宇宙でたったひとりだけ【追加シーン/ライタール②】 ベンガルに丁寧に挨拶と感謝を述べ、コトリス山でのディルウィップの繁茂の様子やヘルガー灰化病の研究成果を話せる範囲で伝えると、彼は大変喜んでくれた。突然の訪問にも関わらず厚意で夕飯までご馳走になり、病院を辞し外に出ると、広く開けた海と夜空が一繋ぎになっていた。
港町の夜は意外にも静かであった。盛り場やディベルからの鉱物の加工場の方へ行けば、理術で光る灯り石に昼間の続きを託した営みがあるのだろうが、夕餉の彩りを商っていた男も既に引きあげた後で、海風で湿った静寂(しじま)だけが辺りに積もっている。
アベラルドとレティシアは、自然とまた指同士を絡ませあっていた。気負いもなく、てらいもなく、互いの存在を繋いでしまう。
呆気ない。レティシアの勇気と自分の思い切りが無ければ、この先繋がれることの無かったはずの手が、こんなにも簡単に、当たり前に二人の間で揺れている。
ラーカスの夜にレティシアを抱き締めると決めた時も、同じことを思った。抱き締めることも手を繋ぐことも、この旅の前のアベラルドには、長い旅を経てさえ、ひどく難しいことだったのに。
今は階段を登りながら手摺り越しに海を眺めているレティシアが、たったの四日で頑ななアベラルドのことをすっかり変えてしまった。
この四日で、アベラルドは随分痛い思いをした。レティシアにすらーーレティシアにこそ踏み込んで欲しくない心の繊細な部分を暴かれて晒されて、痛くない訳がない。転んで擦りむいた膝小僧を水で洗われているような痛みは、その傷を治すためにアベラルドに変化を要求した。
王女と何の気無しに手を繋ぐという行為に顕れているこの変化が、この先の未来に良い影響を与えるのか、悪い影響を与えるのか、アベラルドは思考の海に流されないように、『この旅の間だけ』という楔を打ち込んで意識の浅いところに係留している。
レティシアはどうだろう。並んで歩く彼女の横顔を盗み見てみるが、夜の海と空の境を探すようにアベラルドから顔を背けてしまっていた。
「空に穴が空いてるみたい」
坂道を登り切ったとき、そのレティシアが、不意に呟いた。
「エレナさんからブラックホールの話を聞いたことがありますが」
「ううん、そうじゃなくて。浮き島がほら、影になって……」
魅入られたように定まってしまったレティシアの視線の先を、同じようになぞる。なるほど、港の上に浮かぶ岩の塊が、星の瞬きを遮ってしまっている。
DUMAが傍にいた頃なら、あの浮き島の上に順番に飛び乗って、姫の憂いを払うことが出来ただろうが、今はそうはいかない。
アベラルドは、繋いだ手をちょんと引いた。
「ね、姫。見てください」
広場の縁にアベラルドも臍を預ける。
「並んだ船が明るいのかと思っていましたが、埠頭の灯りだったんですね」
夕方前に港に帰投した漁船は、その営みの火を静かに落としてしまっている。
代わりに、等間隔で据えられた背の高い灯りが、煌々と夜の標べとなっていた。光が黒い海にそろそろと流れて、ろうそくの火を逆さにしたように、みなもにいくつもたなびいている。
海岸線に沿って並んだ灯りは白、黄、橙、光の大きさは様々に、遠くまで港をひとめぐりし、ライタールという街の形を教えてくれる。その奥には荷捌き場か何らかの加工場か、無骨な建物から漏れる灯りが、街の入り口にいるアベラルドの瞳にまで確かに届いている。
