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    猿と見下した相手に恋という意味で心をおられる夏の話。完成。
    「価値があるから殺さないだけ」

    #じゅじゅプラス
    longevityBonus

    「あのこ、呪われてるんです」
    「呪われてる?」
    新しい相談者の言葉に、真摯に耳を傾けるふりをする。他の信者の伝手を辿りやってきたこの相談者には、金銭と言う意味で価値が見えた。
    新たな利用価値の高い信者を増やすために、面倒でもリアクションは重要だ。相手にとって気持ちいい反応をしてやれば、話はトントンと進む。猿の話はどれもこれも誰かのためと知って結局自分の本心や見栄や保身のためであり、正直反吐が出るが、糧になる相手なら差し引き少しマイナス程度。それくらいの労力は、いずれの呪術師の世界のためなら割いても苦じゃない。
    今回相談に来た白瀬一族は日本でも有数の富豪の一族であり、上手くいけばそれなりの資金を引き出せるだろう。会社経営すら娯楽といっても構わないほどの富を築き、その才能ゆえに富を増やすことこそあれ、衰える気配は今のところ見えない。
    「嘘をつくんです。ありもしないことを、本当のように滔々と」
    相談にやってきたのは、他の信者の紹介を受けた白瀬当主の夫人だ。一人娘が居るとは聞いていた。写真を見せられたが、表情のない写り具合は人形のようだ。何を言い出すか怖くて表に出せないという夫人が言う。ありもしないこと、がどういうことなのかは、躊躇ってはっきりと言わないが、もしや見えるのでは、興味が引かれる。呪術師のことを知らずに大人になる呪力を持つ人間はほんのわずかに存在している。もしそうであるなら、この一族の利用価値が変わってくる。本来なら別の人間の面談を経てから私が会う、という宗教団体らしい演出があるのだが、すぐにその娘に会ってみることにした。

    「初めまして。白瀬理緒です」
    写真で見るよりもずっと生気に溢れた光を宿すその女性は、実際に会えば、ただの猿だった。呪力のかけらも感じないのに、元々期待なんてしていなかったので落胆もしないが、詰まらない気分になる。
    さて、と気を取り直し、どれくらい金を搾り取れるか、と考えながら猿を眺める。特に呪霊が付いている様子もないので、ありもしないこと、というのは親の過剰な心配か見栄だ。思い通りにならないことを何かのせいにしたいだけ。
    「初めまして」
    温和に微笑んでやれば、女性なら大抵多少の気を抜く。呪術師でないなら話を聞き出す必要もない。さらに入れ込むように適当に呪いの演出をしてやろうと、猿につけるためにいくつかの弱い呪霊を選ぼうとした私に、猿は私を眺めるようにした後、言った。
    「確かに教祖さまですね」
    「え?」
    思わぬ言葉に猿を見ると、猿は微笑んだ。理知的な気配に思いがけない、それこそ人間のような印象を受けて一瞬、眩むかのような感覚がある。
    「自分は私たちとは違う、って目をしてます。本当に傲慢でらしいことですね。身内以外はみんな軽蔑するし忌まわしいものなんでしょ?」
    初対面の人間が口にするとは思えない、そして失礼のないようにと、散々言い含められているはずなのに、気負いもしない彼女の眼差しは見据えても揺れもしない。
    「……お嬢さん」
    「白瀬です」
    名前など覚える気もなかったゆえの呼びかけに、すました顔で彼女は返事をした。
    「殺しますか?あなたは人を殺せる人です。そんなものこそ私は人だとは思えませんけどね」
    あまりに見透かしたような思い切りのいい言葉々に瞠目する。断言の形をとる台詞に、もしや彼女は呪術界隈の関係者なのかと目を細めた。
    「君は……もしかして私を知ってる?」
    「自意識過剰ですよ」
    刺すように彼女は笑って否定した。
    腹が立たず苛立ちも覚えないのが不思議だが、彼女のさっぱりとした言い口に悪意も敵意もないからだ。彼女はただの指摘をしている。
    「あなたの目を見ればそれぐらいわかります」
    彼女は今度は可憐に微笑む。命ごいをするには、あまりに愛嬌があった。
    「殺さないでくれたら、今回のおしゃべりのお礼に6桁を支払いますよ。教祖様。やりたいことのために、お金が必要なんでしょう?」
