だいじなもの ネロが最初に違和感を覚えたのは、三日前の昼食の時だった。
ブラッドの様子がおかしい、気がする。
食べ方にいつもの覇気がない。
気のせいだろうか。
<大いなる厄災>の傷で飛ばされて疲れただろうからと、サンドウィッチに挟むベーコンは厚めに切って、野菜もピクルスだけにしておいた。味付けも、ブラッドのはマスタードベースのパンチのあるソースにして、パンも軽くトーストして。好みの味に仕上げたつもりだったが、外したか。
様子が気になって、片付けをしながらちらちらと横目で見ていたが、それからは特段変わった様子もなく、怪訝な顔で「見過ぎだ」と言われた。
ただの考え過ぎかもしれない。
単純に疲れただけ、なんだろう。口に合わなかったんじゃなさそうだし。野菜も、いつもならきちんとバランスを考えて入れるが、今回はピクルスくらいしか入れていない。マスタードを効かせすぎた? いやいやそんな、お子ちゃまじゃあるまいし。
気にはなったが、問い質すほど深刻な事態とも思えず、ネロは仮眠を取るために自室へ向かっていった。
そして、現在。
ネロは、眉間に皺を寄せながら、慣れた手付きで食材を切り分けていた。
あのブラッドが、つまみ食いをしに来ない。いや、別に来てほしいわけじゃないけど。
そして、このところ全く「飯を肉にしろ」と言いに来ない。普段なら、二日に一回、いや一日一回は必ず言いに来るのに。キッチンでも食堂でも、食事の時間以外はほとんど姿を見掛けない。食事の時間も、食べはするが、以前のような勢いはなく、「美味い!」という声も聞かない。
極めつけは、今日の朝食の様子だ。他の連中がとっくに食べ終わった頃にようやく食堂に来て、のろのろと、ただただ作業のように、料理を口へと運んでいた。明らかに様子がおかしい。普段のあいつは絶対に、そういう食べ方をしないのに。
体調が悪いのかと思い、フィガロに診てもらうように再三勧めたが、全く聞く耳を持たなかった。それどころか、急にオズに喧嘩を売りに行って、ぼろぼろになって戻ってきた。体を動かす元気はあるらしい。
「美味くないなら正直に言え」と問い詰めるのも格好が付かないし、何より料理人としてのプライドが許さない。
腹立たしいような、悩ましいような思いを抱えながら、昼食の支度に勤しむ。今日のメインはスパイシーフライドチキン。キッチンには、油の弾けるいい香りが広がっていた。
付け合せの野菜のソテーを作るべくフライパンを振るっていると、リケとミチルが昼食の支度を手伝いにやって来た。レタスを洗って千切る仕事をお願いすると、二人はいそいそと腕まくりをして取り掛かってくれた。
「わあ! 今日はフライドチキンなんですね!」
「美味しそう! ブラッドリーさんも、さっき『いい匂いだな』って言ってました!」
「つまみ食いは許しませんと言っておいたので、大人しく食堂で待っていると思います」
「! そうか、ありがとな」
子供たちの言葉に、思わず笑みが溢れる。なんだ、よかった。
「てめえの料理はもう食わねえ」なんて言われたらどうしよう、と思ってしまった。
気掛かりなことがあると、つい嫌な想像ばかりが膨らんでしまうのは、昔からの癖だった。置いて行かれたらどうしよう、見捨てられたらどうしよう、死んでいたら、どうしよう。そんなことばかり考えて、寝付けなくなった日も、数限りなくあった。もう、あいつのことで振り回されるのはごめんだ。心をすり減らして、削って、吐き出すような日々なんて。やめてくれ。
ふるふると首を振り、澱んだ思考を振り払う。からっと揚がったチキンを取り出し、皿に盛り付ける。
どうか、美味しく食べてくれますように。
