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    soseki1_1

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    soseki1_1

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    行方不明の🤕を探しにいった結果、不思議な洋館で彷徨うことになる🔮
    (ホラゲー風 / 現パロ / 基本傭占の右占)

    ホラゲー風の傭占(右占)街の郊外にある森の奥に一棟だけ大きな屋敷がある。
    いつ、だれが住んでいたかは分からない。持ち主どころかそこに暮らしがあったこと…そも、森の奥に屋敷があること自体が誰の記憶にも忘れ去られるほどに寂れた廃墟だ。屋敷の前に並ぶ門は主人亡き今も重厚たる面構えで立ち尽くしている。
    屋敷の外壁には蔦が這い、庭に植えられていた花々が無作法に葉を伸ばしきっている、廃墟となって久しいここを見つけたのが誰だったかは分からない。子供たちが遊びで見つけたのやもしれぬし、森の管理をしに赴いた町会の人間が井戸端会議で流したのやも、或いは記者の誰かが面白半分で記したか。
    「どの道、こうなった以上いい迷惑だ」
    黒々と聳える門を前に、イライは一人心地に呟いた。誰も聴く者がいない故に吐けた悪態だ。試しにと携帯電話を取り出して、左上の社名を現す文字の隣に何も記されていないこと…圏外であることを確認して、彼は息をつきながらもう一度眼前を見やる。
    イライ・クラークは郊外のこの森からは幾ばくか離れた町にある大学へ通う学生である。勤勉さを備えつつ性根に優しさが染みており、真面目ではあるが時折友人たちと共にボイコットにも繰り出す茶目っ気もある。重い本を持ってふらつく人、やれどうしたものかと首をひねる教授、道端で涙を流しかける少女を見て放っておけない…所謂お人よしでもある。
    ただただ普通の青年に見える彼は、しかしたった一点だけ常人とは異なるものを持っている。それによって彼の世界は人とは大きく違っており、人より少しだけ生きづらくもなっている。
    「………」
    彼はそっと眼鏡を外し、青々としたその眼を晒して屋敷を見やった。蔦の這う外壁や硝子が割れた窓、一向に開かれそうにない正面扉。それらを視、ただただ眼鏡越しに映ったときと同じ光景が映ることを確認する。
    天眼と、幼い頃にそう呼ばれた眼が彼が生まれ持って備えた特別だ。
    玄関にずうっと誰かが立っている、街角で足のない人にすれ違った、小学校の同級生が指を怪我することを前もって把握していた、それら不可思議なことを告げる彼を案じて両親があらゆる病院や教会に連れ立った末にたどり着いたある人は、それをあらゆることを見通すことができる不可思議な眼だと説明した。実に胡散臭い話であったが、その者が彼が映る世界と同じ世界を言い当てたものだから、彼も、怯える両親も信じるほかなかったのだ。
    イライの持つ目はとりわけ何かの過去を視るのに優れている。だから俗にいう幽霊を見るのだとその人は言った。愛、憎悪、心配、願望、様々な理由で遺った未練が過去から滲みだし、現在に手を伸ばそうとする様が見えているのだと。
    どんな理由にせよ未練とは重たいものだ。親切心で伸ばされた手を受けたとて引きずり込まれてどちらも破滅するなど珍しくない。お前の優しさでお前自身を滅ぼしてはならないと告げられた言葉にイライが良心の呵責に苦しみながらも従えているのは、彼を愛した両親や友人たち、それに彼自身を守れるようにと教えを与えたある人のおかげに他ならない。
    どんなに徒労をすれど報われないものがある。イライはそのことを誰よりも知っている。視えるからといって不用意に触れるべきではないと解っていながら如何にも放っておけないと手を伸ばすことはあれど、自ら危機に足を運ぶことはなかった。
    森の奥にある廃墟の屋敷はその危機のひとつだ。子供から、学友から、教師から、電車に乗り合わせた人々の会話の中からも聞こえてくるその屋敷が、聞くからに恐ろしいものだとはイライでなくとも解ることだ。好奇心の旺盛故にそこに赴こうと誘う者もいたが、イライは頑なに首を横に振って止めていた。怖いもの見たさは視えない者の特権だ。
    では何故その屋敷に彼が居るのか。
    「…………」
    電波の通じない携帯電話を持ち続け、イライは指先で画面をスライドさせ、メモ帳機能を開く。授業の日程、もう終わった買い物のメモ、レポートの下書きなど様々な文書が並ぶ中、最も上部に表示されている文書を開く。
    「ナワーブ・サベダーの捜索」
    そんなタイトルを掲げた文書を手に、イライは今一度と廃墟の屋敷を見上げた。



    ナワーブ・サベダーが行方不明になったのは実に一週間前のことである。
    その日の夕方、彼は友人達と別れて帰路を辿っていた。その日に組み込んだキャンバスの授業は全て終えており、友人達との食事も終え、後は家に待つ図書館で借りた本の山と多少進んだレポート用紙に向き合うのみといった日程だったろうと推測できる。
    しかし彼はその日、家に帰らなかった。
    一人暮らしのキッチンに置かれた水切り台にはコップと皿が佇んでおり、水の一滴もなく乾ききっていた。丁度月末であった故だろう、玄関の内側に取り付けられた郵便受け口には水道とガスの請求書が封筒に入ったまま置き去りにされている。寝台は掛け布団が片側に寄せられたまま冷たさを帯びており、それら全てが主人が不在となって久しいことを告げていた。
    帰り道、彼はひとりの少女に出会ったらしい。
    少女はアパートの入り口で座り込んでいた。日暮れが近づく太陽の下で白いワンピースが汚れないようハンカチを下敷きにして段差に腰かけ、うずくまるように足を抱えていた。その少女がそのように佇むは、どうやら珍しいことではないらしい。曰く保護者が過保護なため、学校で嫌なことがあったときは心をやり過ごすために決まってあそこでうずくまってから日が落ちるのを眺めていたらしい。時折ひとりの青年が声を掛けてくれると言っていたことから、彼がその少女に声を掛けることは珍しくはないのだと知れた。
    「あの日はね、お化けやしきにいかなきゃいけなくなったの」
