メインチャレンジ「インパを訪ねて」をクリアしなかった設定のリンゼル続き ──貴方の故郷は、どんな所ですか。
それは、二人の間に横たわる沈黙にまだ耐えられなかった頃、会話の接ぎ穂として何気なく発した問いかけだった。
彼は珍しく、少し逡巡したように口ごもり、しばし思案した。
言葉を促すように、ハイラルの東の果てにあると聞いていますが、と言えば、はい、ですので、日の出が早いです、と呟くように言った後、懐かしそうに目を細めて、東の空を見上げながら口を開いた。
──何もない所です。本当に、何も……。
※
その家は、ハイラルの東の果てにある村の、その中でもさらに村外れの場所に建っていた。
その家を購入した男は、「住んでいた人がミヤヅカエするようになってから長い間空き家になって、取り壊されそうになってたんだ」と、宮仕えの意味も知らず、のんきにその家を購入した経緯をゼルダに話して聞かせた。
よりにもよってその男が購入した家というのが、その家だったとは。偶然か必然か、女神の気まぐれか、はたまた男の本能か。図りかねたゼルダは、男の言葉に曖昧に相槌を打った。
男が購入したその家は、村から吊り橋を渡らないと行けない場所にある。降雪の多い地方ならではの天に向かって高く伸びた煙突、冬の寒さに耐えられるよう硬い石で補強された丈夫な土壁といった、ハテノ地方にごくありがちな造りの家だが、敷地内に広い庭はあっても畑はなく、馬が寝起きする厩があった。
ハイラルでは、馬を農耕馬として用いる地域はほとんどない。そのため、百年前は馬を所有できる人間は限られていたし、当時の行政機能や制度がほとんど機能していない現在でさえ、馬宿に登録しなければ、馬はその者の所有馬であるとは認められない。百年前、馬を交通手段にしていた貴族や一部の地方の豪農を除き、馬を所有し、馬に日常的に乗ることができたのは──騎乗、という言葉からも分かるように、兵士のうちでも「騎士」と認められた者に限られる。
その家の庭にある厩や、その不便な立地から、その家の歴代の家主が特別な任務を負っていたのであろうことがゼルダにはたやすく推察された。宮仕えをすれば嫌でも、外部には口に出せない秘密を知ることになるし、有事の際には宮仕えをしていた本人だけでなくその家族も、村人たちを見張り、彼らの言動を中央に報告しなければならないこともある。ハテノ地方への玄関口であるハテノ砦は、城塞というより、関所としての側面が強い場所だった。厄災が起こった後の現在は、ハテノ村は厄災の被害を免れた数少ない村という立ち位置を占めているが、百年前にはハテノ砦の先にある集落がハテノ村とウオトリー村くらいしかなかったことを考えると、ハテノ村は単なる地方の辺鄙な村というわけではなかったのだ。
その家のすぐ傍らには、りんごの木が生えている。庭には小さな池があり、蓮の花が咲き、水草が漂っていた。また、木登りするのにちょうどよい大きさの樹もあった。──幼い日の「彼」が、この池で泳ぎ、またもいだりんごを木に登ってかじりながら、遥か西にある中央ハイラルに思いを馳せた光景が、ありありと浮かんでくるようだ。
「ゼルダ、どうしたの?」
万感の思いにとらわれ立ち止まったゼルダに、その男──リンクは無邪気な笑顔で問いかけてくる。
回生の祠での百年に亘る眠りの末に、記憶の大半を失ったこの家の家主。自らの生家をそれと思い出さないままその家の持ち主となった男を、ゼルダは複雑な心境で見つめた。
──いつか、お連れします。そう言ってくれた彼が、別の男──正確には、別の男ではなく、その過去の記憶のほとんどを失った同一人物であるのだが──と彼の故郷を訪れているのだと、あのときの彼が知ったら、どんなふうに思うだろうか。
そんなとりとめもない、馬鹿げた感傷に浸っていたゼルダは、気持ちを切り替えるように首を振った。幸か不幸か、何でもないふりをすることに、ゼルダは慣れていた。
※ ※
