まだ雌堕ちてない観測者🔮とその様すら愛しい赤服🤕「お目覚めか?眠り姫」
予想の通り、体自体は幾分弱っているらしい。音の持ち主が部屋に入る間際に足音を知覚した聴覚から、イライは己の状態を把握する。
それが何者なのか、イライには疾うに予想がついていた。それだから、地面に視線を落としたままの顔を擡げるつもりはなかったのだ。視線をやれば、その人物を…何故だかは不明だが…少なからず高揚させることになるとイライは知り得ていた。
しかし、細やかな犯行も兼ねた思惑は無に帰すこととなる。体を拘束する蔦の内、幾本かが顔にへと這い、その面持ちを強制的に擡げさせたからだ。
渋々眼前を見れど、薄暗がりの室内では一向に視野が良くならない。
ただ、暗がりの中で浮かび上がるように佇むひとりの赤い男だけは、嫌味なほどしかと視ることができた。
「…紳士殿は女性の扱いに慣れていないらしい、姫と呼ぶには随分な待遇だ。それとも、カントリーではこういったエスコートが流行りだったのかな?」
イライの眼前に立ったその男は、実に不気味であった。
胸元に黒々とした痣があり、そこに大ぶりの白い蝶が佇んでる。同じように、小ぶりな蝶が幾つも左目と右肩に集っている。とりわけ左目はその花のような蝶によってすっかりと覆い隠され、そこに眼球があるのかどうかすら判別がつかない。
どちらも常軌を逸した光景だ。蝶は、美しいけれども…死体を食う。その性質を鑑みれば、その男が人ではないのだろうと容易に推測できる。
肌色は血の気を失い白く、暗がりの下ではもはや青いとすら見受けられる。その身に真赤い服を纏っているものだから、色の差がますます際立ち、肌色をいっそう青く白く映している。
草臥れた貴族の如き衣服はフリルを除いた胴の箇所が末端に向かうにつれて黒ずんでおり、その色の変化は真赤いその色を血の様だと思わせた。
資料に記載してある赤服の人物とは、おそらくこの様から名付けられたのだろう。暗がりに血を垂らすようにして浮かぶ様は、なるほど人々の脳に焼き付くような恐怖を感じさせる。
顔立ちは、美丈夫と言えたのだろう。それも群がる白い蝶の不気味さと青白い肌、それから胸元にある黒い痣さえなければ、の話だ。黒ずんだ痣は顔にまで広がっており、その面持ちの美しさを不気味に崩してしまっている。
肌と同じように髪は白い。白髪は年老いた者を思わせるものだが、しかし男の髪は老人というには些か不可思議な艶があり、その美しさも相まって、男に恐怖という印象を与えていた
暗がりの中で美しく閃く白い蝶を纏わせ、血のように色濃くそこに在り続ける男。この者こそが、ここ数年…ここら一帯を深淵により治めている異形。赤服の人物であった。
「そう拗ねるな我が花よ」
男は白い肌にある唇を笑ませると、伴って銀色に濁った眼を笑みに移ろわせる。そうして項を沿っていたイライと目線を合わせるように、膝をついては腰を落とした。
焦点の濁る死体のような銀の眼差しは、しかし確かな意思をもってイライを見つめている。悪態を受けてなお、その唇は愉快気に笑んだまま。加えて姫の次は花ときた。どう見繕えども、この男がイライに向ける感情は明らかだ。
イライとしては目を反らし続け、気づかないままを貫きたいところだが…しかしそうにはいかない程に、眼前の男は大胆である。
今でさえ、その手はそろりとイライの体躯へと触れる。掌で腰を包むように触れ、そこから脇にかけてするりと撫であげる。そうして胸元へと辿り、指先を顎にやってくい…と、蔦ではなく自らの指でもって目線を合わさせた。
意図を伴った愛でるが如き手つきに、イライは背中の皮膚が粟立つのを留められない。その眉先が忌々しげに歪む様を見て取ると、男の目はいっそう嬉し気な弧を描いた。
