夏嵐■■AM10:00■■
大きな窓に容赦なく打ち付ける雨粒と風の音で、大寿はゆるゆると瞼を開けた。この天気を見て、三ツ谷は何と言うだろう。誕生日、今年も雨だねと眉を下げるか、それとも。まだ覚醒しきっていない頭で想像して、自然と口の端が上がる。
当の三ツ谷は、台風の奏でる音で起きる気配もなく、大寿の腕の中ですやすやと眠っている。起こさないように、自分達の身体をそっと毛布で包み直す。何も身につけていない肌の上を薄手の毛布がさらりと滑る感覚が心地良かった。
三ツ谷は存外暑がりなので、夏の間は目覚めると大寿から離れてしまっていることが多い。昨晩は寝る前にひっそりこっそりエアコンの温度を20度まで下げたから、大寿の思惑通りにこの時間まで大人しく腕の中に収まっている。おかげで最高の誕生日の始まりだ。
昨日の自分に感謝して前髪の間から覗く額に思わず口づけると、長くて濃い睫毛がふるりと震えた。次第に眠気の残った薄紫色の瞳が現れて、柔く大寿を捉える。
「たいじゅ」
「…すまん、起こしたか」
「んーん。誕生日、おめでと」
目覚めの挨拶より先に自分を祝う言葉がまろび出た恋人が愛おしくて、大寿は自身の手でその顔をそっと包んだ。
「昨日も散々聞いたが、ありがとよ」
そのまま親指の腹で鼻先や頬を撫でていくと、三ツ谷が気持ち良さそうに目を細める。
「今日は、オレが一番におめでとうって言って、朝起きた時も一番で、最後に言うのもオレが良いの。だから、さっきのは今日最初のおめでとうなんだよ」
「…全部一番が良いのか、欲張りな奴だ」
「そ、オレ欲張りなの。知らなかった?」
「知ってる」
むしろ俺以外が知らねェだろうと言えば、三ツ谷が目尻を下げた。そこには薄らと笑い皺が出来る。10代の時になかったそれは一緒にいる時間の長さを物語っている気がして。大寿は上から覆い被さってその横線に口付けていく。赤子をあやすような軽い愛撫に、三ツ谷は起き抜けの舌ったらずな口調で「くすぐってェ」と笑った。
一緒に年を重ねて、今日で17年目。互いにアラサーと呼ばれる歳になったが、三ツ谷は歳を重ねるごとに幼くなっている気がする。
彼が持つ人当たりの良さは、必要以上に他人に踏み込ませないようにするための鎧で、幼い妹達の面倒をみてきた「お兄ちゃん」という責務は、三ツ谷が強くあるための心張りだったと大寿は思っている。
だから自分といる時にだけ垣間見れる幼い三ツ谷は、それらを取り払った三ツ谷隆そのものであるようで、大寿は堪らない気持ちになるのだ。
しばらく穏やかな触れ合いが続いていると、存在を無視されたことを怒ったかのように台風が雨風の勢いを増した。そこでやっと三ツ谷が窓の外を見る。
「すっげェ降ってンね」
「昨日の予報通り、夕方には関東に上陸するらしい」
「そっか。オレは今日休むってクライアントには連絡してるし、大寿は会社も店も全部閉めたんだろ」
「あぁ、全員特別有給にしてある」
「そしたらきっと秘書さんから連絡とかもこないね、今日は本当に二人だけだ。ちょっと台風に感謝」
毛布を口元まで引き上げてはにかむ恋人の愛らしさに、下半身にずくんと熱が溜まるのが分かった。あれだけシたのに己は猿かと呆れつつ、昨日の情交を思い出して、いとうように三ツ谷の腰を摩る。
「だいぶ無理させたが、身体は大丈夫か」
「…ん」
何を心配されているのか即座に理解したらしい三ツ谷は、全身をじゅわりと赤く染めた。その様子に、むくむくと悪戯心が湧いてしまう。今、自分は意地の悪い笑みを浮かべていることを自覚しながら、三ツ谷の顔を覗き込んだ。
「昨日はやけに積極的だったな、三ツ谷」
昨夜、日付が変わった瞬間に文字通り三ツ谷に押し倒された。
『おめでとう、好き、気持ち良い、愛してる。大寿』
