王子様は自販機の音で目が覚めたたまたま入った談話室で、見慣れた後ろ姿を見つけた。そういえば、部屋にいなかったなと思いながら自販機まで歩いていくと、その斜め向かい側に明るい髪色が突っ伏していることに気が付いた。
おもわず立ち止まってしまい、じっと動かないつむじを見つめる。まばたきもせず、息をひそめること数秒。丸まった背中がゆっくりと動くと、自分でも驚いてしまうほど深いため息がでた。
「よう、レン。トレーニング終わりか?」
どうやら気づかれていたらしい。物音を立てずに振り返ったガストが、いつもどおりにこやかな顔に、似合わない小声で声をかけてきた。そのことに少々、ムッとした。して当然だと思うのに、自分が促す前に気遣われたことに自分の特権を横取りされたような気がしたのだ。
「ああ」
レンの返事もいつもと変わらず短かったが、彼と一緒で声はとても小さい。そのことに気づいたのだろう、ガストが「ずっと寝てるんだ。疲れてるんだろうな」と苦笑いを浮かべた。
午後十時を過ぎた談話室は、レンが想像していたよりもずっと静かだった。だれかと一緒に過ごすよりも、トレーニングをしたり、一人で本を読むことを好んでいるから談話室に立ち寄ることはたまたま通りかかったときぐらいだ。けれど、そのいつでも、談話室はとてもにぎやかだったと記憶している。レンが部屋に戻りたくなるぐらいには。
自販機でミネラルウォーターを買おうしていた手を引っ込めて、ポケットに握っていた小銭をつっこんだ。ゆっくりとガストが使っているテーブルに近づき、迷わず彼の正面に座る。
「なにも買わないのか?」
「ああ」
眠っているのが幼なじみのウィルだということには気づいていた。明るい髪色は幼いころから変わらず、太陽の下でも、静かな部屋の中でも、レンにはとてもきらきらと優しい色にみえて、見間違えることはないからだ。
「いつからいるんだ?」
「ウィル?」
「いいや、お前だ」
突っ伏しているかと思ったが、ウィルは顔を横に向けて眠っていた。隣に座るとよく表情がみえる。いつも甘いものばかり食べている頬がテーブルにつぶれて少し痛そうにみえたけれど、良い夢でもみているのかもしれない。まゆは穏やかに弓なりを描いていて、まつげがときおりフルっと震える。
しばらくして、ガストが静かに答えた。
「……十分ぐらい前かな」
うそだな、と思った。
「……ふうん。そうか」
それでも納得したのは、ガストがうそを吐いているからといってレンに都合が悪いわけじゃなかったからだ。彼は自分がうそを吐いたり、騙したりするのは平気だと思っているらしいが、平気だからといって上手とはかぎらないことには気づいてないらしい。すくなくとも、一年近く嫌でも一緒に過ごしていれば他人にだけ分かるところも見えてくる。彼はうそを吐いている。
十分ほど、ウィルの寝顔をみて過ごした。横目でみたガストは、なにも気にしていないふりをしながらスマホを触っていた。そんなこと、部屋ですればいいだろうとは言わない。彼がウィルに対してどういう感情を抱いているのか、レンは嫌でも分かっていたし、邪魔をするつもりもない。
ときおり、廊下がさわがしくなる。その音の塊は魚のように揺らぎながら談話室を通り過ぎて、遠ざかっていく。そのたびに、まばたきをせずに横で眠っているウィルをみた。まつげが揺れる。ほっと息を吐く。なんどもなんども繰り返す。自販機の水底の砂を揺らすような低い機械音と時計。そして三つの穏やかな呼吸だけが部屋を満たしている。とても心地の良い空間だと思った。
「小さいころ」
ウィルの穏やかな表情を見つめながら、レンはそうっと言葉を空気に乗せた。気づかなければそれでもいいと思っていたのに、期待通り、ガストはレンの言葉に顔をあげた。それを横目でみて、やはり少しだけムッとした。もう、これは一生付きまとうのかもしれないと思えてきてうんざりしてくる。それでも、構わないとウィルの寝顔を見ていると思えてくるから腹をくくるつもりではいるけれど。
「ウィルは、体が弱かったんだ」
「ああ。聞いたことあるよ」
意外だなと思ったが、そういえば、ニューイヤーにアキラと三人でテレビ番組の手伝いをしたと言っていたなと思い出し、頷くだけにとどめた。
