【フィファ】フィガロ先生にはわからないフィガロ先生にはわからない
たとえば、とフィガロは思う。
設えられた大人が三人並んでも十分余裕のあるテーブルの上に広げた文献。己の前に置いたそれの手前に左手で頬杖をつき、その紙面を滑らせた右手の指を、重なってまとめられた紙の淵、それらを守る堅い表紙を飛び越えて、使い込まれた艶と使用者によってつけられたであろう小さな傷をもつテーブルの天板におろした。人差し指と中指を立て、板の上を歩くかのように動かして、隣に座るひとへと近づけてみる。
そこにいるファウストは、フィガロと同じようにテーブルに広げた文献を、けれどもフィガロとは異なり頬杖をつくこともなく、椅子に座ってもなおぴんと背筋を伸ばしたまま、文献の両脇でページを押さえるために手を添えて、視線をそこに綴られた文字に落としていた。指先を包む白い手袋には汚れひとつみあたらない。手のひらまでを守るその手袋が終われば素肌が見えるが、しかしそれも、すぐに黒く広い袖口の中に隠される。袖口はひろく、天板に置かれた腕の下で綺麗な形でもなく広がっていた。
その、黒い袖の上に、歩み寄った指を乗せてみる。
「……なに?」
指の歩みにして二歩、あと少しで腕に届く、というところでファウストが言葉を発した。視線は文字から離さない、けれども、こちらを拒絶し突き放すような冷たさもない。
フィガロの行動に、まださして重要性を見出していないから、暇つぶしや、悪戯だとか、そういうふうに思っているのだと思う。これでフィガロが彼の名を呼んだりと、何か言葉を発したならば、いま紙面に落とされている菫色の眼差しは、しかとフィガロを捉えるだろう。
「いや」
本音を言ってしまえば怒るだろうなと思ったので、いくつかの文献に目を通して考え得た可能性をもっともらしく口に乗せることにした。
そうすれば予想通り、菫色はまっすぐにフィガロに向けられる。
たとえば、ただ触れてみたかっただけだったなら?
いま、フィガロとファウストは魔法舎の図書室で、ある魔法生物についての文献を読み漁っている。明日には東の国と南の国の魔法使いでその調査に出発するのでその準備の為だ。
今日の午前中に東の国から賢者のもとに届いた調査依頼をフィガロとファウストのもとに持ってきたのは賢者であった。渡された依頼書を立ったまま広げたファストの肩越しにそれを覗き込む。普段より近いその距離だったけれど、ファウストは一度、フィガロに目線をやっただけですぐに紙面へと視線を戻した。
顔をしかめられることも、近いと距離を取られることも、先に読めばと依頼書を渡されることもない。
それどころか、手にした依頼書の高さをすこし上げたりなどする。肩越しに覗き込む、フィガロにとって見やすいように、とでもいうかのように。
それから、彼は顎に手を当てて幾分か考えたのち、依頼書の一か所を示した。
「これについては、本で読んだことがある。だが、この中に書かれた現象に齟齬があると思うんだけど」
あなたはどう。と、少しだけ首を傾けながらこちらを見る。距離が近い自覚はあったはずなのに、向けられた顔の近さに、心臓がはねたような気がした。なにに驚いたのか自分でもわからないまま、そっと自分の右手で左手首を掴む。脈拍は正常、大丈夫だ、表には出ていない。
「そうだね」
鷹揚に頷いて見せてから、やはりフィガロの中にある知識とも齟齬がある、と告げた。それならば、どれほど参考になるかも分からないが、図書室にある文献を調べてみよう、ということになってふたり連れだって図書室を訪れ今に至る。厄災の影響でどういった変化が起きているのかはわからないけれど、知識はあって困るものではない。
いくつかの文献を読み、得た知識を咀嚼して、事前に挙げていた可能性をいくつか廃し、新たに生まれた可能性について言及すれば、ファウストも同じような見解に至っていたようで、話はスムーズに進む。
そこには刺々しさはなく、むしろ和やかな空気といっても差し支えなかった。時折思い出話を差し込んでも、彼は知らないと突っぱねることもなく、すこしだけ懐かしそうに小さく微笑む。その姿がなんだか少し眩しくて、フィガロは目を細めた。
基本的にフィガロはどこを誰からどう見てもファウストに対して用事があるときにだけ近づき、話しかけるようにしている。任務や生活に支障がない程度の接触。それだって、つっけんどんに跳ねのけられることのほうが多かった。
それが、ここ最近は少しずつ軟化しているような気がする。
「なに?」
また、彼がそう言った。色硝子の向こうからその菫色がまっすぐこちらに向けられたままだ。わずかに首をかしげる仕草は、その昔、まだファウストが色硝子越しに世界を見る前と変わらない。
「え?」
「なにか別の可能性があるか?」
「いや、この件に関してはここまでかなと思ってるよ。厄災の影響がどうでているのかまでは目の前にしてみないことには分からない。あまり考えすぎてそれにとらわれてしまっても困るから、このくらいかなって思ってる」
「僕もそう思う。だが」
「だが?」
「おまえが、なにか考えている顔をしていたから」
「そう、かな」
どんな顔だろう。穏やかな笑みを浮かべたいつものフィガロらしいフィガロの表情であったはずだ。
思わず自身の顔を触って確かめてみたけれど、それらしいことはひとつもわからなかった。
「疲れているか?」
声音と眼差しに込められた労りの色は、フィガロの寿命のことを知っているからだろうか。それとも。
再会した当初は、もっと彼に近づこうと、彼の部屋に無理やり入り込んだり、晩酌に誘ったり、あれこれしてはみた。けれどその結果得たのは、理由がなければ近寄らないほうがいいという解だった。
試して把握した、最適解の境界線。そこまで。それをファウストはそれを望んでいる、ならば叶えてやりたい。そうすることで、彼が幸せになるのなら、良好な関係を新たに結ぶことができるならば、それにこしたことはない。ひととの関係はそういうものだ、そういう風にしかできないと理解している。
しかしながら、こと、彼とかかわることにおいては、よく思われようだとか、よく見られようだとか、ファウストに向かって意識してした言動は、彼の機嫌を損ねがちだ。
だからなにが、彼を柔らかくしたのか分からない。
任務のためだといっても剣呑であった眼差しが、そうではなくなったのはなぜなのだろう。
下準備の為だからといって隣に座って、言葉で呼びかけるのではなく袖を触ってみても振り払われなくなったのはなぜ。
用がなければ、理由がなければ直接は近づかない、それしかできていない。何も強く望んでくれないから、それしか叶えてあげられないのに。
昔と同じであるような、全く違うもののような、似ているようで、性質が変わったような。くすぐったくて、嬉しい眼差し、空気、時間。
その感覚を胸の内で転がし確かめながら、けれど何がファウストの心境を変えたのか、変化の理由が分からない。
それが分かればもっと改善できるかもしれないのに。
それが分かれば、これ以上改善できなくとも無くすことはないかもしれないのに。
分からなくて、分からないから、どうしようもなく。