厄災討伐を終えたゼルダの体調が良くなってくると、リンクはハイラルのあちこちにゼルダを連れて行きたがった。カカリコ村で静養していたゼルダが、シーカーストーンにおさめられていたハイラル各地の写し絵やハイラル図鑑を見て、リンクにあれこれ尋ねたのがきっかけかもしれない。
ヘブラ山頂にはためく極光、ラネール地方の雨上がりの空に架かる二重の虹、砂漠や火山地帯、雪深い洞窟の中の巨大なクジラの化石、ゲルド地方にある英雄像、ハイリア大橋を横切るフロドラ、ラネール湾やラネール参道を泳ぐネルドラ、ククジャ谷を横切るオルドラ……。百年前、各地へフィールドワークに赴いていたゼルダも、さすがに酷寒の地や砂漠の果てまでは訪れていない。だがリンクはこの旅で、ハイラルのほぼ全土を踏破していた。
通常のチュチュゼリーが寒冷地ではアイスチュチュゼリーになるけど同じようにキースの羽もできるかと思ったらできなかったとか、バクダン矢は雨の日は全く役に立たないがデスマウンテンだとすぐに爆発して危険だったとか、リンクが失敗談も交えて面白おかしく話すので、かえってゼルダの静養の邪魔だとインパに叱られたことさえあるくらいだ。
とはいえ実際、病み上がりのゼルダを過酷な環境であるヘブラ地方やオルディン地方に連れて行くわけにもいかず、リンクはまずハテノ村へゼルダを連れて行くことにした。
厄災による被害が最も少ないこと、住民のほとんどがハイリア人であること、旧知の仲でありゼルダとの再会を心待ちにしているプルアがいること、そしてリンクの家があることなどの理由から、インパもふたりがハテノ村へ行くことを許可した。──リンクに野合は断じてならんと固く言い含めて。
「あれは絶対にばれてるよね」
リンクが能天気に言う。
──姫様をお護りする以上、常に英傑の服を身に纏わねばならぬ。インパの言葉を守って英傑の服を着るようになったリンクはしかし、野合はならぬというインパの言葉を守る気はあまりないのか、家に入るなりゼルダを後ろから抱き寄せて、その腕の中に閉じ込めた。
ふたりがカカリコ村を経ったのは朝まだきの頃。クロチェリー平原を足早に通り抜け、東へと馬を走らせてハテノ村へ着いたのはまだ日の高い時間だ。
にもかかわらず、やけに火照っている胸板をゼルダに押しつけ、熱い吐息を吹きかけてくるこの男は一体どういうつもりなのか。ゼルダのお尻をこする、固く主張し始めたものは一体何なのか。
少しの非難を込めてリンクを睨めつけると、リンクはとろけそうな笑顔で言った。
「ごめんねゼルダ。
この家のベッド、一つしかないんだよね」
その言葉を聞いて、ゼルダの中で、このハテノ村での暮らしが確定した。
※ ※ ※
屋根のある一軒家という、自身に口うるさく言ってくるインパの目も届かなくなった環境で暮らすようになったからか、リンクの衝動は明け透けだった。
ゼルダとしてはハテノ村に着き、荷物をリンクの家に置かせてもらったらすぐにプルアに会いに行くつもりだったのだ。──ところが蓋を開けてみれば、着いて早々行為になだれ込み、プルアはおろか村の人びとにもほとんど会えていない。
疲労困憊したゼルダが復調したのは、村に着いた翌々日のことだ。飲食も忘れて愛し合い、ようやく彼の昂ぶりがおさまったところで、二人のお腹が盛大に鳴った。
悪びれず食糧調達をしに行ったリンクに、ゼルダはふらふら立ち上がりながら、身なりを整え、庭にある大きな樹の木陰で涼みながらリンクを待つことにした。ここ数日、太陽の光をまともに浴びていなかったし、色々なものでぐちゃぐちゃになったベッドに戻る気はなかった。
天気の良い日だった。汚れたシーツの洗濯をしなければ……と思うのだが、まだ身体が少し軋む。ようやく人心地ついて見ることができる周囲の光景を、ゼルダは見るともなしに見つめていた。