しかし、そのささやかな願いは届かなかった。
ブラッドリーはその日以来、食堂に現れなくなった。
***
ブラッドリーは、薄暗い部屋でソファーに深く腰掛け、もう何度目とも知れない溜息をついていた。
傍らのテーブルに載っているロックグラスの氷は、ほとんど溶けかかっている。
味覚を奪われてからというもの、日を追うごとに、いろんなものがどうでもよくなってくる。甘く誘う財宝も、命がひりつく駆け引きも、もぎ取った恩赦も。日増しに己の人生の価値がくすんでいくようで、薄ら寒い気分になってくる。
たかだか味覚を失ったくらいでこんなことになるなんて、夢にも思わなかった。
風邪をこじらせて飯の味が分からなくなるのとは全然違う。まるで舌の細胞が死滅したかのように、何も感じられない。匂いはたしかにあったはずなのに、口の中に運んだ時にはすっかり消え失せている。ぼんやりとした熱さ冷たさ、固さ柔らかさがあるだけ。不味くも美味くもない。何もない。
原因はとっくに分かっていた。
<大いなる厄災>の傷のせいで飛ばされた西の国の酒場で、飲み比べに興じていたら、高揚した魔法使いにジョーク魔法を掛けられた。
結果として、それは、ジョークで済ませるには笑えない事態となった。
最初はその魔法の効果に気付かず、出来の悪い魔法で不発に終わったのだと思っていた。気付いたのは、魔法舎に戻って、ネロの作ったサンドウィッチを食べた瞬間。
最初は、鼻でも詰まったかと思った。だが、風邪のそれとは明らかに異なる感覚に、やられたと気付いた。とはいえ、大した魔力でもない魔法使いの仕業だ。なんとかなるだろうとしばらく様子を見ていたが、どうにも治る気配がなく、しぶしぶ件の酒場に赴いた。運良く例の魔法使いが来店しており、どういうことだと問い詰め、魔法を解く方法を聞き出した。だがそれは、ブラッドリーにとっては実現困難な方法だった。その方法以外にどうにかできないかと試行錯誤したが、どれもこれもうまく行かず、味覚は一向に戻る気配がなく、完全に行き詰まっていた。
ネロが気を遣って、自分の好物ばかりを出してくれていることに、気付かないわけがなかった。だが、そんな気遣いすらもだんだんと重荷になって伸し掛かってきた。
あいつが、どんな顔して飯を作って、どんな顔して差し出して、どんな顔して相手が食うのを見ているのか、よく知っているから。
その顔が失望の色に染まるのを見たくなくて、飯ごと遠ざけた。
その結果、湿っぽくて繊細なあいつが何を思うのか、想像がついてしまうのに。
他の連中が、やれネロと喧嘩したのかだの、だから盗み食いは良くないと言ったのにだの、ごちゃごちゃと言ってくるのを全て無視して、部屋に閉じ籠った。空腹を酔いで誤魔化そうとするが、どんなに高級な酒を呷っても、味がなければ水と変わらない。
己の情けなさに腹が立つ。この期に及んで、己のプライドを捨てられないことにも。
何度目かも分からない溜息をついて、ずるずるとソファーに沈み込む。
すると突然、部屋のドアがドンドンドンと強く叩かれた。
どうせミスラが眠れなくて喧嘩を売りにでも来たのだろう。そう思ったが、ドアの向こうの気配はミスラのものではなかった。
「ネロか……?」
馴染んだ気配。それにしては、ノックの音に圧を感じる。だが、今顔を合わせたところでどうにもしてやれなさそうだったので、無視をする。
ノックの音は数回繰り返され、鳴り止んだ。しかし、気配はドアの前を去る様子がない。仕方なく、ドアまで歩み寄り、ドアノブを回して僅かに開いた。次の瞬間、ガッと音を立てて靴の先がドアの隙間に差し入れられた。乱暴な仕草に思わず顔を上げると、怒っているとも真顔ともつかない、真剣なネロの顔が視界に飛び込んだ。