「私とて心苦しいのだ。しかし…この黒衣は、如何にもお前に相応しくない。もっと私好みのものを繕ってやりたいのだよ」
「…礼服を侮辱する相手とダンスを踊りたがる好き者が、果たしていると…、…っ」
気後れすることなく紡ぎ続けていた憎まれ口は、けれども半ば強制的に閉ざされることとなる。蔦の幾本かが口元に集い、その唇の内側にまで入り込んだからだ。思わず閉ざそうとするも、衰弱し力の入らない唇では噛み切ることもできやしない。
(またか…っ)
次々に咥内へと侵入する蔦に、イライはいっそう眉を顰めた。
蔦たちは咥内へと好き放題に入り込み、舌を撫で、絡みつき、歯列を…上顎を撫でる。まるで愛撫のような動きに耐えていれば、蔦から甘い蜜が溢れ出していく。
眼前の男の右肩や左目、胸元にも同様の蔦が這い出ていることからしても、この蔦はこの男を主人としているに違いない。そんな何とも知れない蔦から分泌される液を吐き出すこともできず、ただただ喉に通すほかないのだ。一体どんな作用を齎すかも解らないというのに。
「ん…っ、ン、ぐ…ぅ……ンん…っ」
蔦が行う供給行為は、もう幾度目になるか解らない。赤服の男に見つかり拘束されてからというもの不定期に行われている。自白剤じみたものか。弱らせるものか…この男がイライを好いていることを鑑みると、もしかすれば死なないように栄養を補給しているのかもしれない。
しかしどれほど飲み干したとて、イライの体には異常が見受けられないままであった。
イライのもつ天眼は人ならざる力だ。その眼は己の宿る宿主を生かそうと働き続ける。どういったサイクルでそれが成されているのかは不明だが…そのためイライは瀕死の状態になったとて中々死に至ることなく、毒も効きにくくあった。
果たしてそれが作用しているのか、はたまた対策室特注の衣服が守ってくれているのか…まだ効果が出ていないだけか、定かではないが、ひとまず蔦に蜜を与えられる行為によって特に問題は生じないことは確かだ。強制的に飲み込まされる屈辱的な光景を、他でもない拘束した当人に見つめられ続けるという点以外は、だが。
「……ふ……ッ、…は……ぁ、く…」
「ああ…ちゃんと飲み干しているようだ。偉いじゃないか」
微笑むように言いながら、赤服の男はふたつの指で舌をつまむ。鋭く伸びた赤い爪先が舌背に触れたが、加減を知りえているのか、切っ先が柔い皮膚を小さくとも破くことはなかった。唾を吐きかけたくなるような心地を抱きつつ、イライは舌ったらずにも減らず口を吐く。
「…お、まえが……むりやり……」
「悪いものじゃない。きっと気に入るだろう」
どこか確信めいて告げる男に、イライはいよいよ眉先に力を込めた。そして無理やりに唇を閉じ、その指に歯を突き立てる。
顎の力が碌にないためにその歯はかちっと音を立てるだけに終わったが、犯行の意思は伝わったはずだ。今にも食い破ると言わんばかりに男の指を噛み、唾を吐きかけるように離すと、イライは唾棄するようにこう告げる。
「お前を受け入れることなどない。それは私が死ぬまで、永劫だ」
男を睨みつける星のような眼は美しい青色を湛え続けるまま、輝きを損なうことがない。例え肌色が悪くなろうと、力が入らずとも、体中が自分の意志で微々とて動かせずとも、彼の意志が損なわれていないことをその眼差しが証明している。
黒衣を纏う細見からは考え難い反抗的かつ屈強たるその意思を前に、赤服の男は薄らと目を細める。それは眇めたと言うよりも、笑みを忘れた眼が微笑もうとしたかのような様であった。
「その輝きがいつまでもつか、見物だなァ」
男は言いながら、噛みつかれた指を口元へと擡げる。柔い噛み跡がつく己の指先に口付けを落とし、これ見よがしに舌を這わせた。愉快気な声音といい、舐める仕草といい、さも傷跡すら愛しいと言わんばかりだ。