【フィガファウ】フィガロ誕2023フィガロ誕2023
しこたま飲んでいる、という自覚がある。
身体が温かくてふわふわする。その感覚を楽しみながら、力の入らない指で掴んだグラスを落とさないためには、少しばかりの集中力が必要だった。
落とさない、こぼさない。そんなことに気を付けるために、手袋を外しすらしたのだ。
咥内から食道を通って胃に落ちる酒精の熱がここちよく、鼻に抜ける香りにため息をつきながら、コースターの上に空になったグラスを置けば、何を飲むのか問われることもなく新しいグラスと交換される。
「ありがとう」
ふわふわと芯のぼやけた頭の中、記憶の奥から聴こえる音楽に合わせ、身体を揺らした。気を緩めれば口から鼻歌でも飛び出しそうなほどに、気持ちも弾んでいる。
火照った体から熱を逃すために普段は上まできっちり留めている黒衣の首元のボタンをひとつ、ふたつ、外した。ケープも帽子はこの店に足を踏み入れる前に部屋に飛ばしていたので身に着けていない。酔ってなぜだか脱いだそれらを店に忘れること数回、最近はここで飲む際には軽装と決めている。
そういえば、視界がクリアだった。ファウストと外界を隔てる色硝子の存在がない。眼鏡はどこへやったのだったか。どうでもいいか。考えながら手の中にあるグラスを口元に近づける。
「あいた」
距離感を間違え、グラスのふちが歯に当たって小さな音を立てた。あわてて口を離して、当てたところを凝視すれば、欠けたり割れたりした様子はなさそうである。ほっとしながら、そのまま、またグラスに口をつけるファウストの様子に、カウンターの向こうからはバーの店主が小さく笑う気配がした。
普段この魔法舎のバーで、店主と共によくいる猫のような魔法使いは今夜は同伴していないようだ。ほかにも入り浸りがちな北の魔法使いの姿もない。店主であるシャイロックとファウストの二人が、いまこの場にいる者の全てである。
「いい音したね」
嘘だ。
もう一人いる。
「なんだ文句あるのか?」
フィガロ、と。正面に向けていた視線を左隣へと映せば、まず榛色が目に入った。酒精に呑まれているファウストの何かが面白いのか、それが柔らかく細められる。
左肘で頬杖をつき、右の指先でグラスの淵をなぞりながら、一度、揺れるようにグラスへと移った視線は、それからまた、ファウストへと戻ってきた。
「文句じゃないよ、褒め言葉だと思わない? いい音したね、って俺は言ったんだからさ」
「また適当なことを」
違う、もっと言い返しがあったはずだ。けれども、いい返し言葉を思いつくのは大抵、彼に対して反射的に言葉が口から飛び出したあとだ。うまくいかない、フィガロ相手にはどうしてこうもうまくやれないのだろう。他の誰かとはうまくやれているとも思わないし、自分が誰とも上手くやれないことは重々承知しているのだけれど、それでも彼以外とであればもう少しまともに会話ができている気がするというのに。
いや、うまくやる必要もないのだ。必要最低限、その力と扱い方、知識には信を置けるから任務の時はそれはそれとし、他の時には期待も落胆もしない距離にいるべきだ。いや、いたい。そうありたい。
構わないでほしい。関わり合いたくない。だというのに、そうされるとどこか喜びを感じる自分がいやでたまらない。いまだってそうだ。
シャイロックしかいない彼の店、客は自分一人という珍しい状況で、話したり話さなかったり静かに飲みながら、時が過ぎるのを待つつもりだった。もう少しで日付が変わりそうな時間になって、ふらりとフィガロが現れた。シャイロックに挨拶して、ファウストの姿を見つけ、隣いいかな、と問いながらもファウストからの回答など聞かずに隣に座る。
体温が感じられそうなほど近い距離、肩が、触れ合いそうなほど。
その距離に心臓が大きく跳ねたのはどうしてだったのだろうか。いてもたってもいられずに席を立とうとしたところで、ファウストが頼んだ何杯目かのお代わりが供された。シャイロックが無礼を働いたわけでもないのに、自分で頼んだ酒にも口もつけずに席を立つわけにはいかない。それでもできるだけこの場を離れたくて、本来ならばゆっくりと嗜むような度数の酒を一気に煽った。
いい飲みっぷり。と言ったのは、シャイロックであったか、フィガロであったのか。では私から一杯奢らせていただきましょう。となぜだかシャイロックがもう一杯、差し出してきたことは覚えている。
グラスを開ける速度は次第に、本来のリズムに戻っていった。そしてふわふわと、いい気分になって、一瞬隣にいるフィガロのことを忘れていたのだった。
そろそろ待っていた時間がやってくる。なんとなく、その時にフィガロがいることが気まずくて、ファウストは言葉を探し中身がまだ半分ほど残っているグラスへと目線を落とす。そして、少しだけ唇を尖らせ、見つけた言葉を捻り出した。
「おまえは、いつまでここで飲むつもりだ?」
「ん? 俺は……そうだな、もうすこし。この一杯を味わい尽くすまで、かな」
視線を向けたフィガロのグラスの中身、彼は淵をなぞるばかりで、味わうように、浸るように、少しずつ舐めるようにしかその中身を口にしていない。すでにどこかで飲んできたのだろうか、自室にもあちこちに酒を隠しているようだと、ヒースクリフが言っていた。