    最後に利用価値をアピールしてくるところに、本当に久しぶりに猿に対して笑ってしまう。
    「いいよ。いいだろう。君はまだ生かしておこう」
    でも。とこちらも目を細めて微笑む。笑みに好意がないことは伝わるだろう。彼女はとても賢しい。
    「いずれ殺すよ。反抗的な信者はいらないからね」
    「どうぞお好きなように。教祖様」
    形ばかりの恭しさは彼女が怯んでない証拠だ。凛々しく背を伸ばしてこちらを見ている姿に、妙なざわつきをそっと殺す。
    それが、白瀬理緒との出会いだった。


    彼女と会う時は教団の部屋だ。黒塗りの車に乗ってやってくる彼女を、建物の上階から見下ろせば、彼女は視線に気づいたかのようにまっすぐに私を見上げてきた。思わず笑むと、隣で補佐が夏油様? と不思議そうに問いかけてくる。なんでもないと答え、窓際から離れた。
    部屋で信者を待たせるのも演出の一つだが、彼女に対しては無駄だと感じているので彼女が部屋に入った直後に足を踏み入れる。畳に綺麗に正座した彼女は、前回も足を痺らせるような姿は見せなかった。令嬢としての躾は十分らしいね、と思いながら向かいに座る。
    「こんにちは、教祖さま」
    微笑む彼女は一見清楚な女性だ。
    「この前のお金で話好きな議員捕まえたんでしょ? やるね」
    どこから仕入れた話なのか、そんな正解を口にした。あっさりと私に対して敬語を使わなくなった彼女を咎める気にもならない。特異な猿(彼女)の扱いをどうすべきか、対応に閉口していて話をするのは気が向かないが、ただ、すぐに帰してしまっては、一緒に来て外で待っている夫人の追求が面倒だ。
    仕方ないかとわざわざ尋ねてやる。
    「君の母親が言っていたけど、ありもしないことを話すんだって聞いたよ」
    彼女は私の問いかけに微笑んだ。
    「人はね、自分が理解できないものを排除しようとするの」
    その台詞は、まるで私の方がいずれ彼女に言ったかもしれない、紛い物の慰めのような真実だった。目を見張る私に、彼女は続ける。
    「私は排除されたい。狙ってるのは勘当かな。うまくやらないと、幽閉されちゃうから、バランスを見ているところ。でも教祖さま(あなた)のせいで今は保留中」
    「……どうして排除されたいって思うのかな」
    他の信者にするように優しく問いかけてやる。時間分のサービスというわけではないが、話を引き出しやすいならそれに越したことはない。彼女の話は妙に神経を刺激する。苛立ちともつかない妙な感覚が気持ち悪い。
    「理由は幾つかあるけど、詰まらないからかな」
    彼女は勿体ぶる様子もなく、簡単に口を開いた。
    「詰まらない?」
    「そう」
    彼女は簡潔に頷いて、それから立ち上がった。唐突な行動に彼女の表情を見ると、彼女はにこりと笑う。
    「もう帰る。実はこのあと、夜遊びをする予定だから。続き、聞きたかったらまた今度聞いて」
    「まだ話は……」
    「前回と同じだけ振り込んであげるから。それじゃだめ? 教祖さま」
    愛嬌のある笑顔でそんなことを言った彼女に、色々と言う気を無くしてひらひらと手を振った。無駄な時間が早く終わるならそれに越したことはない。
    足を痺れさせた様子もなく、スカートの裾を揺らして彼女は、私を振り返ることもなく部屋を出ていった。



    「今日はいくら欲しいの?」
    3回目の相談。
    開口一番に出てきた彼女の台詞があまりに外見とかけ離れていて失笑する。これではヒモに貢ぐ女のようだ。御令嬢とあろう人間がひどい台詞を口にする。
    「教祖に言う台詞じゃないよ」
    「だってそうでしょう? 今日は他に何か話すことがある?」
    首を傾げる彼女に邪気はない。彼女に邪気や悪意があったことなど一度もないが、それでこの言い様なのだから確かにご両親は困るだろうな、なんて思った。
    「この前の話の続き」
    「あの話興味あるの?」
    「君のご両親に、君を表に出しても恥ずかしくないようにしたい、という相談を受けているからね」
    「ああ。そうなんだ。幽霊の話かと思った」
    どきりとして彼女をよくよく見ても、やはり呪力は感じられない。彼女は私の視線に気づかないように、そうね、と考えるようにする。