ハイラル図鑑にも載っていないような、小さく可憐な花が咲いている庭からは、頂きに青い光を放つハテノ塔がよく見える。記憶が戻っていないというわりに、リンクは始まりの台地で聴いたゼルダの声とことば、出逢ったハイラル王とのやりとりはよく覚えていて、ハイラル各地のシーカータワーはすべて解放されていた。そして、百年前に知っていた人びと、村や里の名前は忘れていたが、今のリンクは現在のハイラル各地の地理や気候、動植物や名産品に詳しかった。
家に戻ってきたリンクはどこで調達したのか、両手に魚や肉を抱えており、手早くゴロンの香辛料を使ったカレー、ウオトリー村の海産物を使ったパエリア、ハテノ米とリトの村に棲むマックスサーモンを使ったサーモンリゾットなどを作ってくれた。作った本人の空腹具合が分かるような主食ばかりで、空腹を覚えてはいたが体力が減っていたゼルダはリゾットと、ハテノ村の特産であるミルクを使ったホットミルクを頂いた。
お腹がこなれてくると、リンクはゼルダの手を引いて歩き出した。大工だというサクラダが意味ありげな視線を向けてくるので挨拶をし、ハテノ村の人びとの興味津々の視線ににこやかに微笑みながらゼルダは村を進んで行った。
ハテノ古代研究所で懐かしい友人と驚きの再会をしたゼルダを、リンクは微笑ましそうに、けれども少し切なそうに見つめていた。語り合いたいことはいくらでもあったが、せっかくなのでハテノ村を案内したいというリンクの言葉に従い、二人は昼過ぎにはハテノ古代研究所をお暇した。
リンクとゼルダはハテノ古代研究所を下る道を少し逸れてハテノビーチへ行き、二人で赤や緑のカニを追いかけたり、波打ち際で水をかけ合ったりし、牧場で草を食むヤギたちを肩を並べて眺めたり、いっときも休まず回る風車を見上げながら村の店を回り、慎ましいながらもよく手入れされた畑の景色を楽しみ、綺麗に手入れされている村の女神像に並んで祈りを捧げた。子どもたちが駆けっこをし、村のおしゃべりな女性たちは井戸端会議で話題に花を咲かせ、男性たちは畑仕事や商いに精を出している。ゼルダと目が合った老女が、通りすがったゼルダを認め、うやうやしく頭を下げた。
百年前の彼──リンクは、自分の故郷を、何もないところだと言っていた。けれど、かつてハイラルのどこにでもありながら、厄災によって失われてしまった穏やかで慎ましい暮らしの面影が、今もこのハテノ村には残っている。それはどんな名所よりも、ずっとかけがえのないもののように、ゼルダには思えた。
ハイリア人の心の原風景をそのまま表したようなハテノ村の風景は、百年に亘る厄災との戦いに疲れたゼルダの身体と心を癒してくれた。だがゼルダは村のあちこちで立ち止まり、何かを探すように視線をさまよわせた。自分が探しているのが、百年前の「彼」の名残なのだと気づき、ゼルダは心の中で苦笑した。
この穏やかな村の中にいると、「彼」の姿を、その面影を、ゼルダは探してしまう。彼と多くの時間を過ごしたはずの城や城下町ではなく、まだゼルダに出逢う前、騎士として叙任されていなかったであろう、いとけない日の彼の姿を。
──いつか、お連れします。そう言ってくれた彼が、村の入口の門の傍らや、家に向かう吊り橋の手前、村の人びとがあまり寄りつかない不思議な姿の像のそばで、彼の故郷を訪れたゼルダを待っていてくれているのではないだろうかと。
そんなとりとめない想いにとらわれていると、いつの間にかゼルダの目の前には今のリンクがいて、ゼルダの顔をのぞき込んでいる。
具合悪い? 疲れた? と心配そうに問いかけるリンクにゼルダが首を横に振り、村を案内してくれた礼を述べると、彼はとても朗らかに、嬉しそうに笑った。
(貴方は、貴方の故郷の素敵なところをたくさん知っていて、それを私に教えてくれるのですね)
宵闇が訪れ、空に星々が浮かび上がり始める頃、仕事を終えた人びとは家に帰り、村の家々にはまた一つ、また一つと明かりが灯ってゆく。
自分たちもその一つになるのだという感慨にふけりながら、ゼルダはリンクとともに、家に入り、扉を閉めた。