大寿の上に乗って健気に腰を振りながら、律動で弾む濡れた声で必死に伝えてくる三ツ谷が愛おしくて、その身体を満足いくまで貪り終わった頃には、とうに陽は上っていた。
「なぁ、なんであんなに激しかったんだよ」
「…それ聞いちゃう?」
「誕生日特権ってことでどうだ」
こちらを睨む瞳には「ずるい」とありありと語られていたが、「三ツ谷」と名前を呼べばますます頬を赤く染めながら渋々と答え始める。
「今日から、大寿の生きてきた時間ってオレと一緒にいる方が長くなるんだなって思ったらなんか…嬉しいっていうか、感動しちゃって」
30過ぎだおっさんががっついちまったワ、なんてあからさまな照れ隠しの台詞にも反応できないくらい、大寿の心の中では台風のように感情が激しく渦巻いていた。
今の大寿の時間には半分以上に三ツ谷がいて、これからもそばにいられる事実を、頭を殴って理解させられた気分だった。
なんだこの天使は。あぁ、俺の恋人か。
腕の中にいる三ツ谷をぎゅうと抱き込めば、すぐに背中に手が回ってくる。
「大寿あったけェ」
「テメェはちと身体冷えてんな」
「…いや、だってなんかこの部屋寒くね?」
去年買い替えた最新モデルのエアコンは、台風特有の湿気も感じさせない有能な働きぶりを発揮している。暑がりの三ツ谷を以てしてもさすがに20度は寒すぎたらしい。
大寿が隠す間もなく、三ツ谷はベッドサイドチェストの上に置かれていたリモコンを手に取って表示温度を確認する。それまで眠たげだった目は、驚きで丸く見開かれた。
「20度!?」
「…初夏と秋の平均気温だな、快適だろ」
「冷房で設定したら寒すぎンだろ!昨日、最後にいじってたの大寿だよな!なにこれ!」
「………テメェが、暑いとベッドの端に行っちまうから」
「……オレが離れるの嫌で下げちゃったん」
問いには答えずに、口をへの字に曲げてぶすっとした顔で三ツ谷を睨む大寿の顔は薄らと赤い。それだけで、答えなんて聞かなくても分かってしまう。
30過ぎたの大男がこんな可愛いことしてンじゃねェよ!
三ツ谷は言葉にならない声をあげて、大寿の首にしがみつく。
「もう!そんな顔されたら怒れねェだろ!」
「知ってる」
「…大寿テメェ、風邪引いたら看病しろよ」
「当たり前だろう」
先ほどの表情から一点、途端に機嫌良さそうな笑みを浮かべた大寿が、三ツ谷に軽いキスを贈る。絆されたことが悔しくて、三ツ谷はキスを受け止めると、仕返しとばかりに大寿の唇をぺろりと舐めた。それを合図に、軽く触れ合うだけだった口づけが、互いの口内を貪る深いものに変わっていく。
長いキスが終わる頃には二人の息は上がっていて、大寿の瞳の奥には昨日見た欲の炎が燃えていた。
「…シてェの」
「寒いっつうから、熱くしてやろうかと」
「エロオヤジ」
「今日で33歳だからな」
「屁理屈こねんな」
「…俺は、今日誕生日だ」
平素の大寿から考えられない下手くそすぎる交渉術に、思わず三ツ谷は吹き出してしまう。
三ツ谷も同じ気持ちだということを、きっと大寿は知らない。実は寂しがり屋で甘えん坊な柴大寿そのものを、自分だけが見られることがどんなに嬉しいのか。
三ツ谷は首に回していた手を背中へ滑らせると、十字架が彫られている場所をそっとなぞる。そんな些細な刺激に、大寿の大きな身体がぴくりと震えた。
「ちゃんと温めろよ」
「安心しろ。中も外もばっちり汗かかせてやる」
「……こうやっておっさんになってくンだな。やだな」
「一歳しか違わねェだろうがテメェ」
「ッあ、んん」
三ツ谷自身よりもイイ所を知り尽くした大寿の手に身体を弄られると、内に燻っていた昨日の残り火のような欲望はあっという間に燃えていく。
