「トリック……！！」
　ひどい嵐だった。船は傾き、船員たちは大声で怒鳴り合いながら走り回り、帆を操り、舵を切ってなんとかしようと力を尽くしている。ユーリスは他国の商人との取引を終えて帰国する途中だった。船室で、子供が見当たらない、と発狂寸前になっている女を宥め、もしやと思って甲板に出た。かろうじて縄に捕まり、隅で体を縮めて泣いていた子供を見つけて手を伸ばした、その時。船が大きく傾き、小さな体が宙に舞っていた。
　あのままじゃ、海に落ちるーーー！
　そう思った瞬間、ユーリスは考えるより先に力を使っていた。自分の位置と子供の位置が入れ替わる。あ、やべ。そう思ったのは海面に落ちてからだった。ここからどうするか、考えてなかった……
　ごぼ、と、塩辛い水に阻まれて呼吸ができない。畜生、ここで死ぬのか。女神様ってやつは、本当に、意地が……悪い……
　波に揉まれ、意識を手放したユーリスは、自分の体を捕まえた誰かがいたことには当然気付かなかった。



「人間の船だ」
「かわいそうに、この嵐じゃなあ……おいベレト、あんまり近寄るなよ」
　ジェラルトに岩陰へ入るように言われたが、ベレトは荒波を楽しむかのように海面近くまで上昇した。下半身のしなやかな尾で水を蹴り、暗い水面を見上げる。月だ。月は好きだった。空気に体を触れさせることは少ないけれど、たまに顔を出して人間たちの世界を覗き見るのは楽しい。沈没船の中を探検するのも好きだ。ベレトはもう少し上に行こうか、と白い月をよく見ようと目をこらす。
　しかし、それはどうやら月ではなかった。ベレトは自分の近くに落ちてきたそれが、月ではなくて、柔らかく目を閉じて波に身を任せている人間だと気付いて驚愕した。一瞬体が硬直したが、反射的にその体を掴んで海面へと急ぐ。人間は水中では呼吸ができないはずだ。それに、陸がなくては生きていけない。その程度の知識はあった。ザバン、顔を出した海面はひどい雨で、人間の顔を濡らし続けてしまう。ベレトは焦って泳ぎ出した。向こうに小さな島がある。そこへ行けば、きっと。
「ゲボッ、ゴボッ……！」
　人間の体を抱きかかえるようにして泳ぐ途中、突然その体が音を立てたので、ベレトは飛び上がって驚いた。うっすらと目を開き、月明かりの下、人間は一瞬ベレトの顔を見たが、すぐにまた眠るように意識を手放したようだった。
　ようやく砂浜に人間の体を横たえた時、ベレトはその胸が上下に動いていることに安堵して、彼が起きるまで傍にいることにした。美しい色の髪と、月のように白い顔。それに、触れると温かい。人間は不思議だ。けれど、貝殻より、珊瑚より、綺麗だと思った。


　ユーリスが目覚めたのは、眩しい太陽が自分を照らしていることに気付いたからだった。
「うっ……！　どう、なったんだ……？」
　自分の体を確認すると、服も腰の剣もそのままに、砂浜で伸びていたようだった。奇跡だ。助かったのだ。
「船は……！？」
　砂浜には自分以外、流木や貝殻のようなものしか見当たらなかった。他の人間も船の荷物も、残骸もない。なぜ自分だけがこんな場所に打ち上げられていたのか、ユーリスには見当もつかなかった。しかも、ここはどうやら陸続きの場所では無い。背後に広がる鬱蒼とした林を見て、頭を掻いた。とりあえず、と濡れた服を脱いで絞っていると、ふと海が目に入る。そこに、人間が顔を出していることに気がついて、ユーリスは立ち上がった。
「おっ、おい、あんたこの島の人間か！？」
「！！」
　ベレトは見つかったことに焦り、思わずちゃぽんと海の中に逃げ込んでしまった。夜通しユーリスのことを見守っていたのだ。ザブン、とユーリスが海に飛び込み、ベレトの方へと泳いでくる気配があった。なんだ、泳げるんじゃないか。そう思って見上げてみると、ユーリスはベレトの下半身を見て、なにか、「がぼごぼ、！！　……！！」としか聞き取れないことを言っている。そういえば昨夜もガボゴボ言っていたな、人間の言語は面白いな、と呑気に考えるベレトを置いて、ユーリスは砂浜に逃げ帰っていった。