    少女は言う。街の郊外にある森の奥、そこに一棟だけある屋敷は昔から廃墟として有名だ。あそこに行き、黒々とした門の向こうにある屋敷の玄関をノックしなくてはいけなくなったのだと。
    「そうじゃないともうあそんでくれないっていうの。だからわたし、こまっちゃって…」
    そこに、彼が来た。彼は無愛想ではあったが、女性と老人、特に子供には優しかった。自宅の傍でうずくまる少女に何もしないとは考えにくい。しゃがんで話を聞いたろうし、隣に座ってやった姿まで想像できた。
    「話したら、おにいちゃんが行ってくれるっていうの。だからお前が行ったことにしておけって」
    そう言って笑ってくれたの。彼を最後に見た少女はそう言った。

    全くお人よしもいいところだ。
    自らのことも省みずイライはぼやく。外観だけを見るに何事もないが、中に何かが存在する可能性は大いにあり得る。というより、その可能性しかないのだ。火のないところに煙は立たない。心霊現象や都市伝説の噂がある個所のほとんどは実際に"そういったもの"が存在するのだ。往々の人はその起因を視ることができず、ただの噂や御伽噺のようなものだと笑っている。
    けれどもイライはそのほとんどを視認することができるのだ。テレビ番組や雑誌のページの最中に映る紛い物でない者たちに青ざめながら電源を消し、本を勢いよく閉じたのは人生において少なくない経験である。
    視えるのならばそういった者や、愉快がってそれらに触れようとする人々には近寄らなければいい。単純な話なのだが、イライ・クラークという人間は多くを見て尚、人として持つべき善性を捨てられない人であった。どうしても目に見える範囲の人々には手を伸ばしてしまう。
    学業を共にするクラスメイトや友人、交友関係が多い中、幸いにもよく親しむ者に愉快性を持つものはいない。アメリカンフットボール部にしているウィリアム。変わり者の教授の元で地層学を学んでいるノートン。家業を継ぐために学勉に勤しむイソップ。少々癖はあるものの皆いい友人だと彼は感じている。
    此度彼が探すナワーブもそのひとりだ。あらゆるスポーツ部の助っ人を頼まれる頑丈な肉体を持ちながら、意外にも史実を学ぶ彼はイライが持つ友人の中でもとりわけ睦まじい間柄を持っている。互いに秘密を共有し合う程に。
    イライは生まれつき特異な眼のことを、ナワーブは誰にも話さなかった身の上のことを。冷たい手と暖かい手を握り、生温くなった皮膚を感じながら互いにしか聞こえない声で紡ぎ合った。
    見知らぬ人間であっても捨て置けはしないのに、友人が行方不明となれば探す他あるまい。それに怪奇に迷い込んでいる可能性があるとなれば警察に届け出を出しても見つからないはずだ。といっても、彼が本気になれば自分どころか警察にすら痕跡も見つけられないのだろうが。
    ナワーブは元軍人だ。特殊部隊に所属し、功績を讃えられて高い階級を獲得したらしいとは、彼自身が教えてくれた秘密のひとつである。悪夢に魘されるなど毎夜のことで、前は花火や風船の割れる音などの轟音も駄目だったらしい。皆には同年代と嘯いているが、本来は二七という、イライより年若く映る見目より幾分も上の年齢だ。日常生活を取り戻すため、戦場とはかけ離れた環境として最適なのは学業だと判断し、PTSDの治療を目的として大学に訪れている。年を偽ったのはその方が馴染みやすいからだと、目を丸くするイライにけらりと笑いながら言っていた。
    彼が自ら消えるはずはないとイライはほぼ確信をもって思っている。互いに無事学勉を収めたら…つまり卒業した暁には旅に出ようと、互いの首から下げるドッグタグの片割れに掛けて約束を立てていた。
    しかし突発的な衝動によりその身を投げたとすればどうしようもない。そうならないように努めてはいたけれども。
    「…………よし」
    肺いっぱいに空気を入れ、ゆっくりと吐き出す。意識的に深呼吸を成した後、イライは自分の両頬を二度ほど叩いて眼前を見据えた。文句を呟こうとも事態は変わらない。むしろナワーブが怪奇現象に巻き込まれたのだとしたら一刻も早く助け出さなければ精神が危ういのだ。彼は霊感と言うより肉体派だが、一度精神に決定的な欠如を負った身だ。そこを付け込まれる可能性はあると、素人ながらイライは想像する。
    眼前に聳える門を、イライは手で押しやる。やや錆が目立つ黒塗りの門は、立派な外見とは裏腹に押せば軋みを立てながらもすんなりと動いた。
    門の向こう側には幾分か歩いたところに屋敷の大門があり、そこまでは石畳が敷かれている。建てられた当初は美しく並べられていたのだろう足場は所々割れており、隙間からは雑草がやや長く伸びている。ここが長く放置されているのだろうと感じさせた。
    イライは足首辺りまで不揃いに伸びた雑草が囲う石畳みを渡っていく。屋敷の周辺にも足を運びたかったが、ひとまずは玄関に赴くべきだと固定観念が囁いたのだ。
    屋敷の正面に構える大扉を青い瞳が見上げる。背の低い階段やその先の踊り場には草木や小枝が風で隅に寄せられており、佇む扉に寂れた雰囲気を漂わせていた。
    扉の傍にインターホンなどは無論なく、ノックをするための輪が掛けられているのみだ。黒ずんでいる真鍮を掴んだ後に叩くべきか否かを悩んで、イライは喉の奥で声を唸らせる。けれども彼は掴んだ取っ手を扉に打ち付けた。
    「すみません、どなたかいらっしゃいますか」
    噂や外見からして、この屋敷は無人に決まっているのだ。しかし以前は人の住まいであったことは構えから確か。なんの許諾もなしに立ち入るのは気が引けた。
    それに万が一、ナワーブがいるならば返事があるかもしれない。
    (まあ、あり得ないだろうけど)
    自身に呆れを零しつつ扉の前に立ち尽くす。聞こえてくるのは風が木々を揺らすさざめきだけだ。返答はないだろうと解り切っているため、当然だろうという納得と自身へのいっそうの呆れの他、感じ得るものはなかったのだが。
    嫌々だが中へ入ろう。イライは宙にぶら下がっていた手でドアノブを握ろうとした。
    「イライか?」
    名を紡いだ声は耳に馴染みすぎていた。聞き触りの良いテノールの音が僅かな抑揚を込めて淡々と紡がれる様。それがイライという呼称を呼ぶとき、ほんの少しだけ柔さを帯びていると気づいたのは近頃の事だ。尋ねる語尾を伴った恋人の声は確かにイライの耳に、よく届いた。