「ツラ貸せよ」
短く言い切ったネロの勢いに圧倒され、返事ができないでいると、それを了承と取ったのか、ネロはぐいとブラッドリーの腕を掴んだ。そして、ブラッドリーを部屋から引っ張り出し、ずんずんと廊下を突き進んでいく。引っ張られるまま階段を下りて、辿り着いたのは、ネロの部屋だった。
ドアノブを回すのも煩わしいとでも言うように、ネロは魔法でするりとドアを開け、ブラッドリーの手を引いたまま中に入る。そして、椅子を引いてブラッドリーを座らせ、備え付けのキッチンへと向かった。オーブンの中に何かを入れて、手早く温度設定をする傍ら、冷蔵庫からまた何かを出して皿に盛り付けている。ぼんやりと眺めていると、料理が出来上がったのか、テーブルにつかつかと歩み寄り、皿を置いた。そして、魔法で食堂の椅子を一脚召喚し、ブラッドリーの隣に腰掛けた。
俺が飯を食おうとしないから、強硬手段に出たのか。だとすれば、先程の勢いにも頷ける。どうしたものかと考えを巡らせていると、ネロがすっと手を伸ばし、揚げたてのフライドチキンを持ち上げた。そして。
ブラッドリーの目の前で、ネロがフライドチキンにがぶりと食らいついた。
予想だにしない行動に面食らう。俺に食わせるためじゃなかったのか? 自意識過剰だったのかもしれないと、ブラッドリーはなんだか居た堪れない気持ちになった。そんなブラッドリーを他所に、ネロは黙々とフライドチキンを食べ続けている。カリッ、カリッと小気味よい音が響き渡る。あらかた食べ進めたところで、ネロがようやく口を開いた。
「フライドチキン。あんたの一番好きなやつ。もも肉に下味を付けて寝かせて、二度揚げして衣カリッカリにしたやつ」
手に持ったままのフライドチキンに目を落としながら、ネロが話し出す。
「あんたは、スパイシーな味付けが好き。唐辛子系よりも、胡椒とかのパンチがあるのが特に。入れ過ぎなくらいがちょうどいいけど、仕込み中に近寄って来るとくしゃみするからやめとけよ」
ネロの意図が読めず、困惑しつつも、ブラッドリーは静かに耳を傾ける。咀嚼音と、静かな語りが、交代交代で部屋の中に沁み入っていく。
「あと、たまに俺が凝って作る、果物と一緒に漬け込んだまろやかな味付けのも気に入ってる。それ出す時は、がつがつ食うっていうより、一つ一つ味わって食ってくれてる」
骨の周りの肉まで綺麗に食べ尽くし、小皿の上にそっと骨を置く。そして、すっと立ち上がり、またキッチンの方へ歩いていった。テーブルには、まだフライドチキンが数ピース残っている。
次にネロが持ってきたのは、スキレットの中でぐつぐつと音を立てるアヒージョだった。
「俺もあんたも好きなアヒージョ。具は、ベーコンが一番好き。酒が進むよな」
ネロはそう語りながら、千切ったバゲットを浸たし、頃合いを見て口に放り込んだ。ベーコンとマッシュルームを重ねてフォークで刺し、息を軽く吹き掛けて冷ましている。
先程のフライドチキンも、今食べているアヒージョも、無理やり食べるように勧めては来ない。ただ、ブラッドリーの隣に座って、静かに口に運んでいる。一口食べるごとに、どんな味付けで作っているか、ぽつりぽつりと語っている。
再び、ネロが席を立つ。今度はオーブンの蓋に手を掛けている。取り出されたのは、熱々に焼き上がったグラタンだった。
「これ知ったときは意外だなと思ったけど、あんた、グラタンも好きなんだよな。ちょっと塩気を効かせたやつ」
フォークにマカロニを刺し、よく伸びたチーズをたっぷり絡めて、口に運ぶ。クリームの柔らかな香りが食欲を唆る。
