【フィガファウ】スプーン一杯分の幸せスプーン一杯分の幸せ
「また振られちゃった」
四階からの階段を降りながら、フィガロは手にした酒瓶を持ち上げ、誰に聞かせるわけでもなく小さくつぶやいた。
フィガロがいましがた尋ね、そしてにべもなくドアを閉じられたのは、ファウストの部屋である。
四百年前、フィガロが手を離される前に離れ、そしてその後行方の知れなかった唯一の弟子。自分の心にも、本人に向かっても弟子であると定めたのは、後にも先にも彼ひとりだけだ。
離れていた間に彼に起きた出来事は、その当時ではなく後から知ったことだけれど、知っている。いつかのワルプルギスの夜の会合で、フィガロへの接待のひとつとしてどこかの魔法使いから語られた、とっておきの噂話。その中で久しぶりに名前を聞いたかと思えば、当時の彼から想像もつかないような生業を冠してたから驚いたものだ。
呪い屋。彼の出自を知る者がそれを聞いたら笑ってしまうだろう。この世界に変化しないものはないと心底知っているフィガロだって、その話を聞いたときには表には出さなかったけれど、そんな曲がり方ある、と思ったのだから。
潔癖なまでにまっすぐで、純真。前向きで、相手に真正面からぶつかるような、そんな子だ。呪いよりも祝福が似合うような、そんな。
けれども彼が呪う者となってしまったその道筋を理解はできる。身体と心に受けた傷の痛み。恨みつらみを重ね、どろどろした重たい感情から逃れられなかったのだろう。しかも東の国にいるという。ならばきっとそれはさらに湿り気を帯び、腐っているのかもしれない。あの国にはそういうところがある。
けれども、失望するには至らなかった。噂話だけでは判断できない。実際自身の目で確認しなければ、判断は下さない。
だから、美しい思い出のままに。
ファウストの従者だったレノックスが目の前に現れたときにも、言及しなかった。彼が探し続け、フィガロの知っている『ファウスト・ラウィーニア』がいまどこでなにをしているかなんて知らない。知らないさ、東の国で呪い屋をやっているファウストと名乗る魔法使いが、それと同一人物なのかだって確かめていないのだから。
そうこうしてフィガロはフィガロの目的のために生きていたのだけれど、ひょんなことから賢者の魔法使いとなった。そして、件の東の国の呪い屋が、やはり在りし日の弟子であったと確かめたのである。
せっかく再会したのだから、と構ってみるのだけれど、ファウストの反応は前述のとおり、取り付く島もありはしない。
うまく立ちまわることができないでいる。そういったことを得手としているはずなのに、彼を前にすると言葉が空を切るのだろうか。フィガロがどう振る舞えば、相手が思った通りに動くのか、それは少し観察すればすぐに分かる。だから誘導できる言動をしているはずなのに、うまくはまらない。
自分の口から発せられ、聞こえる言葉が浮ついているのが自分でもわかる。想定していたよりも余計なことを言ってしまう、容易く操ることができたはずのそれが、制御を失うのだ。
どうしてだろうか。少なからず負い目を感じているからか。しかしそういう感情だって、なんだって、ほとんどのものは自分自身のことだってフィガロの掌の上であったはずだ。
適度に怒らせようとして適度に怒らせることも、喜ばせることも、悲しませることも。己の中の穴を仮初に埋めることも、渦巻く感情を処理することも、切り離すことも、切り替えることも。大概のことはなにもかも。
心を開いてもらうことは、これほどまでに難しいことであっただろうか。もっと簡単に、意識するまでもなく、出来ていたはずなのに。
あの子と、どうなりたいのか、自分自身が分かっていないからだろうか。元の関係に戻りたいのか。元の関係とはなんだ。時間は巻き戻らない、時が流れ変わったものは元の形には戻らない。そんなこと、よく知っている。
ただ、幸せになってほしいと思う。笑ってほしいと思う、昔のように。けれど、昔のように在ることが難しいということもわかる。今の彼の幸せとは、いったいなんだろうか。
それを把握するために、もう少し情報が欲しいのだけれど。
酒瓶のネックを持ちぶらぶらと振りながら三階を回って、二階、そうして自身の部屋がある一階にたどり着いた。このまま部屋に戻る気分にもなれずに、フィガロは廊下を過ぎて中庭に出る。
<大いなる厄災>がほっそりと輝く、静かな夜の帳が降りていた。春が終わり、夏の気配を感じる季節である。雲はなく、満月とは言い難い細い月の光と星が煌めいていた。雨の気配をはらんだ湿り気を帯びた空気は、しかし風が吹けばまだ心地よさがある。
どこかでひとり一杯、いや二杯、三杯くらいいいだろうか。ぶらぶらと腰を落ち着けられる場所を探して歩いていると、ぬ、と黒い影が現れた。
「わあ、レノックス、脅かすなよ」
「気づいておられたでしょう」