20代は、今日みたいに盛り上がった次の日の朝も致すなんてザラだった。けれど、30代になってからは体力的なこともあって、長くて濃い夜を過ごした次の日はゆっくり過ごすことが多くなった。それに大体酒を飲んだ後に始めるから、素面でのセックスは久しぶりだ。
「恥ずかしそうだな、今更なのに」
「ウッセ!ッあ、うッ、ん」
胸の飾りを軽く噛まれると身体が跳ねて、下半身に熱が溜まるのがわかる。その様子を楽しげに見つめてくる大寿がなんだか余裕そうで悔しくて、三ツ谷はまだ自分の意志がきく口で反撃することにした。
「ッは、あ、33歳のスタートからお盛んなことで、ッんん」
「枯れてるより良いだろう」
三ツ谷の嫌味なども意にも返さず、大寿は愛撫を続ける。
「ッん、ねぇ、カーテン閉めてよ、ッあ」
「こんな雨と風じゃ誰も外なんて出ないし、中の様子も見えねェよ」
どっちの方が激しいか、台風と勝負してやろうじゃないか。
三ツ谷に言えばドン引き間違いなしだろう台詞を胸で吐きつつ、大寿は目の前の恋人を気持ち良くさせることに集中した。
最新モデルのエアコンは、この熱く湿った空気もたちまち吸い取ってしまう。今はそれが少し残念だった。
■■PM1:00■■
エアコンで冷えた身体が無事温まったところで(若干温まりすぎた)、二人はシャワーで汗を流してから遅めの朝食を取ることにした。メニューは、三ツ谷の両手いっぱいで握ったおにぎり、豆腐となめこの味噌汁、目玉焼きとソーセージ、きゅうりの塩昆布和え。
台風が直撃するのが分かっていたから、今日一日の材料は事前に大寿からリクエストを聞いて買い込み済みだ。
「毎年毎年、こんなんで良いの?いつもと一緒じゃん。ふわとろオムレツとかなら今から作れるよ」
「これが俺にとっての正解だから良いんだ」
「…そっか」
大寿は早速おにぎりにかぶりつく。中身は辛口の塩シャケ。朝から三ツ谷が焼いてくれたものだ。
「うまい」
「それは良かった」
三ツ谷も一口頬張って、うんと頷く。空腹だった二人は、おかずも綺麗に平らげて、二合炊いた米も食べきってしまった。
後片付けを済ませ、食後のコーヒーを淹れてソファで一息つく。先ほどから窓が揺れる音が大きくなってきて、いよいよ台風が近づいていることを感じさせた。
「今でこれだと、夜はすごそうだな」
「なぁ。あ、クレープパーティは奮発して材料いっぱい買ったから!生地も昨日作ってバッチリ寝かせ済み。夕飯も楽しみだね」
そう言って笑う三ツ谷を見て、大寿は昔の記憶を思い出す。あれは、二人が付き合って初めて迎える自分の誕生日だった。
『大寿くんさ、今年の誕生日は何食べてェ?』
三ツ谷に聞かれて、大寿はふと考えた。
記憶の中で最後に母に祝われた誕生日のメニューは、ローストビーフとフルーツサラダ、焼きたてのパン、そしてホールのショートケーキ。
母が死んでからは柚葉の誕生日も八戒の誕生日も、もちろん自分の誕生日もそのメニューにしてきた。それが誕生日の正解だと思っていた。だから三ツ谷から質問された時も同じメニューを答えた。
『へぇ、これが大寿くんの好物なんだ。覚えとこ』
『いや、フルーツサラダは得意じゃない』
『…じゃあなんで言ったの』
『誕生日のメニューってのは、これが正解なんだろう』
大寿の言葉に、三ツ谷はぱちぱちと瞬きしてから眉毛を下げて笑った。
『正解なんてねェと思うけど。強いて言うなら、大寿くんが食べたいものが正解なんじゃないかな』
自分が食べたいものを言っていいのか。驚いて三ツ谷を見ると、応えるかのように優しく頷かれる。
『なぁ。大寿くんは何が食べてェの?』
そうして、もう一度問われる。自分が食べたいもの。三ツ谷と一緒に食べたいもの。
『…ハンバーグ』
お前の家で食べた時すごく美味かったから、もう一回食べたい。