    鼓膜を震わせたとたん反射的に息を呑んだためか、吃驚のために舌が縺れたのか、イライは音を発するために、眼を見開いたまま数秒を要した。はくはくと空気を食んだように唇が動いた後、喉からようやく音が発せられる。
    「ナワーブ!」
    衝動的に動いた両手が扉へ叩くように触れて僅かに揺らす。ここにいたのか、最初に頭についた言葉のはそれだ。どうしてこんなところに、衝動的に舌に乗りかけた言葉はそう。早く帰ろう、言うべきだと理性が訴えた言葉がそれで。会いたかった、と、胸の裏側が叫んでいた。
    幻聴だろうか。いや、聞こえたはずだ。確かめようと、早く顔が見たいと、イライは咄嗟にドアノブを掴むとそのまま玄関扉を開け放った。
    そうして屋敷の中へと足を踏み入れたのだ。
    「ナワーブ!今までどこ、に」
    待ち望んだ姿があると確信していた心は、けれども眼前に広がった光景により裏切られた。
    イライの目の前に広がるのは薄暗いエントランスだ。大理石で作られた床が広がり、等間隔で正方形の模様を描いている。中央を真っすぐと古びたレッドカーペットが通り、少しと歩いたところで左右に階段が伸びている。壁に突き当たったところで奥側に曲がり、そのまま囲いを描くように真ん中へと登る中央階段は二階部分へと繋ぐ通路に続いている。
    「ナワーブ、いるのか…?」
    天井からぶら下がるシャンデリアは光を灯しておらず、エントランスを照らすのは窓辺の外側に這う蔦越しに差し込んだ陽光だけだ。レッドカーペットの所々にある汚れ、ほつれた様。曇りきった故に光沢を失い薄らとした光を攪拌する大理石。いっそ冷たいほどの無人の空気。どれもこれもが廃墟の様を作り出していて、先ほど聞いた声は幻聴なのかとイライに思わせる。
    求めすぎた為に鼓膜が震えたと勘違いしたのか。不安に曇る眼で辺りを見渡しながら息をつきかけた。
    「イライ」
    もう一度聞こえた声に顔を上げる。広い面積を誇るエントランスに消えていった声は聴き間違いではないはずだ。
    「ナワーブ!」
    声を探すために視界をあちらこちらへとやる。階段の踊り場。その上へと続く通路と、二階部分へと続くだろう三つとある扉。階段の囲いの中央に設置された椅子に腰かける女神像と、その前に並べられた二脚の椅、倒れたテーブル。
    エントランスは広く、音を攪拌しながら通す。声の持ち主の影すら見つからず不安げに瞳を揺らすイライは、けれども扉が微かに開く音に顔を振り向かせる。
    ほぼ反射的に、弾かれたように向いた眼には左側の階段脇にある扉が映った。見れば、どの部屋の扉も締まっているというのに、そこだけが微かに開いている。イライは屋敷に立ち入った後に動いてはいない。扉を開いた覚えなどあるはずもなかった。スニーカーを履いた足が駆けるような足取りでその扉へと向かう。
    ほんの少し開いている扉を大きく開けばその向こう側が見える。
    まず、縦に長い猫脚のテーブルが映った。茶色の机上を縦に割るようにして、中央にレッドカーペットと同じ赤の細い布が敷かれている。その上には燭台が幾つか置かれており、位置や火立ての本数がバラバラなことから別々に持ち込まれたことが連想される。しかしいったい誰が?
    皆一様の椅子が側面に六脚、奥の中央の席に一脚、計七脚添えられており、幾つかの椅子の前には空の皿を真ん中にフォークとナイフが置かれていた。おそらく、ここは食事をする部屋なのだろう。両端に金の模様が記された赤のカーペットが食事処を彩るように机と椅子の下を通っているが、色あせてしまった今は寂れた様しか感じられない。
    勝手口から…つまりはイライから見て左手に位置する壁際に嵌め込まれた出窓が、赤いカーテンを両脇に結び付けながら光を取り込んでいる。森の木々を通して入り込む薄暗い陽光が、テーブルを白々しく照らしていた。
    「…ナワーブ、どこだ?どこにいるんだ」
    中途半端に居住感を残す様が気にならないといえば嘘になる。けれども今はそれよりも気がかりなことがあるのだ。おそらく、ここから彼の声がしたはず。見渡せど人影は見当たらず、人の気配も感じ取れない。ただただ歩けば埃が舞う廃墟の様が広がるのみだ。
    だが、幻聴にしては酷すぎる。眼前に不安を煽られながらもイライはひとまずと室内を歩き回ることにした。
    勝手口の向かい側にある、ハープを持つ女神像を隣に据えた扉の先にはキッチンが広がっていた。台所が室内を占める様は、ここが食事処なのだという予想を確信づかせる。ナワーブは大食いのきらいがあるからもしかしたらと思ったが、食べられそうなものがなにもなければキッチンに居座る意味はない。薄汚れて暗い室内を見ると、ここを探すのは後にしようと立ち入らずに扉を閉めた。
    灯りのない室内は窓辺から離れていくにつれて薄暗さが際立ってくる。イライは携帯電話を取り出すと、ライトのボタンを押下する。本来は写真用に使われるはずの白い照明が、イライの手のひらから行く先を照らした。
    一脚しかない椅子の後ろには四辺から成る間仕切りが敷かれており、向こう側との空間を壁の代わりに分けている。四辺にはそれぞれ受胎告知の絵画が模写されており、家主の信仰と趣味を伺わせた。その向こう側に気を惹かれながら、イライは机の脇を歩きながら机上を見ていく。種類のバラバラな燭台と皿、カトラリー。それ以外には何もないかと目を逸らしかけた最中、短辺に当たるひとりだけの席の机上に一枚の破られたカードを見つけた。
    「荘園へようこそ。ここで行われるパーティーを、長く長くお楽しみください」
    筆記体で記されたインクは乾ききり、上質な紙は埃を被っている。それが一度ならず二度も破られ、歪な破断跡を残して三等分にされたまま机上に転がっている。誰かを歓迎する招待状のように思われるそれを、イライは重ね合わせて記された文字を読んだ。カードの上部にあるDearの後に記されていたろう、この招待状を受け取った者の名前だけは、紙の破断面に隠されて見えなかったのだが。
    以前、人が暮らしていたころはパーティーが開かれていたのだろうか。イライは考えながら、カードをポケットの中に入れる。手掛かりになるかもしれない。今はどんなものでも…例え藁の一束だとしても見逃したくなかった。
    不可解な様は多く在れど、肝心の彼が見つからない。イライは左に右にと視線をうろつかせながら間仕切りの向こう側を覗く。机の下を通っていた絨毯はそのまま真っすぐと通っており、広間のように空いた空間にも寂れた色を付けていた。絨毯の伸びる前方と、左手の二方向に通路が伸びており、他にも扉が二三見える。
