【レノとファ】まどろむゆめの、その先にまどろむゆめの、その先に
「レノックス!!!」
行け、という意志の乗った自分の名前を呼ぶ声が、背中を押す。重心を低く落としていたレノックスは、その脚の筋肉をバネにして、大地を蹴った。最前線のその一歩先へ。
「つづけ!!!」
大きくてよく通る、まっすぐ伸びた力ある声。けれども、この声が大きくなくてもきっと自分は気づくだろう。思わずこぼれてしまったかのような小さな声だって、このひとの者であるならば決して取りこぼしたくはない。
声から連想された場違いな思考を頭の片隅におき、意識のかけらもそのひとに向けながら、メイスを大きく振った。脚からの勢いを殺さず、遠心力もかけあわせ、周囲の人間を薙ぎ払う。
揺らぎ、倒れ、起き上がろうとするものに後ろから追いついてきた仲間たちが駆けていく。陣形を崩し、道を作るのが、今回の戦場におけるレノックスの役目だった。
広い視界に入る人の群れ、事前に与えられている情報と、それからこれまでの経験則、そして本能が相まって、次にどこへ向かうかを考えるまでもなく身体の方が教えてくれる。
かのひとの声と、その感覚だけを信じ、だた駆けて、駆けて、駆けていく。
ちり、と針が刺さるような予感に身をひねれば、顔の横を鋭い突きで繰り出された刃がかすめていった。身をひねった勢いのままに相手を脚で蹴り飛ばし、頬が浅く切れたために滲んだ血を手の甲で拭う。
息をひとつはき、ぐるりを周囲を見回した。戦況の確認のためでもあったし、どこにいてもそのひとを探すのはレノックスの癖でもある。土煙舞う人の群れの中、その視界は決していいものではなかったけれど、それでも、求めた姿はすぐに見つけられた。
箒に乗って上空から魔法使いの部隊を指揮するひと。
味方に向かって降る矢を防ぎ、剣を払い、そして魔法が展開させるそのひとの、朽葉色の髪がゆれている。
安堵の息を吐く。向かってきた敵兵を殴りつけ、レノックスはまた駆けだした。
「レノックス!!!魔法を使え!!!!」
ふたたび、よく通る声が名前を呼ぶ。背中を押す。
そうでした、と口に出したけれど、きっと彼には聞こえていない。
それでも構わなかった。
砂塵吹き荒れる中で仰ぎ見た空。砂のカーテンを通してくっきりと円の輪郭を魅せる太陽だけがあった。
直射日光を避けられるのはありがたい。だが砂嵐はやむ気配を見せずに逆に強くなっているような気さえした、魔法をつかって身体や顔には当たらないようにはしているというのに、それほど魔法が得意ではないためか、それともこの地の精霊にもてあそばれているのか、呼吸に混ざって砂が口の中に入り込む。
何度目か、たまった砂を吐き出して、一歩踏み進めれば、砂漠の大地に足首まで埋まった。砂で重たい反対の脚を持ち上げ、そしてまた踏み込む。
進むことしかできないのだ、頼りにできるものはなにもない。けれどもたどり着きたい場所をひとを目指して。
気温も色彩も、精霊の性質もなにもかも違うというのに、北の国の景色が脳裏によみがえり、レノックスは大きく嘆息した。ああまた、砂が口に入ってくる。
あれからどのくらい経ったのだろう。ファウストと共に踏み入れた極寒の国。踊り狂う吹雪、好戦的な精霊たちが飛び交う中を進み、彼が探知した細い糸のような気配だけをたよりに、たどり着きたい場所を目指していた。
尖った精霊の気配に、何度もそれを断ち切られた。そのたびに、かのひとは目を閉じ感覚を閉じ無防備さを彼らの前に晒して気配を探る。その間に彼のすべてを守ることが、レノックスの役目だった。
あのときも、防寒と吹雪から身を守る魔法を懸命にかけていたのに、口には吹雪が入り込んだ。
そうしてどうにかこうにかたどり着いたどうやら目的地。