不意に、フィガロのグラスの中身が気になった。ロックグラスに注がれた、けれどウィスキーやブランデーとも違う色味のそれ。深い紫、いや濃紺だろうか、夜空のように深いのにけれども透明を保った色。その中できらきらと小さな粒子が輝いているように見える。
見たことのない、知らない酒だった。
「それは、なに?」
「これかい? 俺に興味もってくれるなんて嬉しいな」
ぱっとグラスから視線を上げたフィガロが、本当に嬉しそうに微笑んだ。ファウストによく見えるようにグラスを持ち上げて見せる。
「お前に興味を持ったわけじゃ……いや、いい、答えるな」
「えー、フィガロ先生は聞いてくれたらなんでも答えてくれるのが売りなのに」
「そんな売りいらない」
「……そう」
そうだね。と言ったフィガロの声はひどく小さくて、本当に彼が発した言葉だったのか、酔いからくる幻聴のようなものなのか、判断がつかなかった。二人の間に沈黙が落ちる。重たくて、なにか言わなければと思う反面、何も言わなくていいだろうとも思う。あと一口、これを飲み干したら席を立てばいい。潮時だ、ちょうどいい。
ファウストの前にあるグラスの中身を飲み干した。また、その時だった。
「ファウスト、日付が変わりましたが、特別な一杯はなににされますか?」
フィガロとファウストのやりとりには特に口を出すこともなく、反応することもなかったシャイロックが壁につけられた時計に顔を向け、目線だけをファウストに向けながらそう問うた。
「あ……いや」
「特別な一杯?」
「はい」
ファウストは言い淀み、フィガロは聞き慣れぬ言葉を問う、そして店主であるシャイロックは艶やかに微笑んだ。
「日を跨いだら特別な一杯を注文するからとおっしゃっていたのに、席を立とうとなさっていたので。お忘れになっていてはいけないと思いまして」
「シャイロック」
そう、ファウストがここを訪れたときには、彼と二人だった。何杯か飲んだあとにふわふわとすこし浮かれた気分のままにそう口にした。日付が変わったら、祝杯を上げたいから特別な一杯を頼もうと思う。何を飲むかはその時までに考える、と。
にっこり。という言葉でしか言い表せないような笑みを浮かべたシャイロックが、新しいグラスを手にとって、優雅に首を傾かせる。
「さあ、何になさいます?」
「特別な一杯ってどうして?」
ファウストが言葉に詰まったその隙間に、フィガロの問いが重なった。
「それ……は」
言いたくない。だってそれは、フィガロに関わることだからだ。
師事していた頃、星を読む課題で知った彼の誕生日。四百年前には祝うことはできなかった。それを知ったのはそれが過ぎたあとで、そして、その次の年にはもう、彼はファウストのそばにはいなかったので。それから四百年、一度も思い出さなかったわけではない。けれども、思い出したところで、気づいたところで、祝おうと思ったことは一度もなかった。
だた今年は、フィガロに再会した。彼のことを許したわけではないし、正直腹も立っているし、できる限り関わり合いたくないのだけれど、だとしても。あの時できなかった、これまでしてこなかったことを、ひとつ、してみてもいいかもしれないと、思ったのだ。
じっとファウストに注がれていた榛の瞳が、長いまつ毛が縁取る瞼に半分隠される。目を伏せたフィガロが、ふっと息を吐いた。
「なんの祝杯かはわからないけれど、特別な一杯ならこれはどうかな?」
なんなら奢るよと、フィガロの長い指が、彼の前にあるグラスを掴む。軽く揺らされたのは、舐めるように少しずつ、味わうように丁寧に飲み進められていた深紫で濃紺の、粒子の煌めく不思議な酒。
「それはなに?」
「北の魔法使いが作った、珍しいものだよ。夜空と星を閉じ込めた、と言われている」
「『流星雨』という名前で呼ばれています。なかなか手に入らないのですが、フィガロ様が当店に預けている珍酒の一つ」
「流星雨」
「まあ、きみがよければ、だけれど」
「いただこう」
ファウストが再び、椅子に腰を落ち着けると、シャイロックはあいたグラスを下げ、そしてフィガロのものと同じ形のグラスに、いつの間にか手に持っていたボトルの中身を注いだ。
深紫とも濃紺ともとれる、透明度を保った深い色。その中できらきらと輝く粒子、いや星、なのだろう。
「乾杯、してくれる?」
フィガロが伺うように少しだけ上目にファウストを見ながらグラスを持ち上げる。
小さな吐息をこぼして、ファウストもグラスを手にとった。グラスを寄せるつもりはない、けれど、少しだけ持ち上げるくらいなら、してもいい。
「乾杯」
香るのは、赤ワインに似てそうではない、けれども深みのある不思議な香りだった。フィガロがそうしていたように舐めるように口に含む。産地は北の国だと言うから相当な度数かと思ったのだ。それに、彼がそうして飲んでいたから。
舌に広がるのは深みのある味。やはり味は葡萄に似ていて、けれども風味は爽やかで、ぴりと舌先を刺激するのはスパイスだろうか、柑橘のような気もする。
「うまい」
「でしょう?」
「うん」
不思議と素直に頷くことができた。もう一口、舐めるよりは多く口に含む。香りを楽しんでから飲み込むまで、目を閉じて、心の中だけで想う。
誕生日、おめでとうございます。フィガロ様。
言葉と祝福と祈りを込めて、ごくり、と飲み込んだ。