小さい声でそう付け足すと、三ツ谷が、今度は嬉しそうに笑った。
「今年はクレープパーティーやりたいなんて可愛いこと言うから、張り切って準備しちまったワ」
そう言って三ツ谷が自分の肩にもたれてきた感覚で、大寿は意識を戻した。
「…パーティとは言ってねェだろうが」
少しの気恥ずかしさを滲ませて答れば、そういうことにしといてあげると三ツ谷がコーヒーを啜った。くそう、バレている。
三ツ谷には言葉にしなくても自分の気持ちを簡単に読み取られてしまう。そのことが恥ずかしいより嬉しいと思うようになったのはいつからか。
例年通り、今年も三ツ谷からリクエストを聞かれた時、大寿は少し恥ずかしそうに口を開いた
『…クレープ』
『…くれーぷ』
大寿の返事が予想外だったらしく、三ツ谷のイントネーションはなんだかおかしかった。
『…ガキの頃に外で食べたらハマって、お前の家でやろうって話だったのに受験やらなんやらで結局出来なかっただろ』
そう付け足せば、やっとクレープだと思い至ったらしい。大寿の返事を聞いて、三ツ谷はあーとかうーとか意味の無さない言葉を発した後、両手で顔を覆った。
『なんでそんなこと覚えてんの。てかなにそれ可愛いんだけど。ルナマナが焼肉って答えるところで大寿はなんでそんな可愛いこと言うのおっさんのくせに』
『おい久々に喧嘩するか』
『しない!喧嘩するならエッチする!』
そう言って飛びついてきた三ツ谷にゲンコツひとつを加えて、けれど結局はベッドに向かってしまったことまで思い出してしまい、大寿の眉間に皺が寄った。
その顔を見て、隣の三ツ谷がゲラゲラ笑った。
■■PM3:00■■
雨風はどんどん激しさを増していく。好奇心で少しだけベランダに出て案の定びしょ濡れになって後悔していたところに、フロントから連絡があった。
「柴様宛のお荷物がたくさん届いておりますが、いかがいたしますか」
「あー…」
後で運んでくれないかと頼もうとして、こちらをじっと見つめる大きな目とかち合ってしまう。何を言いたいのか容易に想像がつき、大寿はしばらく逡巡した後に溜息を吐いてから静かに答えた。
「悪いが、今から運んでもらえるか」
「畏まりました」
大寿の台詞に大正解と答えるように、三ツ谷の口元が柔らかく弧を描いた。
プレゼントの山を見て、三ツ谷が感嘆の声を漏らす。
「はー、年々すごくなってくな」
「接待の意味が大きいんだろう」
「それでも、みんな大寿の誕生日を覚えてて、大寿のこと考えながらプレゼント選んでくれてるってことだよ」
「…なんでテメェが嬉しそうなんだ」
「オレの彼氏がいろんな人から祝われてるのが嬉しいからに決まってンだろ」
こともなげに答える三ツ谷に不覚にもときめいてしまう。
おい、可愛い上にかっこいいのはやめろ。
誰に言うわけでもない文句を心の中で唱えて、目の前のプレゼントの開封作業に取り掛かった。
プレゼントの山の一番上の箱には、連名で柚葉と八戒の名前が書かれていた。手に取ると、隣の三ツ谷からわざとらしい笑い声が聞こえて、肩を軽くぶつけにいく。
「いてっ、なんだよ」
「うるさかった」
「何も言ってねェだろ」
「顔がうるさかったんだよ」
「はいはい」
もう一度肩をぶつけても、三ツ谷は笑うのをやめなかった。
2人からこうしてプレゼントがくるようになったのはここ5年の話。少しずつだけれど、姉弟間の蟠りは溶け始めている。
柄にもなく少し緊張していることを自覚しつつ、そっと包み紙を剥いで箱を開ける。赤いビロードに包まれて、誰もが知っている高級グラスが4つ入っていた。
「ペアじゃなくて4つだね」
三ツ谷の言葉に軽く頷きながら一つ手に取って見てみると、それぞれに何か彫られていることに気が付く。Taiju,Takasahi,Yuzuha,Hakkai.