吹雪が止んだのはありがたいものの、縁起がいいとは思えぬ流星群。それを背景にして見上げるその屋敷、てっきりどこぞの王城のような佇まいかと想像していたが、この北の国にあるとは思えぬ、いくつもある窓から温かい光をこぼす、ぬくもりのある建物だった。けれども外界と敷地の中を隔てる境界線の守りは強固で、その出入り口である門扉も堅く閉じている。見えるのに、遠い、そう感じさせるものがあった。
レノックスがぼんやりとその屋敷を眺めている間に、旅のせいで身汚いのは仕方ないがせめてと、いくばくかばかりの身支度を整えたファウストが、一歩前に出る。
不安げに空を見上げ、それから覚悟を決めたようにすっと息を吸った。レノックスは身構える。かれの大きな声のためではなく、攻撃的な魔法の気配に備えるため。
出会いがしらに殺し合いになるのは、北の魔法使いでは日常茶飯事だと聞いた。言葉など届かないかもしれないと、仲間の魔法使いは言っていた。そして、ここにいるひとの力がどれほど圧倒的なのか、恐らくは想像しれないものだろう、と。
自分には防ぎきれるものではないかもしれない、けれどもそれがかれに届くよりも早く動けさえすれば。どんなものが襲い来ても、必ずファウストを守りぬく。
自分に課した誓いを心に置き、こぶしを握り締めた。いつでも動けるように、重心を落としてく。
そうして、開門を願うかれの声が、夜の雪原に響いた。
想い出に浸っていたと、はたと我に帰る。止まった脚は膝のすぐ下まで砂に埋まっていて、レノックスはいまいちど天を仰いだ。そこには箒に乗ったかのひとの姿はなく、ただ、まるい太陽しかない。
砂に埋まった脚を持ち上げ、一歩踏み出す。
こんなところにはいないかもしれない。そんなことは分かっている。
彼を探し始めて、一番初めに探したのは、ファウストの姿を思い浮かべるときに似合うと思う場所だった。たとえば、ひとびとが楽しげに暮らすにぎやかな街の静かな場所、木漏れ日あふれる穏やかな森、透明感あふれる湖のそば。
けれど街にはいないだろうともおもっていた。人々の笑顔の中で微笑む姿が、とっても似合っていたのに。
「ファウストさま」
いったいどこにおられるのですか。
かけた言葉はきっとかれには届いていない。それでも、心の向くままに探すことしかできなかった。
「ファウストさま!!!」
自分でも珍しいほどに大きな、そして焦りを含んだ声だった。周囲の鳥たちが一斉に飛び立つのを見て、逃亡中なのだから、こんなに大きな声をだすのはよくなかったかもしれないと気づいたけれど、呼ばずにはいられなかった。
火傷はまだ完治していない。動けるような状態ではなかった。たしかに意識は戻り、言葉も交わせるようになっていたけれど、寝台から動くことすらままならないはずだ。
その状態で外に出たのならば、どこかで近くで倒れ伏しているかもしれない。ならばすぐに見つけられるはずだ、小さなうめき声でも、なんでも、かれが発する声ならば決して聞き逃さない。
敵意のあるものの気配を察知することは得意というよりも身に沁みついたものだけれど、気配を探る魔法はあまり得意ではない。魔道具のメイスを出し、呪文を唱えてみるものの何もわからなかった。あるものをあるがままに受け入れるからな、きみは。と微笑んだファウストがどこにいるのかわからない。
僕を置いてどこかに逃げろと再三言われたけれど、従わなかった。せめて動けるようになるまでは世話をさせてほしいと希い、譲らなかった。そういいながらファウストが動けるようになっても、どこまでもついていくつもりだった。それについてはもう譲らない、と心に決めていたから。
小屋の周囲をあらかた探し終え、それでもどこにも姿はなく。痕跡すらなかった。いちど、小屋の前でひとが倒れたような跡があったから、転んだのかもしれない。そのあとは、どこへ。森の中にはもうどんな跡も見つけられなかった。