高台のここまでは波の音も届かないが、静かだと思っていたライタールという街もディベルとは違った形で賑やかなのだ。
「宿の受付の方が仰っていましたが、確かに見飽きない美しさがありますね」
「……本当に、その通りだわ」
こうして上から見ると、ライタールの港街は広い。アベラルドもレティシアも、ほんの浅瀬の部分しか、この街のことを知らない。きっとディベルについても、ラーカスについても、知らないことの方が多い。オーシディアス城下のことであれば多少は深く知っていると言えるだろうが、人の多さゆえに新陳代謝も早い街の『全て』を知っているとはとても言い切れない。
レティシアのこともそうだ。子どもの頃から、ずっと見つめてきた。見飽きる気配もない。それなのに、アベラルドは大人になった姫の、本当の旋毛の位置ひとつ知らずにいた。
「立場上、あんまり、大きな声では言えないけれど……」
その背伸びした旋毛が、ついと下がった。
「この街に良い思い出がなかったから、見落としていたのかも」
「……申し訳ありません。もうあの様な失態は起こしません。二度と」
自分が倒れたことも、姫の心に染み付いてしまっているのだろう。失態という言葉に詰めこまれた後悔と痛みの記憶が、痺れるように左腕を走る。
レティシアはアベラルドの顔を覗き上げて、そのせいで余計に大きく見える目をぱち、ぱちと二度瞬かせた。次いで口の両端が自嘲気味に上がる。
「レイもニーナさんもいないから、謝り合戦を止める人が誰もいないわ」
それにそれだけじゃないの、と続けながら、まだ痺れの残っているような気のするアベラルドの左の肩に、レティシアの側頭部がそっと当てられる。
「あなたが倒れたときも、ミダス様が倒れたときも怖かった。でも、多分……第一印象もあると思う。船から降りるために甲板に出たらーー海がまっくろで」
コトから出る連絡船のその日の最後の便に、テオの手引きで二人は乗った。ライタールについたのは、確か夜だったように思う。
思うーー正直、あまり記憶にない。最終便に乗ったのだから、到着は夜だっただろう、という辻褄合わせをしたにすぎない。
レティシアと共に育ったアベラルドは、それゆえに姫と行動範囲に大きな違いはなかった。王国の西側には訪れたことがなく、旅の初心者であった。だから、船を降りてから、いかにしてミダスの情報を集めるか、宿の手配は、路銀の宛ては……と、段取りで頭がいっぱいで、地図でしか知らない土地に足を踏み入れる高揚感が湧く余裕もなく、景色のことなど気にも留めていなかった。
無茶で無謀な道行きであることはふたりとも飲み込んでいたから、レティシアが不安を抱えているだろう、という想像までは出来た。けれどそこまでだった。彼女の不安の色にまでは気付けなかった。それを、どうしたってアベラルドはとても悔しいと感じてしまう。
自責とは少し違う。姫のことなら何でも知りたいというーーそういう感情との付き合い方は、チャクラムの練度と比例して上手くなっていっていたはずだった。
「でも……うん。あなたと見る今夜のライタールは、本当にーー本当にきれいだわ」
それなのに、レティシアのガーゼのように柔らかで真っ白な言葉にくすぐられて、今、繋いだ左手だけでなく、右手も、両の脛も、そこから繋がる足首や爪先も、みぞおちも。ざわざわうずうずとして仕方ない。
(抱、っき、しめたい……っ!)