※ ※ ※ ※
それから二人のハテノ村での暮らしが始まった。
それまで行ったことのない料理、掃除、洗濯にゼルダは当初手を焼いていたが、それらは続けていくうちに慣れていった。もともと薬を作ることはあったし、なるべく人を立ち入らせないようにしていた研究室の整理整頓は自分で行っていた。そのうちいかに作業を効率化できないものかと石鹸や、質の良い油のとり方を研究するようになり、「所帯じみても姫様ネ」とプルアに笑われたものだったが。
魔物の退治や狩猟、お使いなど、こちらも日々の糧を得るのにそれなりに忙しいリンクだったが、合間を縫ってはゼルダをハテノ村の色々なところに連れて行ってくれた。ゼルダの好きだった図書館や研究室はこの村にはないが、ゼルダが図書館や研究室の本の中で、机上でのみ知っていたことがまざまざと目の前に現れる毎日に、ゼルダは興奮した。
雨上がりの空に架かる虹や、夜空を滑るように落ちてゆく流れ星、遠雷の閃光に、ラネール山頂の空を悠々と泳ぐ龍。
珍しいものを見つけては、頑是ない子どものようにゼルダの手を引いて村の中を楽しそうに駆け回るリンクに、息を切らせて走りながら、ゼルダもまた、腹の底から声を出して笑っていた。
そんなある日、リンクがゼルダにフードをくれた。ハイラルの旅人がよく使っているハイリアのフードに似ているが、柄が染色ではなく刺繍で入れられており、生地も見るからに質が良く、縫製もハイリアのフードより手がかかっている。
疑問符を浮かべたゼルダに、リンクは少し坂道を上るが、面白い場所があるからゼルダを案内したいのだと言う。そこで今日は二人とも仕事を昼で切り上げ、その後にリンクがゼルダに見せたいという場所を案内してもらうことになっていた。
リンクが案内したいと言ったのは、家の裏にあるエボニ山の山頂だった。フードは少し標高が高い場所になるので、防寒用にくれたらしい。思ったよりも近場なので、ゼルダはお手頃なのね、と少しおかしい気持ちになってしまった。とはいえ坂道を上り始めると、人の通った跡が道らしくなってはいるものの、頂上までそれなりの時間がかかった。リンクに手を引かれて坂道を上りきると、そこにはハート型──ひび割れているが──の泉があった。
ゼルダは額の汗をぬぐいながら微笑んだ。
「伝説のラブポンド──とは違いますが、よく似た泉ですね」
息を弾ませて言うゼルダの言葉に、リンクは目を丸くした。
「ゼルダはラブポンド、知ってるの?」
リンクの言葉に、ゼルダは頷く。疲れたゼルダがハート形の小さな泉のわきに腰を下ろすと、リンクもならってゼルダの隣に腰を下ろした。
風が吹き、泉に波紋が広がる。大妖精の泉のような特別な力のある泉ではないようだが、妖精たちがきらきらと羽根を輝きながら泉の上を飛んでいた。
「昔、母がラネール山に立ち入ることができるようになる齢──十七歳になった頃、女神にまつわる三つの泉を巡礼したことがあるそうです。
ハイラル平原を南下し、ハイリア大橋を渡って勇気の泉があるフィローネ地方を訪れたのですが、そこである野伏の男性に出逢いました。
そのとき母はその野伏に連れられて、ラブポンドまで行ったそうです」
ゼルダはその話を母から聞かされたときのことを想い出しながらはにかんだ。
当初野伏は、天気が変わりやすく、晴れていたかと思えばすぐに雷雨となるフィローネ地方で、金属製の武器を装備することが当然で、落雷に慣れない護衛騎士や兵士たちに代わって、姫の巡幸の露払いや偵察をしてくれていた。野に伏せ森に潜む彼は、粗末な木製の弓に石の矢じりでリト族のような正確な射撃で獲物をとらえ、粗末な槍を片手に担いで行ったかと思えば、ゾーラ族のように自在に川を泳いで魚をとった。山野草、とくに薬草に詳しく、天気を読み、とらえた獣たちに、ハイラルに生きるすべての生命に敬意を払っていた。