「調子が悪いときもあれば、良いときもある。事前に分かるわけじゃないから、いつもウィルに会いにいくときは何冊も本を持って行っていた。部屋で一緒に過ごせるように」
「へえ、優しいな。じゃあ、アキラも?」
「アキラがじっとできるわけないだろ。あいつは部屋で過ごすことに飽きたら姉さんと外で木登りとかしていた。俺たちが窓を開けて手を振り返すまで、ずっと大声で名前を呼んで、そのたびに近所の人に笑われた」
「ははっ、アキラらしいじゃないか」
「バカなだけだろ」
思い出はあたたかく、記憶はレンの心を優しく包み込む。だれかに聞かせたことはなかったが、言葉にしてみると必要以上に口が回ってびっくりした。けれど、そんな柔らかな記憶の中にも、少しのトゲが混じっている。喉の奥がきゅっと縮こまる。
「体調が悪いと、ウィルはちょっとだけと言って横になっていた。数分もしないうちに眠って、じっと動かなくなることも多くて、俺は、それが少しだけ怖かったんだ」
心臓の奥底にこびりついて剥がれないものをむりやり吐きだすのはやっぱり苦しい。知らず知らずのうちに握ったこぶしが冷たかった。
横目で正面のガストをみると、彼はただだまってレンの言葉を待っているようだった。いつもは聞いてもいないことをペラペラと話して促すくせに、今日にかぎってだんまりを決め込んでいる。そういうところだと、腹が立ってくる。
「起きなかったらどうしようって思った」
階下ではにぎやかに店が営まれているはずなのに、ウィルの部屋はとても静かで、穏やかすぎた。きちんと並べられた本棚、片づけられた机の上。そこには昨日とまったく同じ教科書と筆箱が置いてある。それが、とても怖いことだと思ったのだ。
「そんなにひどかったのか?」
その質問には首を横に振った。
「さあな。小さかったから、詳しくは教えてもらっていない。俺がアカデミーに入るころには多少マシになっていたし、もしかしたら考えすぎていたのかもしれない」
「でも、レンは心配だった。だから、本を持っていっていたんだろ」
おもわず顔をあげた。
いま、この男はなんと言った?
「は?」
「ウィルから、小さいころはレンとよく本を読んでたって聞いたことあるぜ。レンは優しいから、いつも起きると一番最初に起きたのかって声をかけてくれたっていうこともな。それって眠っているウィルが起きるのを待っておくためだろ。何冊も本を持って行くのは、ウィルが気を使わないためだ。本を読んでただけだって言うために」
まじまじと正面に座る同室の男をみた。そこにはいつものヘラッとした軽薄な表情ではなく、パトロールやLOMでみせる、頼りにしてもいいと思える真剣な表情があった。はっ、と息を吐く。それが、どういう意味が込められていたのかは、まだ気づきたくない。
音を立てずに席を立った。自然と視線を上にあげ、ガストがレンを見上げる。「行くのか」と言われた。返事の変わりに頷くことで返した。
「ウィルは起きると、いつも「いてくれたんだ」と言っていた。だから、お前に任せる」
「え」
「意味が分からないのならいますぐ部屋に帰れ」
「いやいや、分かるって。任せろ。ぜったいに、任せてくれて大丈夫だから!」
「……」
そんなに話すとウィルが起きるだろう、とは言わなかった。そろそろ日付も変わる。いつまでもここに眠っていたら疲れもとれないのだから、少しぐらい騒がしくして起こしたほうがいいだろうと思ったからだ。
二人に背中を向けて歩き出す。数歩歩いたところでそうっと後ろをうかがいみると、頬杖をついたガストが目を細めてウィルの寝顔をじっと眺めていた。そこからじゃ見にくいだろうが、まだ一番近い場所を譲る気にはなれなかったので、やっぱりこれも黙っておくことにした。すべてを任せるには、まだ早い。
――ウィル、起きたのか。
――……レン、いてくれたんだ。
――ああ。本が、おもしろくって。
――そうなんだ。ねえ、どんな話?
――じゃあ、一緒に読もう。たくさん持ってきたから。
――ありがとう、レン。
――なんでお礼を言うんだ? 俺が、ウィルと一緒に読みたいんだ。
――ふふっ、そっか。それは、うれしいな。
――……うん。
「起きたのか」
そうっと言えなかった言葉を口にしてみる。
それは自分でも驚くほど優しく響いて、照れ隠しついでに自販機のボタンを押した。