    何処かの部屋に入ってみるべきか。そう考えていた最中、小さな光がイライの目に入った。
    窓辺から入る陽光は微かながらに奥をも照らしていたらしい。色あせた赤い絨毯の上、時折弱く光を反射しているそれを、イライはしゃがみ込んで手に取る。
    折り畳み式の小さな黒い革財布は見覚えがあった。使い込まれてはいるものの定期的に手入れが成されているのだろう、黒い表面には薄い陽光の光沢がつるりと浮かび上がっている。これが光ったように見えたのだ。中を開けてみればカードを差し込める切れ間には何も入っていない。ただ端に適度な現金紙幣が幾らか、チャックで区切られた袋の個所にコインが程度よく入っているだけだ。キーホルダーなどが付随していることもない。特徴的な部分がなにひとつとして見当たらないけれど、持ち主をよく知っている者からすればそれこそが特徴だった。彼は自分の証拠を遺さない癖があった。これはナワーブの財布だ。
    「やっぱりここに居るんだ」
    懐のポケットに大切そうに財布を仕舞いながら、イライは呟く。これがあるなら、鼓膜を震わせた己を呼ぶ声も幻聴ではなかったと証明される。エントランスにいても聞こえた声だったのだ。まだ近くにいるに違いない。
    不安げに曇らせていた眼にしかと意思を宿してイライは立ち上がる。眼前、広間と二手に分かれる道を見据える。どちらに向かうか少しほど悩んで、絨毯に沿って前方へと足先を進める。
    途中にある扉を開けようとしてみたが、不思議と鍵が掛かっていて中には入れなかった。嫌な寒気を背筋に感じながら、イライは絨毯が示す先、おそらく向こう側へと続く扉の前に立つ。
    真鍮のドアノブを捻り前へと押しやると、その扉は先ほどのものとは異なり容易く前へと開いていった。安堵の息を小さく吐きながら、イライは前へと続く様を見る。扉の先にあるのは廊下のようだ。左右に分かれた道が続く突き当りが見え、そこには何も飾られていない花瓶が乗った小さなテーブルが佇んでいる。
    突き当りのテーブルまで足を進めると、両側に続く道の先が暗がりに包まれている様が見える。灯りのない廊下は暗く不気味で、ライトで照らせど全体が見渡せるわけではない。それでもかろうじて左右に続く廊下の片側の側面や突き当りにはそれぞれ扉があることが分かった。
    廊下のもう片側…イライから見て真正面の位置、テーブルの背がついている側面には扉などが無く、代わりに絵画が飾られている。花瓶が乗るテーブルの上にも絵画があることが、近づいてようやく解った。
    まず眼前にあるテーブルの頭上の絵画を照らしてみると、そこには白と灰色、それから黒で描かれている抽象画がある。大きく変形して描かれているため分かりづらいが、力なく首を垂れる赤子を抱いて絶叫している女性、炎に包まれて声を上げる人、地を這いながら動いているように見える人の様などがあることから、戦場を描いたものだろうと解る。学業の中で度々目にしたことのある有名な絵画だ。
    イライは思わずと眉を顰めながら廊下の先を見やるふりをして目を逸らす。ここは食事処から程近く、赤い絨毯によって示されるように続く廊下だ。客人も多く通るに違いなかったはずだのに、人々を歓迎するために置くにしては趣味が悪い。
    左と右、どちらから行こうかと考えて、イライは右に足先を向けた。理由は何となくだ。ライトを正面に向け、廊下を照らしつつ進んでいく。壁に額縁が見える度に絵画も照らしてみたが、どれも戦場の悲惨さを描いた絵画ばかりで、次第に目を向けるのをやめてしまった。
    (…彼も、これを見たんだろうか)
    だとすれば相当なストレスを受けたろう。ナワーブは戦場で心身ともに傷を負い、回復の為にわざわざ大学にまで足を運んでいる人だ。史学を学ぶにあたっても人々の日常を主に勉学を進めている。徹底的に避けるなどできないが、美術史などで戦争画について取り上げられる講義のときは理由もなく休んでいたりもしていた。共にボイコットをしたのはイライの記憶に残り続ける思い出だ。彼の手を引いて、当てもなく、ぶらりとした買い物や食事に連れ出した。あの時は未だ彼の事情を知らなかったけれど、どこか遠くを見つめる深い緑の眼をみて無性なほど不安に思ったのだ。あのときから注意して彼を見るようになった。その理由が恋情だと気づいたのはもう少し経ってからだったが。
    顰めたままの眉間に更にと皺が寄る。屋敷の主に思惑があった訳ではないだろう、単なる趣味に違いない。しかし絵画は人の手に寄らなければ飾られないものだ。意図がなかったとしても、彼を傷つけたかもしれない行為には苛立ちを孕んだ不快感を覚えざるを得なかった。
    (早く見つけないと)
    焦りに似た決意を胸に縛り付けながら、イライは突き当りの扉の前に立つ。ドアノブを握って前へ倒すと、扉は容易く開いた。そうして、見えた眼前には同じような廊下が続いている。そこも同じように、イライから見て左側の側面には絵画、右側には扉が等間隔に並んでいた。
    ひとまず突き当りまで行こうと、イライは前を照らしながら先へと進んでいく。
    嫌々ながらも時折絵画を照らせば、立ち並ぶ絵には一様に白衣を纏う男性や女性、それからナースキャップを被る女性たち、仕舞にベッドや床に横たわる人々の様が描かれていた。病院の様を描いているのだろう。ベッドで安らかに眠る者もあれば、手術台で暴れる全裸の人の姿もあり、どれにも悲惨さが滲んでいて、イライは思わずと皺が寄る眉間を親指と人差し指の腹で揉むように抑えていた。手掛かりになるかもしれないと見ていたが、出来るならもうこの屋敷に飾られる絵画は目にしたくない。
    不快感を拭いがるように早々と突き当りの扉へと辿り着く。ドアノブを握って前へ倒すと、扉は容易く開いた。
    そうして、見えた眼前に、イライは眉間の皺をいっそう深める。
    「………長いな…」
    扉を開いた先にはまたもや同じような廊下が続いていた。今までの廊下と同じように、イライから見て左側の側面には絵画、右側には扉が等間隔に並んでおり、真っすぐと伸びる廊下の突き当りにはこれまた今までに見たものと同じような扉がある。廊下は、こんなにも長いのだろうか。確かに外観からしても大きな屋敷であったがけれど。