見目はそれほど整ってはいなかったが、粗末な身なりの中にも理知的な輝きを放つ瞳を持っていて、ゼルダの母もすぐに信を置いたらしい。
「ラブポンドの周りにはマックスラディッシュの花が咲き、シズカホタルが辺りを舞っていて、とても幻想的な光景だったそうです。
母がその美しい夜の景色に見とれているうちに、野伏は身軽に崖を下りました。母が驚いていると、野伏はすぐに戻ってきて、その手には、淡い光を放つしのび草が握られていたそうです」
幸せそうに語る母の姿を思い出し、ゼルダも年頃の少女らしい、含羞を帯びた笑みを浮かべた。「その野伏が私の父。ラブポンドは、私の両親の馴れ初め話でもあるのです」
その野伏──後のゼルダの父、ハイラル王──は、結局その後の知恵の泉、力の泉への道行きにも当然のように同道してしまった。実はたんなる野伏ではなく、彼は由緒正しい出自の者であったので、巡礼の旅が終わった後、それなりの悶着はあったようだがおおむね円満にふたりは結ばれたのだった。
そう言い終えたゼルダがふと見つめると、リンクは顔を赤らめて、妙にそわそわしていた。
何やら浮足立っているリンクの態度に一瞬疑問を抱いたゼルダだが、今自分たちの置かれている状況がまさに自分の両親の馴れ初めをなぞっているということに気づき、リンクの熱が伝播したかのように赤面してしまった。
リンクが恥ずかしそうに、あさってのほうへ視線を逸らしながら頬を掻いた。
「あー、えーと……そ、そうなんだ。
で、でも、この泉はラブポンドと違ってひび割れてるから! 次はちゃんとゼルダをラブポンドに連れて行くよ」
本人も混乱していて自分の言っていることに──さらに恥ずかしいことを言っているのだと気づいていないリンクに、ゼルダはゼルダで混乱し、「あ、ありがとうございます」と妙な返しをしてしまった。
お互い恥ずかしがり合う二人の間に、妙な沈黙が落ちた。
徐々に西日が傾いて夜の闇が迫り、二人の火照った頬を冷たい風が撫でていく。ハテノ村は比較的標高が高い。今の季節、昼間は穏やかな気候だが、北側にはすぐにラネール連峰がそびえていることから、夜はラネールから冷たい風が吹き下ろしてくる。山をさらに登れば、そこにはラネール連峰の銀世界が広がっている。
ゼルダは寒さよけにフードをかぶった。耳の先が冷たい。
沈みゆく夕陽の眩しさに目を細めながら遥か西の彼方を見つめ、「ここは変わらないですね……」とゼルダは呟いていた。
リンクがそれを耳ざとく聞きつけ、
「えっ? ゼルダ、ここに来たことあるの?」
とゼルダの横顔をじっと見つめながら問いかける。その口調は、どこか詰問しているようでさえあった。
ゼルダは急降下したリンクの機嫌に、少したじろぎながら頷く。
「ええ、小さな頃……母がまだご存命だった頃です。
……あ、リンクは覚えて──いえ、知らなかったですよね。私の母は、私が六歳の頃に亡くなったのです。
ですので、もう百十年も前のことになります」
目線で続きを促きながら黙り込んだリンクを見て、ゼルダは話を続ける。
「母と私が一緒に、ハイラル中を巡幸したことがあったのです。そのときにこのハテノ村を訪れたことがありました。
そのときこのハテノ村で、先ほど話した父母の馴れ初め話を母から聞いたのです。
何て素敵なのだろうと思っていたところに、村外れの一軒家の後ろの山に、ラブポンドに似た泉があると教えられて」
「教えられた? 誰に?」
誰がそんな余計なことを、と言いたげな口調だった。ゼルダは苦笑して続ける。
「それが、よく覚えていなくて。村の入口近くで聞いたような気がするのですが、後で思い出そうとしても、村の人でもないようでしたし。
母はご存知の様子でしたが、それは悪魔の囁きかもしれないわね、と笑っているだけでした」
「悪魔の囁き……」
リンクが呻くように言った。ゼルダは怪訝に思いながらも、リンクの視線に促されて話を続ける。