グラスに刻まれていたのは、自分達と送り主の名前だった。
「あいつら、1セット送り先間違ってんな」
全くいつまで経ってもそそっかしい奴らだ。グラスを傷つけないように箱を戻そうとしたら、三ツ谷に待ったをかけられる。
「なんだ」
「それ、送り先合ってるみてェだよ」
どういうことだと見遣ると、グラスと一緒に入っていたらしい一枚のカードをこちらに差し出して、三ツ谷が笑っていた。受け取って見ると、手書きのメッセージが書いてある。達筆だが少し斜めに上がるのは、昔から治らない柚葉のクセだ。
その下の行は八戒だろう。何回言っても文字のスペース配分を考えないで書くから、最後の方がぎゅっと寄ってしまう。
“今度家に遊びに行く時には、このグラスで良いお酒ご馳走して”
“絶対ェ割るなよ!特にタカちゃんと俺のグラス!”
「柴家はみんなツンデレ」
「…うるせェ」
三ツ谷の手が腰に回ってきて、緩く抱きしめられる。視線を感じたけれど、目を合わせる余裕はなかった。そんなこと分かっているんだろう、三ツ谷は楽しそうに話を続ける。
「このグラスだったら、何飲むのが美味いンかな」
「…やっぱりウイスキーじゃねェか」
「お、じゃあその時は大寿が好きなじゃがバター塩辛作ってやろ」
いつやるかも、そもそも本当にそんな機会が訪れるかも分からないのに、楽しそうにツマミを考える三ツ谷の肩を抱くと、自分より小さいところにある頭に頬を寄せた。
「でも折角ならもっと手の込んだツマミ用意してやった方が良いかな」
「いや、いつものじゃがバターとかクリームチーズに柴漬け混ぜたやつとかが良い。アイツらも好きな味だと思う」
「…あは、柴家はみんな味覚も似てるって?」
「うるせェ」
三ツ谷の作るものは何でも美味いから。
これ以上言われてしまう前に黙らせようと、いまだニヤついている口を自分のそれで塞げば、反撃にかぷりと舌を噛まれる。
雨はまだ止む気配はない。
■■PM5:00■■
雨と風はどんどん強さを増してきて、先ほどから遠くの方で雷のゴロゴロという音が聞こえてきた。いよいよ上陸が近づいているんだろう。
こんな天気ではどこにも出かけられないので、夕飯まではサブスクで配信されているサメのドキュメンタリーを観ることにした。何を観るかザッピングしている時、大寿が操作するリモコンがそこから動かなくなったので。
「本当に好きだねェ」
「…おう」
「あ、これアカシュモクサメだろ」
「…おう」
完全に海の世界に引き込まれている。邪魔するのは悪いので、三ツ谷は恋人を観察することにした。真剣に番組に見入っている表情に、もう何回思ったか分からない感想を抱く。
大寿、顔が良い。見てるだけで酒飲めそう。
そんな詮無いことを考えながら、映画を観終わったらゆるゆると夕飯の準備を始めよう、と段取りを考えていた時、ひと際大きな雷鳴が轟いた。
「わっ」
「…デカかったな。まずいかもしれねェ」
大寿の台詞からほどなくして、バチンッという音ともに部屋の電気とテレビが消える。今まで快適な風を送っていたエアコンも、ピタリと音が止んだ。
「……今ので停電?」
「多分。少し外を見てくる」
ソファを立った大寿の後を追って玄関まで出てみれば、館内放送が廊下に響いていた。
『ただいま、区内全域で停電が生じています。電力会社が状況を確認していますので、いましばらくお待ちください。』
放送を聞いた大寿の表情が険しくなる。
「区内全域か。復旧まで時間かかりそうだな」
玄関のドアを閉めて大寿がそう呟いた瞬間、三ツ谷が「あ!」と声を上げた。
「じゃあホットプレート使えねェじゃん!やばいクレープパーティーできない!」
