【フィ+ファ】それが錯覚だとしてもそれが錯覚だとしても
地下水路で意識が闇に包まれた後、夢とうつつをいったりきたりしていた。無意識に完全に意識を失うわけにはいかない、死の淵までは覗くまい、と思っていたのかもしれない。深く沈むときもあれば、光のほうへ浮上し、そしてまた沈んではまた浮き上がるを繰り返している。
あるときは吹雪く雪原のなか、間近に見える黒い衣服と気配はレノックスのもの。だからこれは、地下水路からの続き。だというのに痛みは鈍く、寒さもまた遠かった。
獣の姿となったヒースクリフがついているとはいえ、ひとりきりにしてしまったシノは大丈夫だろうかとそればかりが頭をめぐる。いま彼がどこに向かっているのかまでは分からないけれど、シノのことはすでにレノックスには伝えているから、きっといいように動いてくれる。大丈夫だ、そう思うとまた、意識は闇へと沈んでいった。
次に光が差し込んだのは、突き上げるような灼熱の、太く鋭い熱さからだった。痛みだ、と認識するより早くうめき声が口から洩れる。景色は先ほどまでと同じ吹雪、だけれど目の前にあったのは黒い衣服ではなく、強い風にあおられる薄群青の髪と榛色のまなざしだった。
フィガロ様がいる。ならばこれは夢なのだろう。修行中に幾度も死にかけ、こうして師の腕の中で意識を取り戻したことがあった。荒れ狂う吹雪もどこ吹く風といった様相のかのひとは、ときには慌てふためき、ときには泰然とした笑みを浮かべながら、けれども傷つきぼろぼろになったファウストを必ず治してくれた。
ここまで、師の元まで、たどり着くことができたなら大丈夫だ。助けてくださる、治してくださる。甘えすぎてはいけないと分かっているのに、甘えてしまう。
本当なら、万全の姿をお見せしたいと思っているのだけれど、師から与えられる課題はいつもファウストが突破できるかできないかのぎりぎりのものばかり。けれどそれを越えることができればまた、次につながる。強くなれる。識ることができる。だから今回も、たどり着くことができてよかった。
ああでもどうして、髪も衣類も吹雪の好きにさせているのですか。
夢、だからだろうか。
大丈夫だよ、そう聞こえた気がした。次いで、慣れ親しんだ師の魔力の気配に包まれる。呼吸が楽になったのを感じた。
***
ふわりと意識が浮上する。うっすらと光が刺したのは、ファウストが目を開いたからだった。白い梁とそこまで貼られたきらびやかな模様のはいった壁紙のある天井は、見知らぬものだ。鼻腔をくすぐるのは清潔な香り、手のひらで感じるのは肌触りよく張りのある布。まだ焦点があわずにぼやけた視界の端に、薄群青があった。
フィガロ様。そう、名前を呼ぶために口を開こうとする動きすら重たい。喉はからからに乾いていて、ひゅ、と鳴った。
「ああ、よかった意識が戻って」
落ち着いた響きの声が聞こえ、そうして口元に濡れた布が押し当てられた。そこに含まれた水分が、唇を濡らし少しずつ喉へと落ちてくる。飲み込んで飲み込んで、身体にしみわたる水分に安堵の息を履いた。生きている。
顔のそばで濡れた布を掴むその指先をぼんやりと見ていてはっとした。頬をかする指先がかさついて、汚れているのは手当のためだろうが、爪が割れている。そのすこし節だった、けれども水仕事も知らないような美しい手の先端を飾る、というにふさわしく、いつだって艶めいて綺麗であった爪が。
何度か瞬きを繰り返し、ようやく明確な像を結んだ先には、安堵したように榛色を細めるフィガロがいる。気づいていないのか、些細な傷、後でいいと思っているのか。
傷が、と言おうとしてまだ上手く声が出せずにせき込んだ。その衝撃にはしった痛みに小さくうめくと、濡れた布を枕元の台に置いたフィガロの指が、額に触れる。
「もうすこし、寝ていなさい」
熱が出ている。そう言いながら、触れた指先が眉間を通り、瞼をなでる。反射的に目を閉じた。瞼の上を手のひらで覆われる。手のひらはすこし冷たくて、けれども心地のいい、フィガロの体温だった。みずみずしい草木のような、冷えた花のような香りが、清潔なだけの香りを上書きしながらファウストを包み込み、そうしてまた、意識は深く沈んでいった。
「手を」
「手?」
そのあと、何度か目覚めて眠って、どのくらいそうしていたのか分からないくらいそれを繰り返し、起きている時間が少し長くなり、意識はまだぼんやりとしているけれど話は出来るほどに回復した頃、ファウストは包帯の交換を終え、広げた器具を片づけているフィガロに向かって言った。