「その話を聞いて、一人で坂道を上り始めたのです。でも、当時の私は普段それほど歩き回っているわけでもないですし、舗装された道でもなかったので、途中で疲れてしまって。
そんなときに、どこかから私と同じくらいの年頃の男の子がやって来て。座り込んでいた私のことを背負うと、頂上まで連れて行ってくれたのです」
くすぐったい、甘酸っぱい想い出だ。それに──母以外の誰にも秘密だったけれど、この出逢いはきっと、ゼルダの初恋だった。
もちろん、男の子の名前も顔も、ゼルダはすでに覚えてはいないのだけれど──。
男の子と、色々な話をしたような気がする。他愛ない話やとりとめのない話を。──でも、慣れない巡幸の疲れと歩き疲れで、ゼルダはおしゃべりしているうちに、いつの間にか眠りについてしまっていた。夢うつつで、小さいのに頼りがいがある温かな誰かの背に背負われながら、カラカラカラ、と、風車が回るような音を聴いていたことは憶えている。
ゼルダが目を覚ましたとき、王妃と姫の一行はすでにハテノ村を離れていた。だから、ゼルダはあの男の子に結局お礼も、別れの言葉も言えずじまいだった。
もう百年以上も前の出来事だ。あのときの男の子も、もうすでに亡いだろう。ありし日の祖国のことを思うと今でも心が痛いが、母の想い出を含めて、幼い日の記憶はゼルダにとって心温まる想い出が多い。
ゼルダが幸せな想い出に浸り心癒されている一方で、隣に座るリンクの表情は次第に険しくなっていった。
「俺ならお姫様抱っこで、ゼルダをラブポンドまで連れて行けるよ!」
言っている内容は野生児あがりのリンクらしく的外れだが、その真摯な双眸に見つめられて、ゼルダの胸は高鳴った。
「ラブポンドだけじゃない、ゼルダが望むならどこにだって、ゼルダを連れて行く」
普段は常識外れで、自由奔放で、ゼルダに無体を働くことも多いリンクだが、こうして時折ゼルダに優しさやいたわりを見せてくれるから、ゼルダは結局彼の身勝手さも許して甘えてしまうのだろう。
酔いしれるような愛の言葉もなく、力強い腕で半ば強引にゼルダを抱いて、ものにしてしまった人。
──百年前のリンクは、当然ながら、ゼルダの行く場所につき従ってきてはくれたが、どこかへ連れて行こうとしてくれたことはなかった。厄災復活直後のあの時を除いて。いつもゼルダの三歩後ろを、つかず離れず、影のように歩いていた……。
また馬鹿なことを、とゼルダは首を横に振った。彼が自分の後ろを歩いていたのは当然だ、なぜなら彼は自分の護衛騎士だった。それに、厄災復活直後のあのときは、ハテノ村ではなく、シーカー族の本拠地であるカカリコ村に自分を連れて行こうとしてくれていたのだ。そして、その途中で結局……。
何にせよ、百年前の彼と今の彼とを比較するのは、どちらの彼にとっても失礼だ。ゼルダは今の気持ちを素直にリンクに伝えた。
「貴方がそう言ってくれて、とても嬉しいです。
でも私は、貴方が貴方の家のあるこのハテノ村に私を連れてきてくれたことが、一番嬉しいですよ」
リンクの眼を見つめてゼルダが言うと、リンクが照れたように指で頬を掻いた。彼の頬も耳先も、寒さからではなく赤く染まっている。そんな自分の知らないリンクの癖を一つ、また一つと見つけていくたび、ゼルダの心は喜びで満たされる。
「家を買ったのは、物資の保管場所とか、安心して寝られる場所が欲しかったっていうのが大きな理由だけど……。
でも、ゼルダを連れてきたかったんだ。
ここは、俺の故郷みたいなものだから」
故郷、というリンクの言葉に、ゼルダの心臓が大きく跳ねる。
リンクは目を丸くしたゼルダに、照れくさそうに言葉を続けた。
「このハテノ村は、何だか懐かしい気がするんだ。
カカリコ村もゾーラの里もリトの村も、みんなの穏やかで静かな暮らしがあって好きだけど、俺の帰る場所じゃない。ハイリア人の村や里ないからかもしれないけど、住んでいる人にどんなに親切にされても、俺はやっぱりよそ者っていうか、旅人なんだなって思う。