    抱いたところでどうしようもない不信感を孕みながらイライは足を踏み出す。どの道、進むしかないのだ。この廊下の向こうこそは何かしらの部屋に続いているだろう。
    前だけを見ていようとしていたイライは、けれども壁に飾られている絵画に目を向ける。
    彼はこの廊下でそちらに目やライトを向けるつもりは毛頭なかった。先ほどから続く悪趣味な絵画にうんざりとしていたのだ。またもや続いたこの廊下では決して…どんなに気がかりだろうと隣を振り向いたりしないと小さな決心すらしていたのだ。そんな彼の心をすげなく奪ったのは、入ってすぐ隣の壁に飾られた一枚の絵画であった。
    それは校門を描いていた。煉瓦造りの立派な門だ。しかし大きなものではなく、横幅の広い小規模なものである。人ひとりより少し大きい程度の高さを持つその門の後ろには、横幅の広い建物が二棟三棟と続いている。建物へと続く道は石畳で整備されており、歩いた跡がこびりつくそこは大勢に使われた形跡を滲ませている。
    学校の門だ、とは考えればわかることだ。しかしイライはそれが学校の…それも大学の門だと見たとたんに理解できた。更に言えばその学校の名称まで頭に正確と浮かんだのだ。何故なら描かれていたのはよく見慣れた…イライやナワーブが通う大学の校門であったから。
    大学はどこも似たような構造をしていると言うが、こうまで似た門が二つとあるだろうか?けれどもイライの通う大学の校門であることは有り得ない。なにせ確かに開講してから程なく立っている学校ではあるけれど、この屋敷が使われていただろう時代にまであったかと聞かれれば難しいところだ。在ったとしても改装工事を経ているであろうし、今の姿を保ってはいないだろう。
    不可解な絵に目を奪われたイライは、その隣に間隔を開けて飾ってある絵にも眼差しを移す。怪訝を払拭しようとした行為だったろう。けれども胸裏に蟠る不快感はいっそう募ることとなる。
    隣にあったのは喫茶店を描いた絵画だ。木組みを真鍮の留め具で組み立ててその中に丸い耐熱ガラスを入れた珈琲サイフォンがカウンターに置かれており、珈琲豆の入った瓶も内側の縁に沿って並べられている。筆記体で描かれたラベルの張られたそれらの、全ての味を知るには通いつめねばならないだろう。そうまで広くはない店内の端には個室のように区切られた二人用の席があり、そこが空いていることの多い夕暮れ手前の時間が狙い時なのだと、イライは知っている。
    なにせ描かれていたのは通い詰めている…何度も目にした茶店の光景であった。
    ナワーブから教えて貰った店で、ここの珈琲は特別なんだと笑みを浮かべた彼はそう言っていた。珈琲を好む彼が言う通り、その店の珈琲は美味で、雰囲気も良く、イライひとりでも訪れることが多くなった場所だ。彼がここに誰かを連れてきたのは初めてだと、カウンターの内側にいる老店主から告げられたときは顔色を良くしすぎてしまったものだった。そこの個室席で彼と何時間も話したし、テーブルの下でひそかに手も繋いでいた。そこでふたりは外面は友愛のふりをして逢瀬を楽しんだのだ。
    怪訝を通り越した不快感に、イライは思わずと胸に手のひらを添える。
    何故この場所が、ここに飾られている?
    疑念を解決したがって、イライはその隣にある絵画にも目を移す。そうしてひどく後悔した。
    隣にあったのは寝室の絵であった。買った当初から変わらない白のシーツ。夏以外は常に使い続けている白色の掛け布団。そしてシングルベッドにしては多めに置かれたふたつの枕。抱き合って眠れば大丈夫だと言っているが、流石に買い替えなければならないかもしれないと身を寄せ合う中で考えていたベッドだ。テーブルや本棚の中などは一通り整ってはいるものの、隅にある籠には脱ぎっぱなしの服が積まれており生活感を感じさせる。窓辺に置かれた花瓶には水が入り、一輪だけの花が飾られている。この頃はアスターを飾っており、青色の大輪が日差しを受けている様が武骨な部屋に和やかさを与えていた。
    イライは思わずと後ずさる。不快感は天辺にまで達し、胸の裏側では動悸までもが込み上げた。はっと息が零れた口を片方の手が抑える。青いアスターは二日前に添えたばかりの花だ。本棚に新しく入れた本も変わらない。籠の中にある洗濯物の様子も、寸分狂いなく。描かれていたのはほかならぬ、イライの寝室であった。
    ここから早く出なければ。
    本能的に危機を察知するイライの脚元に、かつりと何かが当たった。ぴくりと肩を震わせながら、イライはライトを足元に照らす。
    白い光で照らされた床には、つやりとした光沢が一筋輝く石があった。しゃがんで手に取って見れば、それが宝石だと解る。
    「アマゾナイト…」
    ターコイズの青色とエメラルドの緑が混ざり、深い青緑色をしている宝石の名前をイライはよどみなく紡ぐことができた。その宝石はイライがナワーブへと贈ったものだったからだ。
    希望の石と呼ばれているもののひとつらしく、心身のバランスを保ってくれるものだと聞き、これがいいと決めたのだ。四角形にカットされたものを銀色の型に入れ、それを黒いゴムに通して髪飾りにしたものを渡した。髪を飾る趣味はないと言いながらも、受け取ったその日から毎日その髪飾りを使っていたナワーブの姿は記憶に鮮明と思い出せる。
    手に取ったアマゾナイトはやはり髪飾りの一部だ。銀色の型に通されたゴムの部分は途中で千切れていた。それも劣化で千切れたのではなく、何かに切り裂かれたように切れている。
    普段使いの武骨な髪ゴムならまだしも、ナワーブが贈り物を落としたまま置いていくとは考え難い。何かあったのだろうか。
    イライは髪飾りを大切そうに仕舞って、曲げた膝を伸ばし立ち上がった。早々にこの気持ち悪い屋敷から出たくて仕方がない。早く彼を見つけなければ。
    髪飾りの落ちていた床の前、扉が少しと開いて佇んでいる様が焦燥の満ちた青い眼に映る。彼はこちらに行ったのだろうか。
    隙間を押し広げるように扉を開け、眼前をライトで照らす。
    そうして、イライの悪寒はいよいよ全身に渡った。
    「……なんなんだ、この屋敷は…!」
    扉を開いた先には続くのは同じような廊下。今まで通ってきた廊下と同じように、イライから見て左側の側面には絵画、右側には扉が等間隔に並んでおり、真っすぐと伸びる廊下の突き当りにはこれまた今までに見たものと同じような扉がある。
