月鯉/明治軸 以前に比べ、ずいぶん早く必要書類を仕上げることができるようになった少尉殿へ「大変助かります」と述べると「褒美がほしい」と強請られた。
てっきり中尉殿の写真でも欲しがるかと思ったのに、「蕎麦屋に行きたい」という。
「蕎麦、ですか。構いませんが」
「月島は、他のものと蕎麦を食いにいったことがあるのか」
「まあ、数回ほど」
営外の蕎麦屋は給金が出たあと、ほんの数人で連れ立っていくことがあるが、それも数えるほどだった。
多くの連中は給金のほとんどを仕送りする。家族のない俺から誘うことはない。それでも営内には大体似たような境遇のものは数人いるので誘われたら付き合う程度だった。酒を呑みつつ食べる蕎麦はたまの贅沢に違いなかった。
この場合、俺が少尉殿をもてなすのが筋だと思った。この人のことだ、部下の俺に財布を出させることなどないような気もしたが蕎麦くらいであれば俺でも少尉殿を馳走することはできる。
「いいですよ、参りましょう」
少尉殿が瞳を輝かせた。なんでも表情にすぐ出るのはいつもよしてくださいと言っていることだった。咳払いすると、はっと表情を改める。今度は眉尻が下がっている。だから、顔に出すなというのに。
将校同士の交流はそれなりに格式のある店に行くのがお決まりであるから、庶民が食べるものを味わってみたいと言うことなのかもしれない。市井の人間の暮らしぶりを目に入れておくのも、今後のためによいことだと判断した。
蕎麦屋の暖簾をくぐるなり、少尉殿は落ち着きなくあたりを見回し始めた。よほど珍しいのだろう。
「将校用に用意された奥の間もありますが」
「いつも月島はどこに座るのだ」
「案内された空いているところへ座ります」
「では、私もそこにする」
なんでも俺と同じがいいらしい。
俺に兄弟はいないが、もし歳の離れた弟がいたらこういうものなのだろうか。上官に対して無礼な考えを片隅に仕舞って、女将に席を用意させた。
席についても、まだ当たりを見渡して何かを探している様子である。
「何かお探しですか」
「いや、なんでもない」
「そうおっしゃっても、さっきから何か気にしていらっしゃる。この店は、あとは二階があるくらいです」
「あるのか! 二階が‼︎」
鯉登少尉の声は、そう広くない店に響き渡った。
客が少ないことだけが幸いである。
不手際があったのではないかと心配そうにこちらを見遣る女将に大丈夫だと軽く首を振って示してやる。
「落ち着いてください、二階が何だというんです」
「……月島は、二階を使ったことがあるのか?」
「ありません」
咄嗟に否と答えた。おそらくこの回答で間違い無いだろう。ここ《・・》の二階は使ったことはない。だから嘘ではない。こういった店はどこも同じような作りであろうことは予想できた。
「ないのか……。そうか……」
明らかに安堵したように肩を下げた上官に対して、何を言ったら良いものかわからなかった。いつも以上に落ち着きがない。こちらをじっと見ては、口を開けかけてやめる。今ので三度目である。
人の多い営内では話せないようなことを、話そうとしているのだろうか。そうであるならなぜ先程、奥の間を断ったのか理解に苦しむ。
のっぴきならない俺たちに女将がそつなく代わりの茶を入れてくれながら、俺だけに聞こえるように「お二階ご用意いたしました」と耳打ちした。何年もこの場所で店を構えてきた経験からか、こういった気遣いもできるあたりこの店が女将で持っているという噂はなるほど違いない。
「すまない、借りる」
そう返すと立ち上がり、少尉殿を促した。
「い、行くのか」
「行ってみたいのでしょう?」
「月島は、いいのか」
「何がですか」
「私と、二階へ行くのがだ」
「上官殿のお供をするのが俺の役目です」
「まあ……、そうか、そうだな」
「こちらです」
「……うん」
行きたがっていたように見えたが、少尉殿の足は重い様子がやはり解せない。いざ話すとなると怖くなるほどの話なのだろうか。どれだ、どれのことだ。俺はそっと頭の中の機密事項にしっかりと鍵がかかっていることを確認するのに忙しい。もちろん、そんなことはおくびにも出さないが。
蕎麦を食べて、蕎麦湯を飲んだ。少尉殿はあまり蕎麦湯は得意でないらしく、俺が全部頂いた。
腹の膨れたところで、少尉殿が話してくれるのを待つ。
少尉殿は二階の窓から階下の通りを眺めては、あそこに猫がいる、などと楽しそうにしている。腹が満たされて気分が良さそうだ。ぼつぼつ話をしてくれても良い頃合いである。
「帰営までまだ時間はありますが、あまりゆっくりしていると、少々うるさくなるやもしれません」
「うるさくなる?」
「……ああ、ほら」
締められた襖の奥から、か細い声が漏れ聞こえた。押し殺すようにしているが、規則正しい間隔で聞こえるそれは、生臭い悦びに咽んでいる。
「キエッ……」
「ここは、密会の場所です。当然、昼日中が都合のいいもの同士、逢引きに使うこともあるのです」
「やけに詳しいではないか。さては、お前、やはり誰ぞと来たことがあるのだろう」
キッと睨まれてたじろいだ。俺が叱られる理由がわからない。そういうものだと、教えてやっただけである。言い方が気に入らなかったのだろうか。
「少尉殿のお気に触ったなら申し訳ありません。少尉殿も色々とご経験がおありでしょうに、出過ぎた口を聞きました」
俺が見るに、鯉登少尉は閨事について初心である。
ここに来ることが、少尉殿にとってどんな意味があるのかわからない。行ったことのない場所へ来てみたいという好奇心だと単純に考えていたが、どうやらそれは違っていたらしい。
「笑わんか……」
「はい」
「この店から出たら、今話したことは全部忘れると約束しろ」
「はい、承知いたしました」
「私はな、ここがどういうことをする場所か知っていたのだ」
「そうでしたか」
「だから、お前を誘った」
「は?」
「いや、もういい。私だけが浮かれていたのだ、まるで、逢引きのようだと」
「鯉登少尉殿……」
「ただ、せめて、今、少しだけ、真似事をしてもらいたい。こうして勇気を出したのに、何も戦果が無いのは……、寂しい」
何をいうべきかわからない俺の正座した膝の上で固まっている拳の上に、少尉殿の、厚くあたたかな手のひらが触れた。指の根本だけが剣蛸で固くなっているのがわかった。
「なあ、口吸うてくれ。そいで忘れるから」
「あなたは……」
どうして俺なんだ、いつからそんなことを、聞かなければならないことは山ほどあるのに、喉の奥で引っかかり、ねじれ、何も出ては来なかった。
ただ、触れた指先だけが熱かった。
「……真似事で、いいなら……」
「うん」
遠くで、猫が盛るような声がしたようだったが、しかしそれも少尉殿の頬に触れた瞬間に聞こえなくなった。 心臓が耳のすぐ横で鳴り響いているようだ。
外の喧騒も、隣の呻吟の声も、何もかもが遠くなる。
近づいた少尉殿の首筋から、ほのかに少尉殿の甘酸っぱい体臭が芳った。
部屋に残る蕎麦の出汁の匂い。日に焼けた畳の匂いと混ざり合ったその匂いをおそらく俺は忘れられないだろうと思った。