」
ふん、と弓場は何とか笑いらしきものを浮かべた。
あなたの、この、寛容。
俺には勿体ないくらいの。
「病院行きましたか?」
「いや。動く気になれねェ」
「タクシー呼びましょうか。本部の医務室に行ったっていいし」
「寝てりゃ治る。これでも昨日に比べれば大分マシになった」
「マシにって……」
ベッドサイドテーブルには半分ほど残ったミネラルウォーターのペットボトルと市販の解熱剤、それから体温計が無造作に置かれていた。
「体温はどれくらい?」
「三十八度八分。今朝はな」
(……高い)
相当苦しいはずだ。
神田は失礼します、と断ってから元隊長の額に触れる。掌にじわりと感じる、弓場の身体を裡から灼く熱。前髪が貼りつくほど汗が額やこめかみに浮き、目尻や頬も一目で分かるほどに赤い。
(体温を下げんなら、太い血管が通ってるところを冷やしてやるのがいいんだけど……)
だが気休めでもこんな時に額や頭を冷やされるのは気持ちいいのは、経験上知っていることでもあった。
「冷凍庫、勝手に見させてもらいますね」
製氷機が空なら近くにコンビニで氷でも買ってくればいい、と神田はキッチンを伺う。
すると、二人掛けの小さなテーブルの上に、ドラッグストアの紙袋が置いてあった。それこそ同期組の誰かの置き土産で、薬か冷えピタでも入ってやしないかと、本当に他意などなく中を覗いてみただけのことだった。
だが、中に入っていたのは、弓場のサイズではない、XLのコンドームとローションだった。
(……あれ、もしかして、これ、自惚れていいやつ……?)
神田と弓場が寝たのは一度きりだ。三月のランク戦が終わり、神田も無事に志望校に合格し、お互い背負った荷物を一旦下ろすくらいは許された頃、長く恋慕の情を抱えていた神田が思い切って告白したのだ。隊を組んだ頃からあんたのことが好きだった。一度だけでいいから自分と寝てくれ、と。神田の見ている限り、性的嗜好はヘテロだった弓場はさすがに元部下からの告白を受けて、その胆力をもってしても押し黙ってはしまったが、結果的になるようにはなった。それでも、一度きりのことだ、と思っていた。けど。
そしていよいよ神田が三門市を離れる日が近づき、四日くらい前ならいいか、と独り言ちるように呟いた弓場は、三門を出る前に一対一でゆっくり話でもしねェーか、と持ちかけてきてくれた。
卓飲みと呼称するには双方とも図体はともかく未成年だから、せいぜいがソフトドリンクくらいしか入れられないのだが。
そして、弓場からのその誘いに、僅かばかりの期待をしなかったといえば嘘だった。一度抱けば諦めがつくと思っていた。そんなはずなどなかったのに。分かったのは、自分が思っていたより未練たらしい男だということだけだった。
だが、少しでも、弓場の中にも、同情以上の何かがあるとしたら。
(……期待すんな、神田忠臣。分かってるだろう、この人が情に篤い、誠実な性分だってことは)
だから、あんな「一夜の過ち」ですら彼の中に消えない何かを残してしまっているだけのことで。そして、それすらも神田の計算の中にありはしたのだ。卑怯、と誹られても何を反駁できようか。
アイスノンや氷嚢は見つからず、とりあえず水をはった洗面器とタオルを何本かを用意する。
「身体が起こせるようでしたら着替えませんか。汗で濡れたままは良くないですし。手伝いますから」
「……分かった」
ベッドに上半身だけ起こした状態で、パジャマ代わりのスエットと下着代わりのシャツを脱ぐのを待ってから、その背中を濡れタオルで拭ってから、乾いたタオルでこする。
「……そんくれェ自分でやる」
「俺がしたいんです。こんなこと、最初で最後だろうから」
「……何言ってやがる」
僅かな笑いの気配を波打つ背中から感じる。
抱きしめて押しこかして、そのあらわになった恋しい男の肌を掌で唇で、全身で感じたいという、獣の衝動を何とか理性という手綱で取っていることを、弓場は理解しているのだろうか。
(こんなところにホクロがあったんだ)
貝殻骨の下2センチほどのところに、薄い黒子がひとつ。あの一夜の際には気が付きもしなかった。
それなりに遊んできた自覚はあるが、やはり手一杯だったのだと改めて気がつく。自らの肢体の下に組み敷いた彼の反応、声、そのひとつひとつを場当たりみたいにすくい取るくらいしか出来ていなかった。
「……弓場さん」
額を、その背の中央にひたと押し当てる。
「俺、あんたのこと、ずっと好きでいて、いいですか」
「神田……」
「一度、あんたと一度寝られれば諦められると思ってた。十代の、いい思い出に出来るとそう、思い込んでた。けど、俺……」
声を途切れさせた神田は、弓場のその裸の背にそっと唇を触れさせた。びくり、とその背がかすかに震えた。
「みっともない、と思ってます。俺だって……」
だが。
「好きにしろ」
返って来たのは意外な言葉だった。
「他人から指図されて人の気持はどうこう出来るもんじゃねェ。神田、てめえの気持はてめえ次第だろ。……大事にしてやれ」
「……いい、ん、です、か」