    幾ら大きいとはいえこうも廊下が続くなど有り得るはずがない。先ほど見た絵画の件も相まって、イライは薄い息を吐き出す。
    いったん戻ろう。そう思い至り来た道を帰ろうと後ろを振り返ったとき、開けた扉が勝手に閉じていく姿を眼が映した。慌てて扉を開けようとするが、既に鍵が掛かっており開くことができなくなっている。
    イライは息を呑んで前方を見る。先へ進む他ない状況だ。
    「………………」
    震え掛ける膝が動き出したのは、しかし存外すぐのことだった。歌が聞こえたのだ。言葉を綴らない鼻歌が何処からともなく。
    「……これは…!」
    悪い顔色を湛えたまま耳を澄まし、途切れ途切れに聞こえる音の輪郭を捉えたとき。曇りかけた青い眼は輝きを取り戻した。思わずと零した声を廊下に置き去りにするまま、彼は声の方へと駆けていく。
    声は歌を形作っていた。言葉のないものだったため聞き取りづらくはあったが、よくよくと耳をすませばそれが聞き馴染みのある声であること…そこから思考が芋づる式に紡がれる歌の名称を思い出す。タイスというオペラに使用されている瞑想曲。聞こえるのはレポートの読解や珈琲を飲んでいる際、研究室でよく聞こえる鼻歌の声に違いない。
    「先生!ジャック先生ですか!?先生!」
    鼻歌から思い出されたのは大学に務める教授のひとり、イライやナワーブも度々世話になっている油絵の専門家の名前である。かつてイギリスを騒がせた殺人鬼と同じ名だということからリッパーと言うあだ名をつけられており、それを苦笑で流していることからも優しい気質がうかがえる。「単なる趣味に過ぎませんよ」という当人の告げる通り、絵画に加えて音楽にも知見が広く、研究室や道すがらでクラシックの鼻歌が聞こえる際は彼の機嫌が良い日だとは学生のなかでの専らの噂だ。その時を狙ってレポートを提出する学生のなんと多いことか。
    イライはその声の方へと走り進んでいく。彼は教授と親身な学生のひとりであった。ナワーブはジャックのことを得手としていないのか、あまり近づくなと苦言を呈していたものの、イライはその忠告にあまり構えていないのが現状だ。ジャックは優しく会話がしやすい上、イライと趣味が似通う部分があった。時折本や映画のディスクを貸し借りし、研究室で珈琲一杯分の会話を織りなす程度には仲がいい。
    生徒の相談にも乗る教授のことだ。ナワーブが行方不明になったことが気掛かりだと相談を持ち掛けたイライの言葉を聞き取っていたのかもしれない。それでこの屋敷にわざわざ訪れてくれていたのだ。
    突き当りの扉を抜ければまた同じ廊下に続き、進んで二番目の扉を開ければまた同じ廊下。気味が悪くなるほどの堂々巡りが続くばかりで、鼻歌が着実に近づきその輪郭をいっそう露わにしていることだけがイライにとっての救いで、藁にもすがる思いでその事実に縋って走り続けた。
    「ジャック先生…!」
    そうして幾つかの廊下を抜けた先。変わった匂いのする同じような廊下の途上で見つけた背姿にイライは声を上げた。
    草臥れた草色のロングコートに黒いシルクハットの背姿が、なんといっても分かりやすい。絵画の制作時間が一日の大半を占めているために、右手に常にと身に着けている油絵用のグローブ。仕立てのいい靴が照明を受けて光沢を帯びているのも教授の特徴のひとつだ。「大人のたしなみですからね」と、教授は絵画のためのグローブ以外は常に良いものを揃えて纏わせている。
    声掛けに男はようやく声と足を止めた。ようやく追いついた見慣れた背姿にイライは無垢に駆け寄る。
    「先生!来ていたんですね…」
    イライの声には安堵が満ちていた。これで彼を探すのも…楽になるかは定かでないが、安心できるのは確かだ。訳の分からない迷路のような屋敷に閉じ込められ、彼も見当たらず、ただただ痕跡だけが見つかる状況に心が疲弊している。壁に描かれていた絵が酷く趣味が悪いのだと笑い話にしたっていい。とにかくひとりきりでいるのはもう恐ろしかった。そんなところに振ってきたある種の救いのようなものだったのだ。
    「…教授?」
    しかし、イライは首を傾げる。安心しきって擡げられていた口角が下がり、不安げな声を紡ぐ。
    イライはジャックが振り返る様を想像できていた。くるりと振り返り、隈の絶えない瞳にイライを見つけては「やはり来ていたんですね」といつも笑うことに失敗する口元にこれまた薄く苦笑を滲ませて告げてくれるに違いない。あるいは纏うコートをイライの肩に掛けて「子供がひとりで来るところではありませんよ」と優しい声音で叱るのかもしれない。どの道、彼はイライに親愛をもって接してくれるはずだ。そう思った。
    しかし返答がなかったのだ。眼前は想像の通りにはならず、ただひょろりと伸びる長身の背姿があり続けている。
    「先生、どうし……」
    何故振り返らないのだろうか。なにか気掛かりなことでも彼の前にあるのだろうか。そう考えて前を覗き込もう体をほんの少しずらして…イライは青色の眼を丸くした。せざるを得なかった。イライの角度からは見えなかった左手が、あまりに大きな刃物と化していたから。
    「…先生…?ジャック先生、ですよね……?」
    五本の指にそれぞれ長い刃が伸びており、鈍色に光っている。ぶらりと下がるそれは明らかに鋭利であり、床に伸びるひっかき傷が凶器だと知らしめていた。
    そして指先…その刃先から何かが滴っていると解る。ライトで照らせば、それが赤い色をしていると解った。先ほどから呼吸する度に鼻孔を満たしている…教授がいつも纏っている香水の香りよりも遥に強く臭うこれは鉄の臭い…血の臭いではないだろうか。
    「せん、せ……?」
    一歩、と、イライは後退る。もう一歩、もう一歩と逃げるように…否、真実、イライは逃げるために後退っている。何が起こっているのか分からないと思考は言う。しかし混乱にかき消された理性は分かっている。眼前で何が起こっているのか。目の前にいる者がなにをしたのか。視覚はこれでもかと表している。
    しかしそんなわけがないと思い出が訴えるのだ。教授は優しい人だ。珈琲を飲むのが癖になっていて、よく眠れないと苦笑している。刺激的な作品を作ることもあり、ナイーブな面もある人だけれど、誰かを傷つけるなんてことはするはずがない。そのはずだ。
    でも、ならばあの刃は?あれから滴っているのは血ではないのか?