「こうして並べてみると、どれも熱々だな。口の中火傷しねえの?」
「……もう慣れた」
いつも通りの口調、いつも通りの雰囲気に流されて、気付いたときには口から言葉が出ていた。もう幾日も、ネロとまともに言葉を交わしていなかったことに、今更気付き、胸の辺りにちくりと痛みが走った。
「ふーん。まあ程々にな」
自分から聞いておきながら、あまり興味がなさそうに返事をするネロに、どこか救われたような気持ちになった。
「俺、あんたの食いっぷりを見てるとさ、作ってよかったなって気になんだよな。いつも」
不意に、ネロが呟いた。
「すっげえ大口開けてさ、豪快に食ってるの見ると気持ちいいよ。でも、綺麗に食ってくれる。フライドチキンなんか、軟骨のところまで綺麗に齧り取って骨だけにしてさ」
なんと答えていいか分からず、ただただネロの言葉を聞いている。ネロの方も、答えを待っている様子はなく、半分ひとり言のようにそっと言葉を紡いでいる。
「豪快だけど、マナーは守って食ってくれる。まあしいて言うなら野菜もちゃんと食ってほしいけどな。でもま、にかっと笑って『美味い!』って言われちゃ、絆されちまうよな」
ふっと言葉を切り、ネロがまっすぐにブラッドリーを見つめる。ブラッドリーも、つられてネロの瞳をじっと見つめる。
「それ、魔法掛けられたんだってな」
それ、と、ネロがブラッドリーの胸の辺りを指差す。
「相手が一番『失いたくない』と思う感覚を奪う魔法。ムルに聞いた時は、何だそれって思ったけど、辻褄が合った」
あんた、すごく大事にしてくれてたんだな。
ネロが困ったように微笑みながら、そう付け足した。
「魔法を解くためには……」
「その感覚を、味覚を『失ってもいい』と、心から思うこと」
「っ、知ってたのか!?」
ネロが目を見開いてこちらを凝視する。
「ああ。けど、できなかった」
「なん、で」
立ち尽くすように、ネロの言葉が途切れる。
なんで、か。
なんでもなにも、できるわけないだろう。なあ、ネロ。
「おまえが、」
「……?」
「おまえが大事にしてるもんを、俺も大事にしてやりたかっただけだ」
「………」
「んで? どういうつもりで連れてきたんだよ? こちとら味分かんねえっつうのに、目の前で美味そうに食いやがって」
わざと大袈裟に溜息をついてみせる。ネロが慌てふためいて、あーだのうーだの、言葉を溢している。しどろもどろな姿に、昔の面影が重なる。
ようやく決心がついたのか、ぐっと顔を上げて、ネロが口を開く。
「あんたが、味分かんなくなっても、さ。俺が覚えてるから」
話し始めると目線がどんどん下がっていくのは、こいつの癖だ。
「あんたがどんな味が好きで、どんな顔して食ってくれるのか、俺がちゃんと覚えてる。俺が何度だって教えてやれる」
遠慮がちな視線とは対照的に、決意を込めた声音で。
「だから、大丈夫」
さながら、相棒のように。
「……って、言いたかったんすけど」
そのまま終わればよかったのに、全くもって格好がつかないこいつを、愛おしく思う。
「ははっ、締まらねえ奴」
「う、うるせえよ!」
べしっ、と肩を叩くネロを横目に、フライドチキンに手を伸ばす。
ネロが隣で身を固くしたのを感じつつ、狐色の衣を纏ったそれにがぶりと食らいつく。
口の中に広がる肉汁と、鼻に抜けるスパイスの香り。噛むたびにじわじわと沁み込む旨み。体中の細胞が賑わい立つ感覚。ああ、やっと。
「美味い!」
***
みんなに心配掛けたんだから、しっかり働いて償えと、ブラッドリーが野菜の皮剥きやら下拵えやらの手伝いをさせられることになったのは、また、別のお話。