「…キッチンのコンロはガスだから使えるだろ。キッチンで焼いて持ってくればいいんじゃねェか」
「それは何か違ェだろうが~!」
慰めるつもりで提案した代替案は、かえって三ツ谷の機嫌を損ねたらしい。解せない。
「大寿くんには、一緒に生地焼くところから楽しんでほしかったのに…」
ぽつりと呟かれた台詞に、三ツ谷が自分の誕生日をどれほど考えてくれたのかがわかって、大寿は柔く微笑んだ。三ツ谷の身体を腕の中に囲う。
「俺は、今日一日お前と過ごせるだけで十分だ」
「大寿…」
眉を下げて見上げてくる三ツ谷があんまりにも可愛いものだから、そのままキスをしようと顔を寄せる。
「あ!」
あと数センチで唇が触れ合うその時、三ツ谷がまた声を上げて大寿の腕から抜け出した。そのままどこかへ向かってしまう。
…あと少しでキスできたのに。
大寿は口を尖らせながらその後を追うと、三ツ谷はリビングの収納棚を漁っていた。
「おい、どうした」
「ここに入れてたはずなんだよ…あった!絶対家から持ってきたと思ったんだ」
三ツ谷が手にしていたのは、ガスコンロ。三ツ谷が何をしようとしているのかわかって、大寿は笑った。
そうだった、こいつはやると言ったらやる奴なんだ。
「あとは…」
そう言いながら、三ツ谷は今度はキッチンへ向かう。しばらくして片手に何かを持って戻ってきた。
「ガスバーナーか」
「使うのはガスね」
二つをテーブルの上に置いて、三ツ谷が得意気に笑う。
「待ってろ大寿。停電でも最高の誕生日にしてやっから」
■■PM8:00■■
「じゃーん!どうよこれ」
「…すげェな」
テーブルの上に所狭しに並べられた具材たちを見て、よくこれだけ準備してくれたものだと大寿は感動していた。
ガスコンロを取り囲んでテーブルの半分はデザート系の具材が並んでいた。クレープの王道であるいちご、バナナ。他にも季節のフルーツとして桃やキウイなども綺麗にカットされている。
その横に置かれたふわふわの生クリームは、ハンドミキサーが使えないため大寿が手で泡立てたものだ。なかなかの重労働で、少しだけ歳を感じて切なくなった。
ソースは他にもチョコソースやあずき、バケツサイズのアイスクリーム、ジャム、カットレモンなど何十通りも組み合わせができるくらいに用意されている。
テーブルのもう半分には、ご飯系クレープの具材たち。焼肉のタレで味付けされたカルビ、ソーセージ、ツナマヨ、半熟目玉焼き、とろけるチーズ。
カットトマトやレタス、きゅうりなど野菜の用意も抜かりはない。
変わり種枠か、キムチや納豆もあった。納豆はクレープと合うのか少々不安なところではあるが。
暗いはずの部屋は、各所に置かれたキャンドルライトで暖かい明るさを保っている。いつか得意先から貰ってきて使っていなかったと、またもや三ツ谷がどこからか引っ張り出してきたものだ。
「よし、食べようぜ」
冷蔵庫からビールを持ってきた三ツ谷に座るように促される。大人しく席に着くと、向かい側の席に三ツ谷も座った。
「そんじゃ改めて。大寿、33歳の誕生日おめでとう」
「…ありがとう」
二つのグラスが当たる小さな音が、静かな部屋に響き渡った。
「ッカァー!今日のビールは格別に美味い!」
「親父クセェな」
笑いながら、大寿もごくごくと喉へ流し込んでいく。確かに、今日のビールは格別に美味かった。
仕事柄、今まで幾度も誕生日パーティーを開かれた。三ツ谷という伴侶がいたので女性が伴う店には頑なに行かなかったが、それでもある時には店やクラブを貸し切って祝われたり、予約の取れない高級店でご馳走になったりした。