    「…っ、ジャック……」
    嘘であってくれと願う本心が紡いだ幾度目かの呼びかけに、眼前の背姿がゆらりと動く。首を首を後ろに傾けるにつれて体ごと、緩慢と振り返り、そうしてその面が現れる。
    「………あァ…」
    黒々とした小さく丸い目がぽつんとくりぬかれた白い仮面、そしてネクタイを締めた白いシャツにはっきりと赤い液体が飛び散っている様。心底嬉しそうに…否、高揚のあまり少し上擦った声音。そのすべてに殺意が滲み切っていた。
    「……っ!」
    イライは息を呑んだ。後ろへ倒れかけた体を地に着いた足の平が踏ん張らせて、そこでようやく硬直した体が脚を動かすことを思い出す。縺れながらも駆け出し、来た道を戻ろうとした。あれが教授なのか、そうでないのか分からない。とにかく今は逃げなければならないと本能が警鐘を鳴らしている。
    先ほど開いた突き当りの扉に当たりドアノブを捻る。しかし押しても引いてもその扉は開かない。がたがたと揺れるばかりで道を差し出す様子は微々とすらない。背後からは革靴の足音がゆったりと迫ってきている。
    「くそ…っ!なんで…!」
    困惑に陥る頭を抱えながら、イライは咄嗟に左隣にある扉へと向き直った。ドアノブを握って引けば、そこは音を立ててすんなりと開く。イライはその先へと飛び込んだ。視界に続くのはまたもや同じような廊下であったが、構いやしなかった。
    バキッ。と、何かが叩き割れるような音がしてイライは振り返る。背後ではこの廊下に続く扉が何かに切り刻まれたような裂傷を受け半壊していた。
    そうして軋んだ音を立てる扉を、逃げ惑うイライを嘲笑うように、鼻歌を漂わせながらゆったりとした足取りの紳士が現れる。白鳥と銘打たれたその歌が見知った姿を脳裏に浮かばせ、いっそう恐怖と混乱がイライの胸裏に募っていく。
    どくどくと酷いほど音を立てて鳴る鼓動を聞きながら、イライは逃げるために腰が抜けかける体をなんとか前へと走らせる。突き当りの扉を抜け、四つある側面の扉のどれかに飛び込んで、どこまでも続く同じ廊下を走り逃げていく。
    (どうして…っ)
    どうしてこんなことになったのだろう。走りすぎて米神にぴりぴりとした痛みを感じながらイライは考えざるを得ない。行方不明になった友人を探しに来ただけだ。それなのに気味の悪い不可思議な屋敷で迷い込み、知り合いにそっくりの格好をした化け物に追われている。
    まるで悪夢だ。あの鉤爪に切り裂かれれば、あるいは夢が終わるだろうか。そんな薄暗い希望がしばしば浮かんでは、馬鹿なことを言うなと生存本能が理性を呼び起こす。それも限界に達していた。
    「……っ、…!」
    体力が底を尽き、歩くことすら遅くなる。あと幾らも走れないだろう。万事休すか。目を瞑り、息を荒々しく吐いて、耳の裏側に蔓延るざわざわとした音を聞く他にない最中。左右にある分かれ道の真ん中に立ちながら、なにか聞こえた気がした。イライは

    →耳を澄ます

    →気のせいだ。走り続けよう

    ……

    →耳を澄ます。
    「…ライ!…イ……!」
    体中の雑音で満ちる鼓膜をほんの僅かに揺らした音。それを、イライは決して聞き逃さなかった。イライはもう重くて仕方がない脚を懸命に動かし、声の聞こえた左方向の通路を走る。窮地に陥った自分の錯覚だったろうか。思わずそう考えたが、もう錯覚だろうと何だろうと構わなかったのだ。
    廊下を走り抜け、突き当りの扉を開く。目の前に広がったのは廊下ではなく、四角い形の一室。棚やランプ、机や椅子などが他愛なく並ぶその部屋の真ん中に、ひとりの人が立っている。薄暗がりで分かりづらいものの、蛍光色の緑色のラインが入ったフード付きの黒いジャケットは彼が気に入って纏っている衣服のひとつだ。イライは泣きそうな面持ちを破顔させる。酸欠により霞んできていた視界に、何よりも望んでいた姿があった。
    「ナワーブ!」
    「イライ!」
    碧眼と青い眼が合わさり、互いに声を上げて駆け寄る。いっそ抱擁したい程の歓喜に満ちていたが、そうする暇がないとは両者共に理解しているようだ。
    ナワーブはイライを隠すように背中にやると、ざっと辺りを見渡して勝手口へと向かう。扉の横にある棚を倒し、机を引きずって、椅子をかき集める。バリケードを作っているのだと理解すると、イライも辺りにある重たげなものを扉のの傍に持ちやった。ナワーブはそれを次々と手際よく組み立てていく。以前にも幾度かこういった経験をしたのだろうか。
    「こっちだ、来い」
    家具による簡易なバリケードが完成すると、ナワーブは息つく間もなくイライの肩を抱いて別の扉へと向かう。一旦は閉ざされた防御壁に呆然と息をついていたイライに抵抗する気などあるはずもない。ふたりは軋む音と轟音を立てる扉の向かい側にある、もうひとつの扉へと向かう。
    扉を開けた向こう側は先ほどと同じような廊下…ではなかった。十字路の構造をしている廊下は突き当りそれぞれに扉があり、廊下は石畳となっている。先ほどのように壁際に絵画などは飾られておらず、それがイライにとってほんの少しの安らぎとなった。
    「…ひとまずは、大丈夫そうだな」
    緊迫感を負ったまま走り続けた為に乱れた息を整えていた最中、聞こえた声にイライは顔を上げる。化け物に追われる自分をここまで逃がしてくれた人物。それは何度見つめても、イライが探し続けていた人に違いない。パーカーのフードを被っているために零れる細いひと房以外には前髪も含めた髪の全てが隠れている様。湖を囲む森のように少し暗いほど深く美しい碧眼。薄い唇。蛍光色の緑がトレードマークのリックサックを軽く背負う…小さいはずだというのに大きく見える背姿。虹彩の全てでその様を捉えたとしても、彼だと確信できる。
    「ナワーブ…なのか…?」
    それでも信じ難いと言わんばかりにイライは声を紡いだ。先程まで起こった摩訶不思議な事柄が、イライに過ぎたる程の警戒心を抱かせていたのだ。
    「他に誰に見えるんだよ」