箒をつかったのか。まだ魔法だって本調子ではなかったのに。あたりまえだ、処理しきれない悲しみ、苦しみ、後悔、怒り、それらの名前を付けることもできない処理しきれない感情が、心の中を荒れ狂っているのだから。
レノックスだって、平気なわけではない。気を抜けば、どうして、なぜ、と声を上げ、暗い感情に飲み込まれそうになる。けれど、飲み込まれるわけにはいかない。なによりもファウストを守らねばらならない。守るために、魔法が使えなければならない。使える自分でありたい。守れる自分でありたい。そう、思っていた。
「どうして」
朝日が小屋の窓辺にさす。その前で、レノックスは膝から崩れ落ちた。なぜ、と姿なきファウストに問いかける。いつの間にか手放したのか、ぼろぼろになったメイスが転がっていた。
ファウストを連れて逃げる途中、振り回したそれには魔法をかけられなかった。背負ったかれに、これもまた得意ではない治癒魔法をかけることで精一杯だったからだ。ただ振り回し、人間の兵の鎧に、剣に、槍に、盾に、ぶつけたそれがぼろぼろになるのは当たり前だった。
いつだったか、魔法で強化をかけることも忘れ、必死に退いた撤退戦の後、ファウストが笑いながらそれを直してくれたのを覚えている。これにまた守られたな。そう言って。少し格好良くしてみるのはどうだ?なんて、装飾を付けてくれた。
こみ上げるものに目頭が熱くなる。けれども涙はこぼれなかった。
なにも守れなかった。守りたかった。黙ってみていただけだった。黙って引いてしまった。
ゆらり、立ち上がる。
「おさがし、します」
つぶやいた言葉は、きっとかれには届いていていない。
それでも構わなかった。
どこからか、これは夢だな、と分かっていた。分かっていてまどろんでいた。聴こえてくる音と羊たちの気配だけなんとなく拾いながら、目を閉じ、木の幹に背中を預けている。
いつのまにか眠ってしまっていたらしい。そうぼんやり思いながら、夢と現の境界線をいってかえって繰り返しまどろみに浸っていたレノックスは、ひとつの気配をとらえてはたと目を開いた。意識が一気に覚醒する。
「どうしたんだ、こんなところで。迷子、ではないようだが」
ひそめられた優しい声。小さな子供や、動物にそういう声音で話しかけるところも変わっていない。
「レノックス」
「ファウスト様」
魔法で小さくなっている一頭の羊を足元にまとわりつかせたファウストが、立っていた。座っていた木の根の間から立ち上がり、そのひとに近づく。帽子のつばがあるからか、昔見上げてきた角度より首を上向かせる彼と目を合わせ、その存在を確認して、ひそかに息を吐いた。
そんなレノックスの様子に気づいているのか、いないのか、視線を外したファウストが音もなくしゃがみ込み、長い衣のすそで遊ぶ羊を抱き上げる。
レノックスが昨夜ブラッシングし、今日太陽の光を浴びてふわふわになっているその毛並みをなで口元を緩ませながら、ほら、と羊をレノックスに差し出した。
「ありがとうございます」
「べつに、なにもしてないけど」
くいと帽子のつばをおろしてしまうと、レノックスの視線からはファウストの表情は見えなくなる。じゃあ僕は行くからと、魔法舎の林の奥へと足を向けるその後姿を見送るレノックスの中に焦りはなかった。
おそらくその先には、猫の集会場でもあるのだろう。夜になれば、ひとりか、だれかと晩酌をするのかもしれない。夕食時にはまた姿を見られるだろうか。
あまり良い夢見ではなかった。
けれども、こうして現実は、目の前には探し求めたひとがいる。
レノックスは、腕の中にいる羊を、彼がそうしていたように撫でたのだった。