三ツ谷の言う通り、祝ってもらっているのだから有難い気持ちはある。しかし、愛しい恋人からの「誕生日おめでとう」という言葉に勝るものはないと、歳を重ねるたびに大寿は強く思うのだ。
「大寿もいい飲みっぷりじゃん」
嬉しそうに笑う三ツ谷に「今日のビールは格別美味いからな」と返す。
「よし、早速焼いてこうぜ。オレ的に、納豆はイケるんじゃねェかと思うんだけど、大寿どう」
「………一枚目は普通に食べてもいいか」
「納豆だって普通だろ!」
二人のやり取りを笑うように風がびゅうと音を立てて、キャンドルの炎が揺れた。
■■PM 11:30■■
充実したクレープパーティーを過ごし(まさかの納豆は意外とイケた)、シャワーを浴びても、電気は復旧しなかった。
台風は今がピークなようで、窓に当たる雨粒は鈍い音を立て続け、風はごうごうと唸るような音に変わっている。
明日は平日だし早めに寝ようと寝室に向かった二人に、ある問題が発生していた。
「…暑い」
「言うな。もっと暑くなる気がする」
「あーつーいー」
「…テメェはよお」
停電してから6時間強。エアコンが生んだ冷気はとうの昔に消えてしまい、代わって台風特有のじめついた空気が部屋を満たしている。横たわってるだけなのに汗が浮かび、とても寝られる状況ではなかった。
「電気いつ復旧すんのかな…暑い暑い暑いー!」
「……今日中にはって話だったんだが、諦めた方が良さそうだな」
暑いと連呼する三ツ谷にツッこむ気さえ起きない。
「溶けちまってるかもしれねェが、保冷剤かなんか探してくる。無ェよりい
くらかはマシだろう」
これでは熱中症になりかねないと、大寿はベッドから起き上がる。その腕に三ツ谷がそっと触れた。
「なァ」
「なんだ。ちゃんとテメェの分まで持ってくるぞ」
「いっそもうさ、もっと熱くなることする?」
「…本気か」
「湿ってるシーツの感覚とか、大寿の汗かいてる腕とか触ってたら、なんかムラっときた」
ダメ?
全く、最後の最後まで自分の恋人は最高な誕生日にしてくれる。明日が平日だとかそんなことは頭から吹き飛んで、大寿は強引な動作で三ツ谷を引き寄せて、上から覆い被さった。その時
バチン!
スイッチが入る音ともに、部屋がパッと明るくなった。エアコンは、部屋に充満している湿気を取ろうとフル稼働している音がする。
「………」
「…んふ、わりッ…ふ、あはははは!タイミングがッ…あっは」
「…シャワー浴びて寝る」
エアコンの尽力によって瞬く間に部屋の温度が下がっていくと、大寿の頭も冷静になってきた。
明日出勤すれば、台風後の対応などもあるかもしれない。これでコトに及んだら、しんどいこと間違いなしだ。
浴室へ向かおうと三ツ谷の上から退こうとした時、三ツ谷の両腕が首に絡まってくる。
「ッおい、三ツ谷てめ」
「寒い」
「…は」
「ほら」
三ツ谷が差し出してきたリモコンを見れば、設定温度が20度になっている。
「そりゃ20度は」
寒いだろうがと言いかけて、大寿は朝の出来事を思い出した。腕に絡む腕を解いて、自分の首筋に埋まっている顔を覗き込む。三ツ谷の頬は鮮やかな赤に染まり、瞳はゆらゆらと揺れている。これはきっと、熱さのせいじゃない。
「…なァ、あっためてよ」
三ツ谷から決定打が放たれると、大寿は自分の唸り声が喉から鳴るのを聞いた。
三ツ谷をベッドに縫い付けて、息まで飲み込むような深い口づけを贈る。それに応えながら、三ツ谷は息継ぎの合間に告げた。
大寿、誕生日おめでとう。
エアコンのリモコンには、23:59と表示されていた。
おめでとうございます!