でもこのハテノ村では、おばあちゃんが遠い昔の話をしてくれて、男の人は畑仕事や商いの仕事をして、女の人は井戸端会議をして、子どもたちは追いかけっこやかくれんぼをして遊んでて。
よそから行商人や旅人や、ゼルダみたいにすごくきれいな女の子が来るだけでも一大事だ! って村人が大騒ぎするくらい、毎日が平和で、同じことの繰り返しで……。
俺の生まれたところのことは憶えてないけど、故郷ってきっと、こんな感じのところかなって思ったんだ。
だから、俺はここが俺の故郷だって思ってるし、ゼルダに──好きな女の子に案内したかったんだ。俺の故郷を」
何もなくてがっかりされるかと思ったけど、と、リンクは冗談めかして続けた。
そんなことはありません、とゼルダが力強く言うと、リンクは安心したように笑った。
「……俺さ、百年前の記憶を取り戻したら、今の俺が消えてしまうんじゃないかって思ったんだ」
ぽつりとこぼすようにリンクが呟く。
「旅を始めたばかりの頃は、貴方はハイラルの希望なんだとか、百年前に姫を最期まで護った騎士だとか言われて、でも全然実感が湧かなかった。自分のことをなのに、知らない人のことを聞いているみたいで。だから自由気ままに旅を続けてた。
でも、最初に行ったヴァ・メドーで、リーバルに──ゼルダはもちろん知ってるだろうけど、ちょっといけ好かない感じのするあいつに会ったんだ。
あいつは俺が神獣の中に入るときも、神獣の制御端末を起動させたときも、いちいち癇に障るような言い方してさ。
でも、そんなあいつが最後に、言ったんだ。すごく優しい声で、『あの姫は、君をずっと待ってるんだぜ』って」
リンクにとってそれだけ印象的だったのだろう、抑揚も声のトーンも、少し大仰なところがあったリーバルの仕草まで似せて、リンクが言った。
ゼルダが神獣の繰り手を依頼しに行ったとき、リーバルは戦いのことをよく知らないゼルダでさえ見とれるような弓技を繰り広げた。そしてその後、後方援護する自分の実力に、退魔の騎士であるリンクが自信を喪失しても知らないと、自信満々にそう言ってのけたリーバル。
彼はリト族でも随一の弓使いであり、指折りの戦士だった。と同時に、彼はたいへんな努力家でもあった。そんな彼に認められていたという事実は、百年前に実らぬ努力を続けていたゼルダにとって、大きな喜びだった。
顔を綻ばせたゼルダに、リンクはリーバルの真似をして作ったのであろう気取った表情を崩した。
「ちょっとキザだけど、あんなにも誇り高い奴に、あんなふうに言われたら──絶対に俺を待っている貴女のところへ行かなきゃと思ったんだ。
そのためにも力をつけないと思って、シーカータワーや祠を解放した。それからヴァ・メドーの時みたいに、神獣の話を聞いては解放した。
そしてそのたびに、英傑たちに、貴女を助けあげて欲しいと言われたんだ」
リンクがゼルダをじっと見つめる。
ラネール参道で別れてから、ゼルダは結局、英傑たちと──その魂と出会うことも、言葉を交わすこともできなかった。ただ厄災討伐後、リンクとハイラル城を後にしたときに、ふと二人を見守る彼らの気配を感じた。ようやく彼らの魂も、安寧の地へ赴くことができたのだと、安堵したことを覚えている。
記憶を失っている状態のリンクが神獣と、そこに囚われていた彼らの魂を解放してくれたことは、ゼルダには予想外の大きな喜びだったのだが、リンクが彼らに自分のことを託されていたとは。
驚きに目を見張るゼルダに、リンクは続けた。
「ゼルダに逢ったとき、ゼルダは俺に、自分のことを覚えているかって訊いたよね。
俺にとってゼルダは、記憶がなくても誰よりも逢いたい人で、出逢った後も、ゼルダといるだけで心が震えた。
でも俺はそのとき、ゼルダにとって俺はそうじゃないんだなって思ったんだ」
リンクの言葉に、ゼルダは思わず声を上げた。
「リンク、私は」
口を開きかけたゼルダをリンクが手で制す。そして少し困ったような微笑みを浮かべながらゼルダを見つめた。