    「この世界は普通であることが大切でしょ? 普通、というか一般常識、多数派、なんでもいいけど、迎合して生きていかないとならない。それが嫌」
    彼女の話は私と妙な符合があって嫌な感覚がした。
    「普通、敵も作らず良いことだと思うよ」
    そんなことを言った私に彼女は笑った。
    「思ってもないことを言うのが上手ね。教祖さま。あなたこそ排除される側でしょ?」
    その言葉に感心する。よくもまあ煽れるものだ。
    彼女がどこまで何を察しているかは知らないが、人殺しだと見抜いた相手にすごい言い様をする。でも馬鹿なわけじゃない。殺されないと確信した上で、ぎりぎりの薄氷を踏んでいる。
    「君はよく殺されたがるね。君の言う私の身内がいたら、無事では済んでないよ」
    どんな反応をするのか気になってそう口にすれば、彼女は首をかしげた。
    「侮辱に聞こえた? そのつもりはないけれど、そう聞こえるなら、私と価値観が違うわ」
    脅すような言葉も彼女の返しに軽快な戯れのようになる。
    「狭い水槽の中でいじめられる魚がでるように、世界という水槽のバランスを保つために、排除される人間は出てくる。排除する人間にはなりたくないの。だから私は『ありもしないものが見える』のよ」
    そう笑う彼女にかける言葉を見つけられず、その顔を眺める。
    惜しい、と思った自分の思考に驚いて振り払った。猿(彼女)に対しての嫌悪が消えているのに、やはり今殺すべきか、と目を細める。
    「それで」
    彼女はにこりと笑った。
    「いくら欲しいの?」
    最初のセリフに戻った彼女に、ため息が出る。
    「…………………前回と同じでいいよ。時間も短いしね」
    「そ。思ったより寄付の要求、がめつくないのね。振り込んでおくわ」
    挨拶は済んだ、と言わんばかりに立ち上がると、ワンピースの裾を揺らして彼女は戸の方へ向かう。ワンピースの色はいつも淡い。さぞかし血が映えるだろうな、なんてその華奢な背を見ながら考えた。
    呪霊を仕掛けるタイミングを計りながら、振り返りもせずに、あっさりと出ていった彼女が見えなくなったのにもう一度ため息をつく。
    まだまだ金は引き出せそうだが、彼女が真実を見抜くようなことを口にするのに、危険だと冷静な思考が囁いてくる。彼女が何か騒ぎ立てたとして、信者たちが勝手に彼女を黙らせるのだろうが、不安要素は排除したい。
    だけど──。
    今日の会話を思い返す。なんの気のないような顔をして話ていたが、その内容はまさしく、私が感じている世界の側面と似ていた。
    でも猿だ。
    「……そうだね」
    次、余計なことを言うようだったら、やはり殺してしまおう。



    「夏油様」
    いつもの皮肉でも効かせているのか尋ねたくなるような「教祖さま」の呼び名はない。白のロングドレスに身を包んだ彼女は、首元のダイヤのネックレスや、綺麗な手を魅せるようなブレスレットで上品に飾り立てられていた。どれもそんなに派手ではないが、華やかなのは彼女自身のせいだろう。黙って人形のように微笑んでいる彼女は、いつも私の前で余計なことばかりをいう小娘とは別人だった。
    今夜のパーティ会場である、白瀬本邸に到着した車のドアを開いた使用人に、彼女とその母親が立って出迎えてくれた。近くに仕込んでおいた監視用の呪霊が浮いているのを確認する。
    「遠いところをご足労いただきありがとうございます」
    「いえ。こちらこそお招きいただき、ありがとうございます」
    そんな言葉遣いで話したことなど一度もないのに卒のないやりとりで、パーティ会場まで案内される。装束で異質さをアピールするのではなく、今回は相手の警戒を解くためにブランドスーツに身を包んでいた。
    おとなしい振る舞いをしているらしい彼女に私の力をあっさりと信じ込んでいる白瀬家の当主は、他の方にも素晴らしさを伝えたいとパーティを開いていた。別に頼んだわけでもないのに、まあ搾りがいのある金持ちだと思う。私のご機嫌を取りたい猿などたくさんいるが、その中でも白瀬家は優先順位が高かった。彼女が余計なことをしなければ、このままその時まで延々と寄付してもらうのがいいだろう。