押し寄せる欲求の波濤をもろに引っ被って、アベラルドは天を仰ぎ顔を顰めて衝動を堪えた。
夜である。さりげなく振り返って辺りを観察してみても、人は、ひとまず見える範囲にはいない。姫の心でさえ、自分に向いている。アベラルドをたしなめるものは、無い。
が、美しい夜に見惚れているレティシアの邪魔はしたくない。それに、人気(ひとけ)が無いとはいえ天下の往来である。女性を抱きしめるにふさわしい場所ではない、と生真面目なアベラルドは考える。それに今は人の姿がないとはいえ、従業員が勧めるほどの、この美しい夜景を楽しみに、宿からひょいと宿泊者が出てくるとも限らないではないか。
さらに、自ら彼女に触れにいくことに関しては、長らくそれを意図的に避けていたアベラルドは途端に初心者になってしまう。決まった流れのある王城での夜会ならともかく、自然な流れでレティシアを抱きしめたことなど無かったから。
一昨日の夜は、姫からの無言のリクエストがあったから、それに応えた。
昨日の夜は、泣いたレティシアを慰めるためという、大義名分があった。
今夜は、彼女からの要望も、それらしいお題目もなく、ただ沸騰した血潮にどくどくと翻弄されているだけである。
巡り巡る熱は、健康な身体を動かそうとする。アベラルドは重心を右脚に預けたり左脚に預けたりして、その身体のうごめきをごまかそうとした。
そうしているうちに、アベラルドの僅かな身体の揺れに合わせてか、姫の右手の親指が、小指が、人差し指が、アベラルドが差し出している左手の指の股の間でふにふにと遊び始める。
(うっ、ぐ)
翳りが消えたようで従者としては何よりであるが、アベラルドとしては疼きがより強まってしまうはめになり、思わず大きく息を吸った。一拍肺に留めて、薄く開いた口から深く吐き出す。
「……姫」
息を吐き切るか切らないかのところで、アベラルドはようやく衝動からの逃亡先を見つけた。
「そろそろ宿に帰りませんか」
いつ出てくるとも出てこないともしれない誰かに我慢を強いられるくらいなら、自分たちも引っ込んでしまえばいいのだ。そんな簡単なことに気付くまでに、たっぷり五分はかかってしまった。
アベラルドに預けられている丸い側頭部が、さり、と服の二の腕に擦れる。
「……そうね」
姫の肯首を感じた二の腕から広がるじれったさの波紋をまだまだ堪え、ゆったりと見えるように踵を返す。我慢強いのは自分の長所だ。
街の象徴である噴水の横を通り抜け、多くの人が行き交って擦り減った石畳を、その歩みでさらに削って宿屋に戻る。
受付は女性から男性に変わっていた。オーナーが待合のテーブルに座って晩酌をしており、こちらを一瞥して意味深に微笑むのを、軽い会釈とまばたきひとつでかわしてしまう。
レティシアがオーナーを気にして顔を向けたが、アベラルドはその手を引いて、足を止めずに真っ直ぐ宛てがわれた部屋に向かう。
短い廊下を進む間に右手でポーチを探る。なかなか鍵が手に当たらない。段取りはアベラルドの仕事のひとつだというのに、扉の前でもたついてしまった。不覚である。
そうして探り出した鍵を、鍵穴へ。真鍮のプレートが、穴に入り損ねた鍵の頭を受けてかつっこつっと二度怒る。危うく舌打ちをしかけて、視界の端にレティシアの姿を拾い、何とか思いとどまる。小さく息をついて、握りしめていた手を緩める。鍵がうまく挿せないときは、手に余計な力が入っているものだ。
「鎧脱ぐの手伝ってくれる?」
「かしこまりました」
姫を室内にいざなって、内鍵をひねる。最後の最後でようやく意思疎通ができた。
するっと左手が冷えたので振り向くと、頓着なく繋いだ手を離したレティシアが、頭飾りを荷物の上に大事そうにそっと置くところだった。
手伝ってと言った割に、姫はマント、首当て、腕、足、前垂れ、と自らどんどん装いを解いていく。頭飾りを静かに置いたのとは裏腹に、姫には珍しくかちゃかちゃと幼気な音を立てて、足元の隙間を見つけては埋めていく。アベラルドは左手にじんわり残っている感触をもう懐かしみながら、姫の足元に水たまりのように広がっていく装備を順に片付けて、最後に残った胴鎧を支えるべく両手を伸ばした。
腰に当てられたその手を見つけたレティシアが、左肩の金具に手をかけたまま、淀みなかった動きをぴたりと止める。
「姫?」
「ううん、何でもない」
