二月は墓場 兎に冬で、うとうと読む。教室の隅の席に大人しく座り、文庫本にじっと目を落としている珍しい苗字の持ち主は、クラス内ではあまり目立たない存在だった。
伏し目がちなアーモンドアイのまなじりに、知性と色気を強調するようにぽつりと存在する泣きぼくろ。すっとした鼻筋と薄めの唇。パーツのどれをとっても派手な感じはしない、あっさりとした顔立ちをしている。均整のとれた顔立ちだけど、イケメンと騒がれるタイプではない。――けれど、私は、兎冬くんの、兎冬あさぎくんの目が好きだった。
彼は物腰柔らかで、穏やかという言葉が似合った。生まれつき体が弱いらしく、学校を休むこともあるが、成績は学年トップレベルに優秀で先生からの信頼を得ている。しかし、会話の合間に愛想よくにこりと細められるその瞳は、たまにぞっとするような色彩を孕んでいる。時折、視線の先の人物を品定めしているような、あるいは「貴方には興味が無い」とでも言うような、冷めた色を見せるのだ。けれど繰り返すなら、あさぎくんには穏やかという言葉が似合う。そんなことを考えるようには到底思えないのに。
席替えがあってから離れてしまったけれど、兎冬の彼と石川の私は出席番号が近く、入学時には席が隣だった。他愛もない会話を交わす度に、彼の柔らかな声や儚げな雰囲気に段々と好意を抱き始めていた私は、ある日初めて目にしたどこか冷たい視線のギャップに完全に落とされてしまった。
「はーあ、体育とかだっる」
「萌いっつもそれ言ってる。ホント体育嫌いだよね」
中学のときからつるんでいる萌とペアを組んで、準備体操に取り組む途中。彼女は大袈裟にため息を漏らし、やれやれと首を振ってみせた。
「だって寒いしめんどくない? ……あー、でも、そっか。みかはむしろ嬉しいのか」
「え?」
怪訝に思って萌の方を見ると、萌はにやりと口角を上げて声を潜める。
「だって、今日合同授業だもんね。そしたら兎冬くんのジャージ姿拝めるもん」
「ちょ、ちょっと……」
誰かに聞かれてはいないかと慌てて周囲をきょろきょろと見渡すと、ちょうど話題の彼が目に留まった。
普段はブレザーに覆い隠された、肉付きの薄い華奢な体つき。少し緩そうなジャージの袖や裾からは、まれに日差しを浴びることを知らなそうな生白く細い腕や脚が覗く。大抵彼は体育の時間は見学しているから、レアな姿だけれど、A組との合同授業のときには決まって弟の京夜くんとペアを組んで参加している。
「やめてよ、こんなところで」
「いいじゃん、ほら。やっぱチョコ渡すの?」
「チョコ?」
反射的に聞き返すが、その直後に言葉の意味を理解し、ああ、と声を漏らす。そういえばもう二月に差し掛かっている。
「うーん……どうしようかな」
「えー? でも進級すぐだよ。クラス離れるかもしんないし、あんまのんびりしてる暇ないんじゃない?」
「それは……」
正直、バレンタインについてはあまり考えていなかったけれど。確かに萌の言う通りだ。来年も一緒のクラスになれる保証はない。そうなったら、遠くから彼の姿をこっそり見つめることもできなくなるのか。もちろん、私を惹き付けてやまないミステリアスな目付きを見ることも、ほとんどなくなってしまうのだろう。
「てかさ、みかってあさぎくんみたいなのがタイプなんだね。なんか意外。まークラスは違うけど、私はどっちかと言えば京夜くん派だわ」
萌はスニーカーの先で土を弄りながら、二人の姿をちらりと一瞥した。つられて私もそちらへ視線を向ける。今日もあさぎくんの隣には京夜くんの姿があって、楽しげに談笑しながら準備体操を進めているのが遠目にもわかる。
「京夜くん……確かに、人気だよね」
スポーツ万能で元気いっぱい。ハーフパンツから覗くふくらはぎは、ジャージに隠れて隣に並ぶ脚よりも引き締まってたくましい。おまけに物怖じしない性格で、いわゆる陽キャ。けど、変に悪ノリするタイプでもない。明るくて話しやすい彼は、女子の中で密かに人気があった。あさぎくんと違って勉強はあまり得意じゃないみたいだけど、そこが抜けててカワイイとか噂されているのを耳にしたことはある。
コピーみたいにそっくりな二人。周りからはしょっちゅうお互いに間違われているみたいだし、好意を寄せる私でも、並ばれると今でもどっちがどっちか迷ってしまうことがある。あさぎくんがチャームポイントの泣きぼくろを隠してしまえば、きっと私は彼らに区別をつけられないかもしれない。けれど、京夜くんとあさぎくんは、やっぱり違うのだ。
「私は――」