まだ自分で起き上がることはできない。いまも背中にクッションを敷いて、それに寄りかかることですこしばかり身を起こしている状態だった。ネロのほうが重体だと聞いているから、彼は大丈夫だろうかと思う反面で、もう大丈夫だろうとも思う。ここにはいま、フィガロがいて、ルチルがいて、皆がいる。
目覚めてからのフィガロは多くを語らず、それまでの口数の多さが嘘のように静かだった。病人相手だから当たり前なのかもしれないし、治療と看病で疲れているのかもしれない。けれどもそこに突き放すような冷たさはない。
「はい、どうぞ」
だから言われた言葉もそれだけで、手の甲を上にして両手が差し出される。じっと見つめてみるも、もうあのとき見かけたような気がする爪の割れも指先の荒れも汚れもどこにも見つけることはできなかった。よく見る、いわばいつも通りのフィガロの指先。
動かすと軋み、まだ痛みを覚える重たい腕を持ち上げ、どうにかその両手をとる。
「あなたは、大丈夫だったの」
まだ、何があったのか、どこで何が起きていたとか細かい情報は聞いていない。ぼんやりとした覚醒の中で会うのはフィガロばかりである。フィガロがどこで何をしていたのか、なにと出会ったのかも何も知らない。だた、シノやヒースクリフやネロ、そしてレノックス、自分があの場で会った者たちの安否が気になるように、いま、こうして目の前で健全に活動しているけれど、彼はどうだったのだろうかと、それだけでも知りたいと思う。
「……まあね」
言葉少なに、けれどもはぐらかすような回答は、恐らく彼も何かしらの出来事には見舞われていたのだろう。確かめるように目をのぞき込もうとすると、肩をすくめたフィガロが距離を取ろうと腕を引いた。それを引き留める力はいまのファウストにはないので、すこしだけ眉をひそめて呻いてみせる。痛みがあるかのように。
思惑通り、フィガロの引く動きがとまった。けれども今度は彼の手を包むファウストの手をはがそうとするので、そうされるよりさきにすこしだけ力を込めて手を握りなおす。
そこにもう、傷がなかったとしても。誰かが、オズや双子が、かれの手当てをしたのだとしても。そのあと重傷者の手当を一手に担い、頼られ続けるこのひとに、労りと感謝を。
目を薄く閉じ、口を開く。心と世界をつなげるための言葉を紡ぐ。
いつもそばにある存在が、力となって身体をめぐり、そうして想いが形になる。
はずだった。しかし、力が身体を巡った瞬間に異変は起きた。
ぎしぎしと体内から音がするかのように身体のそこかしこが軋み、痛みを訴える。衝撃に身体を前に折ったら、その動きで背中がひきつれてまた痛んだ。先ほどの、フィガロの動きを止めるためのうめきではなく、本気の呻きが口から漏れる。痛くて、痛くて目頭が熱くなった。
「なにやってるんだ!」
あまり聞いたことのないような慌てた、強い声がふってくる。いつの間にか離れてしまった手が、痛みにもだえるファウストの背中を撫でた。
「傷はふさいでいるし、回復魔法もかけているけど完治はしていない。きみは魔力をほとんど使い切って、いままで寝ているだけでほとんど食べていない。まだ万全じゃないと分かっているだろう」
「このくらいも、つかえないとは、思わなくて」
喘ぎながらとぎれとぎれに言うと、呆れたようなため息を返される。フィガロの掌が通ったところから痛みが引いていくのを感じると同時に、強烈な眠気に襲われた。
「まだ」
「もう少し寝ていなさい」
「ま……だ……」
「おやすみ、ファウスト」
ファウストの言葉を遮るように、人払いもして結界も張っておくから安心して。とこの状況になってから一度も心配していないことを告げられる。ちがう、そうじゃない。言いたくとも、フィガロによってもたらされた睡魔に抗えるはずもなく、沈みゆく意識の中で、ファウストはうわごとでもいいからとなんとか口を動かした。つもりだった。
助けてくれて、ありがとうございます、フィガロ様。
届いただろうか。届ていてもいなくても、次に目が覚めたら、次に話すタイミングが来たらかならず、伝えたい。当り前じゃない、当たり前だけれど、そうじゃない。
あなたがあなたの意志で、ここにいて、心を向けてくれる、そのことに、感謝を。