もちろん、姫の『何でもない』をそのまま受け取るようなアベラルドではない。彼女のその言葉は、接待づくしで体調が崩れていたり、大切に育てていた花の鉢を誤って割ってしまった後だったり、時には侮辱的な言葉を受け取っていたり、程度は様々だが、とかく心配かけまいとする心から剥がれこぼれおちる類(たぐい)のものだ。
普段なら、周囲の様子や言葉から『何でもない』に至るまでのいきさつを類推するところ、今はある意味非日常の真っ只中。アベラルドには見えていない彼女の様子をそれとなく聞けるような人物はいないし、持ち物や服装に変化があった様子もない。数日前から原因があったとしてーーいちいち心当たりがありすぎて、宿の廊下の窓から海に沈んでしまいたい。
つまり。アベラルドの姫に対する深い洞察力と重ね織ってきた経験からいって、むしろ自分が原因でそう言わせてしまっている、ということだ。
(オーナーへの挨拶を省略させてもらったことか? それともベンガル先生のところで何か無礼を働いただろうか)
姫は宿に戻るまで機嫌が悪かった様子はなかったから(むしろ晴れやかな気持ちでいるように見えたし)、もっと前のことが引っかかっているのか? それとも、それとも。
アベラルドがレティシアの丸い頭のてっぺんに海底を見出そうとしていると、ぱちりと泡が弾けるような音がして、意識が引き戻される。自分の右手に金属の鱗が沈んでいる。反対の左手に、小さな右手が重なった。
レティシアが顔をあげる。はっきりと瞠られた瞳はアベラルドの顔を確かめると、今度は貝が砂に埋もれるように斜めに下がっていった。
「……こっち。外して?」
「え?」
言葉をうまく飲み込めず聞き返すと、小さな右手はアベラルドの左手を持ち上げて、レティシアの右肩の留め具に触れさせる。
「はずして」
ほとんど息だけで構成された小さなちいさな声を、アベラルドはひとつも残さず聴きとった。
「……ひめ」
ーー鎧を外すだけ。
それ以上でも以下でもない。深く考えるようなことではない。手伝っての言葉の通り、ただ甘えられているだけ。
(鎧を外すだけ、はずすだけだ)
だけれども、アベラルドには確信があった。子どもの頃から一緒に紡いできた記憶と想いの上に、この旅で綾なしてきた昼と夜がある。それが、自分と姫の間の焦点を浮かび上がらせるのだ。
ーー『何でもない』の答えが、左手の先に待っている。
レティシアの『何でもない』、その一言で沖に引いてしまっていた欲求が、形を変えて潮が満ちるように背骨にせり上がってくる。
(……触れたい)
抱きしめたい、なんかよりもっと単純で、原始的。それでいて、たくさんの意味と仕草を内包する想い。
夜風に冷えた留め具の感触は硬くて、重ねた夜の繊細な柔らかさとは似ても似つかない。
(ーー触れたい)
いいのか? 本当に。はずして、の一言を掬い取ってから、想いは何度も行き来している。鎧の上からでも、ぎゅっといちど抱きしめて終わりにするつもりだったのに、きっとそれ以上のことになることを、アベラルドは確信している。
(触れても、)
肩書きとしての騎士の自分に聞いてみる。当然、強い否。
生き方としての騎士の自分はどうだろう。どちらかといえば、是。
では、幼馴染のアビーとしての答えは……強く否定されれば負けてしまいそうな、それでも、是。
均衡を破るには、もうひと押しが必要だった。
アベラルドも、話題作りや市井の動向調査を兼ねて、流行りの小説を読むことがある。自分と似たような年恰好の若者が主人公であるとき、往々にして彼ら彼女らは本来の自分というものを探して悩んでいる。その悩みに、アベラルドは共感できたことがない。
レティシアの求める自分になること。それがすべてであって、本来の自分なんてもの、考えたこともないし、あったとしてもどうだってよかったからだ。
彼女が求める姿の自分(アベラルド)なら、何と答えるか。
「レティ、顔を見せて」
アベラルドに『レティ』と呼ばれて、姫はおずおずと顔を上げた。潤んだ瞳に、彼女の理想を探す。
アベラルドは姫の鎧を支えていた右手を離した。間近で、レティシアが息を呑んだ。
左手に、自らの意思で右手を添える。
「さすがに利き手でないと外せません」
アベラルドはレティシアの鎧の留め具を静かに外した。自分の手で鎧を押さえていたレティシアは、それを見届けて、足元に鎧を滑り落とす。
「まだ、残ってる」
鎧から解放された首もとの隠しボタンに、レティシアはアベラルドの手を再度誘導した。
「はずして」
その声があまりに頼りなげで、アベラルドはだから、夜の包み紙を剥がすことに決めたのだった。