フィガロが隠そうともしていない魔法使いの気配に気づかないはずもなく。レノックスとてそれは分かっているだろうとは思っていたのだが、驚いて見せたのは、南の国のお医者さんとしてはこのリアクションが正解だからだ。
「ノリがわるいな、おまえは」
「はあ」
「まあいいけど」
レノックスがいたのは、中庭を抜け裏庭に出たところにいくつかある小さな噴水のそばだった。彼がここで何をしていたのかは聞かずとも分かる。ここから見上げた四階の窓の向こうの住人はファウストだからだ。
ここからあそこを見上げて、祈ってでもいたのだろうか。それとも守っているつもりか。外敵は多くないから、たとえば、そう、彼の厄災の傷が溢れていないかを確認するため、とか。ファウストが眠りにつく時間だってわからないのに。
きっとひとしきり見守って、ファウストが寝たかどうかもわからないけれどどこかで満足なのか、諦めなのか、納得なのか、して部屋に戻るつもりだったのだろう。レノックスは基本的に早起きだから、とくに用事がなければ夜が更ける前には床に着く。
「ちょっと付き合わない?」
あそこを肴に。若干の揶揄を込め、酒瓶で四階の窓を指すと、彼の空気が少しだけ冷えた。だが、レノックスのそんな気配などどうでもいい。断って去るならそれもよし、ここにいるなら付き合わせてやる、という気分だった。
「いただきす」
「へえ」
「なんですか」
「べつに」
グラスをふたつ呼び寄せて、酒瓶の栓を抜く。ほんとうならファウストのために開けたかった。なんてね、と思いながら思いながらふわふわと浮くグラスに酒を注ぐ。
「はいどうぞ」
目の前にやってきた中身の入ったグラスを、レノックスは例を口にしながら手にとった。噴水のヘリに腰を下ろし、隣に酒瓶を置くと、フィガロもグラスを手にし軽くかかげる。彼は立ったままだったが気にしない。座りたければ座るだろうと。
グラスをひと回し、ふわりと立ち上る香りを堪能してからグラスに口をつけた。ちびちびとグラスの中身を飲むレノックスを視界の端に入れながら、ふと仰ぎ見る。
四階の窓から明かりも、夢の残滓ひとつ漏れ出てはいない。結界とともにしっかり閉じられたカーテンが揺れることも、その隙間からファウストが顔を出すこともない。窓をじっと見ているのもなんだか、彼が顔を出すのを待っているかのようで、そうではないのだと自分に教えるように、フィガロはそのまま月を仰ぎ見た。
南の国でレノックスと二人で酒を飲む機会はそれほど多くない。例えばフィガロがレノックスが放牧している草原のそばに寄った時、例えばルチルとミチルが不在の夜。そういったとき、連なる山脈と広がる草原、満天の星空を肴に何も話さないか、もしくはフィガロがずっと喋っているかのどちらかである。
山脈も草原も、南の国から見える星空とも違うのだけれど、けれども今夜はあまり話す気分ではない。
「最近のファウスト様は」
しばらく無言で互いに酒の味を楽しみ(レノックスが楽しんでいたから知らないが)、何度か空になったグラスに継ぎ足した頃、不意にレノックスが言うので、フィガロは空を眺める姿勢のまま視線だけ彼に向けた。レノックスはフィガロの方を見ておらず、グラスの中の水面を眺めているようで、けれども見ているものはきっと違う。
「日中にもお姿を見かけることが増えました」
知っている。この裏庭でうずくまるようにしゃがんでいる背中を何度か見たことがあった。彼の周りには、猫が、よくいる。そこに時折、レノックスが小さな羊を連れていることもある。ファウストと同じ東の魔法使いのネロや賢者が混ざっていることもある。
和やかな、いつかのような、いつでもないような。懐かしいような、新鮮なような光景を、フィガロは知っていた。
そこにいるファウストの纏う空気が、再会当初のそれよりも幾分か柔らかいものになっていることも。
「俺はけんもほろろだよ」
茶化すように肩を竦めれば、レノックスが視線を上げる。
「フィガロ様に対するような態度は、俺の知る限りは誰にもしているところを見たことがありません。あれはきっと」
甘え、なのではないかと思います。言ったレノックスが、視線を落としてから階上を見上げた。
「甘え」
「実際はもっと色々な感情が混ざっておられるとは思いますが」
「根拠は」
「ありません」
「ないのか〜」
大袈裟に肩を落として見せてから、フィガロは手にしたグラスに酒を注ぐ。そのくらいにしておいた方がいいのでは、というレノックスからの助言は聞こえないふりをした。
グラスを呷る格好で、月を見て、四階の窓を見る。それからまた、視線を空へと戻した。星は流れることなく、ただそこで瞬いている。
そう言われたところで何も変わらない。ファウストは取り付く島もないままだろうし、フィガロはなんだかうまくやれない、レノックスは四百年探し続けた執念よろしくやりたいようにやるのだろう。
けれどもその、根拠のないレノックスからの言葉には、スプーン一杯分ほどの甘さと喜びがあった。
根拠のない希望的観測だったとしても、そうだといいなと、思ったから。