    いっそ怯えるようなまなざしを向けるイライに対し、ナワーブは苦笑を滲ませた笑みを浮かべる。ほんの少ししか擡げられない口角、口元よりも如実に微笑む眼差しの柔らかさ。全てが記憶にあるナワーブそのもので、イライは堪らなくなった。
    「…ッ! この、馬鹿ナワーブ!」
    踵を蹴り、眼前のその人に飛びつくが如き抱擁を成す。勢いのあるハグを、ナワーブは驚いた声を出しつつも難なく受け止めた。イライは瞼を強く瞑ってきつく抱擁する。イライよりも小さな背丈にもかかわらず頑丈な体躯も、暖かな体温も、全てが彼だと知らしめている。普段つけている香水が仄かに香って、こんなにも近くでこの匂いをかぐのは初めてだと感じた。
    「私がどれだけ心配したと…!」
    「悪かった。探してくれてたんだな」
    「当たり前だろう! 君が帰ってこないから、心配し、て」
    感情のまま紡がれていたイライの言葉は、仕舞だけ尻すぼみに消えていく。それは激情が声を喉に詰まらせたのではない。瞼を擡げて、眼前に見えた光景に言葉をなくさざるを得なかったのだ。
    抱擁の際、腕を背中に回した拍子にフードが外れたのだろう。ナワーブの髪が露となっている。そこまでは何も不可思議なことはない。問題はその髪の様子だ。
    ナワーブの髪はひとつに結ばれていた。アマゾナイトの髪飾りによって。
    「…とりあえず、アンタと会えてよかった。俺もアンタに会いたかったんだ。嬉しいよ」
    イライは抱擁の手を緩め、一歩後ろに下がる。距離が離れたことにより、ナワーブが穏やかな笑みを浮かべている様がよく理解できた。いつも見る、彼らしい笑みだ。理解できる。何もかもが彼らしい。
    「うん? どうした、イライ」
    一歩、一歩と後ろに下がりながら、イライの顔色は随分と悪くなっていく。微笑む男は彼に違いない。拾いものをしていなければ、あのまま抱擁し続けていたろう。でも、じゃあこの手にある紐の切れた髪飾りは?
    「…ナワーブ、その…髪飾り、は…」
    震えかける声で、イライは問い掛けを必死に紡ぐ。嘘であってくれと願うように、信じたいと乞うように。
    「これか? …なんだ、忘れたのか? アンタがくれたんだろう」
    目の前の男は難なくそう告げる。それは紛れもない事実だ。正しい過去である。何も問題はなかった。イライが壊れた髪飾りを拾わなければ。
    「髪を着飾る趣味はないが…他でもないアンタに貰ったものだからな。大切にしてるよ」
    そう言って、男は嬉々とした感情を滲ませて微笑む。実にナワーブらしく笑う。それでも、イライは身を強張らせ続けた。後ろの戸へと背中をつけ、ドアノブを探す。
    鬼ごっこはまだ始まったばかりだ。
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    soseki1_1

    DONEまーふぃーさんの赤塩FA
     花のような男だと思った。摘めばそれだけで萎れてしまうような儚い男だと思った。
     だからか、歪に歪みその赤い手は、心底そうっとその体を抱き寄せている。恭しげで、優しく、割れる宝石を扱うようなその手は、けれども当の体の主が見ることはない。その双眸は深い赤色に沈み、何者をも映さない。一見哀れにすら思えるその瞳を、けれども紅色はそう認識しなかった。美しいと思った。瑞々しい血の流れる心臓のような色だ。人間たちが謳う宝石の美しさとは、この赤い眼のことを言うのだろう。なるほどこれであれば、己の手中に収めんと躍起になるのも頷ける。
    「ふふっ」ふいに見つめていた赤の瞳が細められる「くすぐったい」
     それもそのはずで。塩、と呼ばれる男には、紅衣の男から伸びる白い蔦が伸びていた。白い蝶を伴う蔦は、いつもなら紅色の力を知らしめる脅威となるものだ。けれども今ばかりは……この美しく儚い白い男に触れる今ばかりは、その凶暴さの一切を拭い捨てている。そうっと、さも割れ物に触れるかのような慎重さで白い肌に、その唇に触れる。途方もない愛欲を示すその動きは、けれども見えない彼にとってはくすぐったいものだったのだろう。微笑む唇を今一度蔦で撫でてやれば、くすくすと愛らしい声がいっそうこぼれ落ちる。
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    soseki1_1

    PROGRESSハネムーンクルージングを満喫してるリズホワ/傭占
    (この後手マ♥でホワ🔮を5回はイかせるリズ🤕)
     麗らかな金色に白いベールを被せるハムエッグ。傍らに鮮やかに彩られたサラダを横たわらせた姿は、実に清々しい朝を連想させる。大皿の横に据えられた小皿にはフルーツドレッシングが揺蕩っており、そこから漂うさわやかな香りもそのひと役を買っていた。焼き立てのパンを詰めた籠を手渡したシェフ曰く、朝食時には一番人気のドレッシングらしい。客船に乗ってから数日、船員スタッフは慣れた風に微笑み「良い朝を」とだけ言って、リーズニングをレストランルームから見送った。
     依頼人から報酬代わりのひとつとして受け取ったクルーズは、リーズニングに思いの他安寧を与えている。慣れ親しんだ事務所には遠く及ばないものの、単なる遠出よりは幾らも気軽な心地で居られている。「感謝の気持ちに」という依頼人の言葉と心に嘘偽りはないとは、この数日で理解できた。クルージングの値打ちなど大まかにしか理解出来やしないが、おそらく高級な旅を与えられている。旅行に慣れない人々を満喫へと誘うスタッフの手腕も相応だ。乗船前は不信感すら抱いていたリーズニングも、今はこうしてひとり、レストランルームへ赴けている。満喫こそしているものの、腑抜けになった訳ではない。食事を部屋まで配膳するルームサービスは今なお固辞したままだ。満喫しつつ、警戒は解いて、身なりを保つ。この塩梅を上手く取り持てるようになった。
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