    立式のパーティは、人数が多く派手なものだった。あらかじめ招待客はチェックしてあるので問題ないが、たくさんの猿がいる鬱陶しさに眉を顰めそうだ。気になる人がいたら紹介しよう、と都合の良いことを言われているので、目ぼしい相手をそれとなく探す。
    「まあ、理緒さん。お綺麗になって」
    そこで背後から聞こえた声に振り返ると、見知らぬ女が彼女に話しかけていた。
    「ご無沙汰しております」
    丁寧に頭を下げる彼女の所作は楚々として、白瀬の御令嬢に相応しいものだった。隣にいた男が無遠慮に近寄る。
    「婚約はまだだったかな? 良い人はいるのかい?」
    「しばらく体調を崩しておりましたので……」
    控えめに視線を伏せる彼女に、女の方がああ、と頷いた。
    「そうだったね。家から出られないと聞いていたわ。大変だったわねえ。もう大丈夫なのかしら」
    心配するふりをして、根掘り葉掘り聞くような問いかけに不愉快さを覚える。
    「はい。ご心配をおかけしてすみません」
    「良いのよ。白瀬の名に恥ずかしくない人間でいてくれたら」
    「病気でこもっていたんじゃ、君の年じゃあ遊び足りないだろう。きちんと後継ぎを産めるのなら、問題ないさ」
    上品に微笑んでいる彼女の瞳には、いつもの生気のかけらもない。
    『排除されたいの』
    脳裏で彼女の言葉がよぎる。あの村で感じたのと同じように胸の底からどろりと溢れる嫌悪を飲み込んで、私は彼女に声をかけた。
    「理緒さん。そちらの方は?」
    驚いた彼女の反応に、僅かにだけ胸が空く。そのまま肩に手を置くと、彼女が驚愕の表情を堪えるのが分かった。幾分良い気分になる。代わりに警戒するような目つきを向けてきた二人を悠然と見返した。
    「あら、理緒さん。なんだ。良い人がいるんじゃない。どなたかしら?」
    私の手を見て勝手に何かを察したらしい問いかけに、理緒が戸惑ったように私を見上げてくる。
    「いえ、その」
    否定しそうな彼女に被せるように、口を開く。
    「夏油傑と申します。白瀬様にはお引き立ていただいて感謝に堪えません」
    愛想のいい笑みを浮かべると、ああ、と男の方が頷いた。
    「当主が言っていた青年とは君かあ」
    「そうなの? ご当主が?」
    手のひらを返したような反応を見るに、あの白瀬の当主は親戚一同に信頼されているようだった。あれだけ財を築く手腕があるのならそれもそうだろうと思う。随分と有効活用させてもらっているが、親戚一同の覚えもめでたいようだ。有力な人間があちこちいるようだし、よくもまあ、価値のある猿だなといっそおかしくなる。
    そこにやってきた噂の白瀬の当主の都合の良い計らいで、いくつかの価値ある猿を見繕うことができた。和やかに続く初対面の挨拶と腹の探り合いのような会話の中、理緒はずっと黙っていた。顔にあの人形のような笑みがないのにむしろ清清とする。
    帰らなきゃならないという私を不躾に引き止めずに、すぐに車の手配をした当主が、何を気遣ってか私と理緒を二人にするのに、理緒は呆れたようなため息をついた。
    「気まぐれも大概にして」
    「君が不機嫌なところは初めて見るね」
    にやりと性根の悪いと自覚する笑みを浮かべる。誰か見ているんじゃないかと思ったらしくきょろきょろとする彼女に、君と私しかいないよ。と続けた。
    「…………あなたは人の心を折るのが上手ね」
    ため息をついた彼女の、思いがけない言葉に目を瞬く。
    「車まで送ります」
    そう言った後、彼女はそのまま一言も話さず、そして私の乗った車が宵闇で見えなくなるまで、ずっと見送っていた。

    教団に戻ってふと思いついたが、彼女の名前を覚えなかった私がわざとらしく名前を呼んだことを、心からの嫌がらせだと思ったのだろう。
    彼女らしい。と肩を竦める気持ちで車に乗っていた私は、不意に聞こえたような空気の振動にはっと背後を振り返る。
    「戻ってくれ」
    「へ?」
    私の声に鈍い反応をした運転手に怒鳴る。
    「戻れと言ってるんだ!」
    急ブレーキをかけて車を元来た道に引き返した車がスピードを上げるのに舌打ちをする。呪霊で飛んでいった方が早い。