二人の様子を後ろから眺めていると、不意にこちらを振り返ったあさぎくんと目が合った。やばい、じろじろ見てるのばれたかも。途端に焦りが滲むけど、彼は会釈のかわりみたいにふっと軽く目を細めてすぐに京夜くんの方へ向き直った。途端に背中に走る寒気のような感覚に、私は目を逸らせずにぼうっと彼の背中を見つめる。
「…………」
「みか?」
――やっぱり、違う。私は、あさぎくんのあの目が好き。
お菓子作りなんて柄じゃないから、ネットのレシピを見様見真似で作ったブラウニー。女の子らしくてかわいいやつと迷ったけれど、兎冬くんはそういうのより落ち着いたデザインの方が好きかもしれない、なんて言い聞かせて結局シンプルにした包装。リボンのついたクラフト紙の手提げを持って校舎裏に佇むシチュエーションのべたさに呆れて笑ってしまいそうだけれど、呼び出してしまった以上今から兎冬くんがここへ来るんだからそんなことを考えている場合じゃない。
「石川さん?」
驚いて肩が跳ねるのと一緒に、鼓動も跳ねる。低く落ち着いた声がした方を振り返れば、にこやかに微笑むあさぎくんの姿があった。
「あ、あさぎくん」
「ごめん。待たせたよね」
「いや、そんな!」
ぶどうみたいな深い紫色の細い髪が、夕陽に照らされてきらきら光っている。私の好きな彼の目は、今、私のことを見ているのだ。――けど、今は冷たい色はしていない。
「……えっと、その……これ!」
一応ちゃんとした台詞も用意してきたはずなのに、あさぎくんを目の前にして口から転がり出たのはそれだけだった。あさぎくんの手元へ紙袋を突き出すと、彼はにこりと口元を緩ませてそれを手に取った。
「ありがとう。京夜に渡せばいいのかな」
思いもよらない返事に、思わず「えっ」と間抜けな声が漏れた。数秒遅れて言葉の意味を理解する。そっか、きっと人気者の京夜くんに渡したい女子のみんなから「渡して欲しい」って頼まれることが多かったんだ。
「ち、違うの! それはあさぎくんに……」
「オレに?」
あさぎくんが目を丸くする。大人びた彼の普段見ることのない表情に、思わず胸がきゅっとした。
「た、確かに京夜くんは人気者だし、素敵な人だと思うけど、私は……あさぎくんが」
好き。その二文字を口に出す勇気はなくて、やがてしりすぼみになった言葉は口の中で消えた。あさぎくんはなにかを思案するように口元に手をやって視線を落とす。沈黙の間に冷たい風が吹きつけて、冷える指先をポケットに入れようとしたけど、態度が悪いかなと思い直して慌ててやめた。
すこしの間があって、つ、とこちらへ向けられた視線。それとかち合った瞬間、私の胸は異常なほど高鳴った。
「オレと京夜って、どこが違うのかな」
そこにあったのは、私をおかしくしてしまったそれそのもの。畏怖に似たなにかすら感じてしまう、あの目だった。紫と桃色を混ぜたみたいな複雑な色をした丸い瞳の瞳孔は、確かにこちらを向いているのに、私を見ていない。
「え……と」
「石川さんは、どうしてオレを選んでくれたのかなと思って」
隣の席で、話し相手になってくれたから。穏やかで大人びているから。声色が静かで落ち着くから。違う。きっとそれらは、もう全部知っている。求められている答えじゃない。私はまるで蛇に睨まれた蛙みたいに、目を逸らせないし、嘘もつけない。
「私は……あさぎくんの、目が、好きなの。京夜くんとあさぎくんは、得意なものも違うし、性格も違うけど……目が、いちばん違う」
意を決してそう告げれば、彼は感心したようにふうん、と呟いた。
「京夜も同じことを言うんだ」
オレ自身はよくわからないんだけどさ。ふっと目を伏せ瞬きをし、こちらへ向き直ったあさぎくんを見て、私ははっと息を漏らす。
「こうかな」
こちらを見透かすような視線はそこにない。私を射抜かない。一瞬、人が変わったのかと思った。いたずらっぽく目を細めるその表情が、京夜くんそのものだったから。
生唾を飲んで黙り込むと、その静寂を「あさぎい」と名前を呼ぶ大きな声が裂く。あさぎくんは声のした方へちらりと目線をやってから、私に向き直った。
「京夜が呼んでるから、もう行くよ。ありがとう」
薄い唇が弧を描いて、彼はくるりと身を翻す。立ち尽くす私は、離れたところであさぎくんが京夜くんに心配そうにマフラーをぐるぐる巻かれるのをぼーっと見つめた。
あさぎくんは、別に他人を品定めしているわけでも、興味が無いわけでもなかった。彼の瞳が人ではなくその奥をじっと見ているように思えるのは何故なのか。そして、その先に一体誰がいるのか。知ってしまった私は、もうこの恋心を忘れるほかなかったのだ。