「『あいつ』と比べられるのが嫌で、この英傑の服も着たくなかった。ゼルダにがっかりされたくなかった。みんなの思い描く『騎士』の姿から、俺は程遠かったから。
俺はきっと、百年前の自分には戻れないし、戻りたいとも思わない。ゼルダを助けられさえすればよかった。
でも、よくよく考えたら、俺はゼルダのことを知らない。ゼルダは俺のことを知ってるのに、俺はゼルダのことを知らないんだ。
誕生日とか、好きなこととか、好きな食べ物とか、好きな花とか──。もっとゼルダのことを知りたい。
ゼルダが百年前の俺を、このハテノ村のどこかに見つけ出そうとしているように、俺もゼルダを探したい」
ウツシエの記憶は、ハイラルのあちこちに散らばっている。
それはリンクの記憶であると同時に、リンクから見たゼルダというひとの記憶でもある。
ゼルダやインパといった、百年前のことを知る人びとから事実を述べられ、真実を語られるのではなく、「彼」から見た彼女の姿がどのようなものだったか、そしてそのとき「彼」が何を感じていたかを知りたいのだとリンクは言う。
「俺は自分の百年前の記憶を取り戻したいわけじゃない。でも、百年前のゼルダを知りたい。
俺が記憶を取り戻すことが、百年前のゼルダを知ることになるなら、俺はウツシエの記憶を探すよ。
俺を回生の眠りから覚ましてくれた女神としてでも、ハイラルの姫巫女や、ハイラルの姫としてのゼルダでもなくて、覚醒しない力のことで悩んで苦しんでいたときの、一人の女の子であるゼルダを」
──そうして初めて、受け止めることができる。降って湧いたように突然自分に与えられた使命も、「ゼルダを助けてあげて欲しい」と言った英傑たちの言葉の本当の意味も、人伝に聞いたのではないゼルダと「彼」の姿も、そして──百年前の「彼」の想いも。
返事ができないでいるゼルダに、これ借りるね、と言いながら、リンクはゼルダの持っていたシーカーストーンを手に取った。シーカーストーンは、先日会ったプルアの手によって、リモコンバクダンとビタロックの機能がパワーアップし、ウツシエの機能も修復されていた。
「俺、写し絵を頼りに記憶を探すよ」
いつかどこへでも連れて行くけど、今回はゼルダは留守番しててね。体調も不安だし、ゼルダに答えを聞くようなズルしたら、自分で探す意味がないから──。
朗らかな笑顔を浮かべながら早口でそうまくし立てた後、リンクは急に真面目な表情になる。
「俺が帰って来たいところは、ゼルダのいるところだよ。
それはいつか、建て直したハイラルの城になるのかもしれないけど──でも、今は、ゼルダには俺の故郷にある俺の家にいて、俺の帰りを待っていて欲しい」
リンクの言葉に、ゼルダは声もなくただ何度もうなずいた。
──その後、ゼルダは彼の宣言通りに、お姫様抱っこされて坂道を下る途中の夢見心地の中で、あのときと同じ、カラカラカラ、という風車の音を聴いた。
※ ※ ※ ※ ※
朝──。
ゼルダがお日様の匂いのする清潔なシーツの上で目覚めると、隣で寝ていたはずの男の姿はすでになかった。
昨晩激しく愛し合った名残が、まだ火照りとして身体の中に残っている。昨晩の情事を思い出して一瞬恥じらったゼルダはその後、手早く服を身に着けて、階段を降り、家のドアを開けた。
吊り橋の向こう、朝もやの中にまだ眠る村の中にも、彼の姿はもう見えない。
──ああ、彼は旅立ったのだ。またここに、帰って来るために。
ゼルダはそう思った。
東の空が徐々に明るくなり、夜明けの空を、鳥たちが群れをなして、西の方角へと飛び立っていく。
エボニ山の向こうから顔を出し始めた太陽を見上げて、ゼルダはいつか、リンクが言っていたことを思い出した。
──ハテノ村は、ハイラルで、一番最初に太陽が昇る場所なんだ。
自分の故郷のことを語る彼の嬉しそうな笑顔を思い浮かべながら、ゼルダは踵を返した。
二人の家で、リンクの帰りを待つために。