    ここ3日、パーティの件もあり、白瀬の家の動向を見張るために、つけていた呪霊が異変を知らせてきていた。
    運転手に車を止めさせると走り出しながら、飛行出来る呪霊を呼び出し飛び乗った。滑るように速く飛ぶあの館に向かう呪霊をさらに急がせる。
    館は奇妙に静まり返っていた。
    チャイムを押しても反応がない。鍵のかかっていない扉を開ける。玄関で使用人が死んでいた。
    「…………」
    呪霊の気配はない。傷は銃創に見えた。
    白瀬が抱える多くの妬みや恨みのことを考えながら、中に入り、物音がしないか探る。人間が相手だとしても負けるはずもない。
    上階のパーティ会場の方で銃声がして、階段を駆け上がる。途中途中に死んだ人間が点々と倒れていた。まるで学生時代に向かわされた事件現場を走っているような感覚で、手遅れの死体たちを横目に会場のドアを開け放つ。
    テーブルの影になっているが奥に反応した男の姿。反射的に向けられた銃口に、こちらもためらわずに呪霊で心臓を貫いた。
    呻き声も出せずにぱたり、と倒れ伏した男のそばに、彼女が仰向けに横たわっているのに気付いて息が止まった。
    「……理緒?」
    白いドレスは胸が赤く染まっていた。血の気がない顔は余計に人形みたいだった。目を閉じているその顔のそばに近寄ると、気配を感じてか彼女がうっすらと目を開けたのに瞠目する。
    「…………」
    焦点の定まりきらない瞳で、それでも何か言おうとしている彼女は声を出す力ももうないらしい。出血量から、もう助からない傷だとは分かった。
    彼女を助けるなら、理由が必要だ。今から病院に連れて行ったとして間に合わない。猿をわざわざ助ける理由はない。
    立ち尽くす。
    時間がない。
    彼女を失う想像をして、それ以上の思考が止まった。答えなんてもう出ているのを、認められないだけだ。無様さを笑う余裕すらなくて、私は一度目を閉じると、それから開けた。
    そっと彼女のそばに跪く。
    かろうじて生きている彼女に、仕舞い込んでいたその呪霊を取り出した。
    きっと恨まれるだろうと想像がついた。そして助かるとも限らない。もっとむごい結果になる可能性の方が高い。
    それでも──。
    口の中でその呪霊を噛み潰す。
    彼女を抱き上げると、唇の端から血が滴った。口付けて呪霊を流し込む。抵抗するように私の服を掴んだ冷たい手は、それから、力が抜けてパタリと落ちた。





    撃たれた後の記憶はない。
    あの人が来たような気がしたし、そうだろうと呪術師の人に言われたけど、覚えていないのでぼんやりしてしまう。
    白瀬一族に恨みを抱いた男の凶行で、パーティ後、館にいた私の家族や使用人は全て殺されてしまった。
    私は、血の跡と銃痕のある服で一人で目が覚め、その時には周囲に誰もいなかった。
    私を保護してくれた警察は、私が『ありもしないもの』を見るようになったことを心配して精神科を紹介してくれ、私はそこでたらい回しにされた挙句、呪術師、という人と出会うことになった。
    私の体にはどうやら呪霊が混ざっているらしい。
    特級呪霊八尾比丘尼。
    その性質は、伝説の通り、食べた人間に不死や不老をもたらすとされているが、真偽は不明だったそうだ。私はその一部を食べたか何かしたらしい。おかげで呪霊が見えるようになり、八尾比丘尼の肉の効果を狙う呪霊を寄せ付ける体質になってしまった。
    そんな私は、今、呪術専門高等学校で特別生徒として、呪術の勉強をしている。
    あの人が何を考えているかなんてちっとも分からないけど、でも、何をした呪詛師なのかは分かった。
    あの惨殺で親戚のしがらみもほとんどが消え、私は、それでも多額の遺産を引き継いで、新たな世界の縁に佇んでいる。
    私は彼のせいで完全に排除されてしまった。普通が良いことだなんて言っていたくせに。私はもう元の世界には戻れない。
    「教祖さまって本当だったんだ」
    救われてしまったのなら、お礼をしなきゃならない。
    「膝を折らせてやるわ。夏油傑」
    私は微笑んだ。
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     顔をあげると 7892