王子さま 黄土色の砂煙が舞う砂漠のオアシスファラザードで、ナジーンは暇さえあれば訪れている城下町の視察に訪れていた。
やはり、ナジーンの目があるのとないのでは、治安は大幅に変わるらしく、大魔王自ら雑用とも言えるゴミの片付けや、壁の落書きを消したりなどもされたらしい。
自国で保つべき治安を、そもそも魔界の住人でもなく、しかも魔界の最頂点とも言える大魔王にさせるなど言語道断だ。今思い出しても頭が痛い。
本人は特に気にすることもなく、淡々とこなしたようなので、それもそれで頭が痛い。
今代の大魔王は史上最強と謳われ、長らく魔界を苦しめ続けていた魔瘴の根源である、異界滅神ジャゴヌバさえも討ち果たした強者だ。
歴代の大魔王をくだす光のものでありながら、決して祝福されているとは言い難い生を歩み、安らかに眠りに就くことさえ許されない。
(あんなに小さく、柔らかいのに……)
腕の中に残った柔らかな温もりを思い出し、ナジーンは己の手を見つめた。
簡単に覆えるくらい小さな少女。ナジーンの腕の中で甘やかな声を聞かせてくれる、守るべき少女。
小さな少女はナジーンにとって甘い毒花であり、愛おしい無垢な娘だ。ナジーンの色に染め上げて、そのまま囲ってしまいたくなる。
そんな少女が、ナジーンに組み敷かれて甘い声を上げていた少女が、最強の大魔王。
どこで繋がるだろう。誰が思うだろう。確実に歴史に偉大な名を残すであろう大魔王が、小さくて可愛らしい少女で、ナジーンを受け入れるのでさえ、小さなからだで必死で、精一杯の存在なのだと。
彼女のことを考えると、自然と緩んでしまう目元を引き締めながら、ナジーンはかつかつと靴音を鳴らして、城下町の人間に声をかけていく。
「調子はどうだろうか?」
「そりゃもうバッチリですよ! ユシュカさまもナジーンどのも帰ってきてくれたし!」
にこにこ笑顔のシャカルが楽しそうに敬礼をしてみせる。シャカルは広場の警備と見聞きした情報をこちらに伝えてくる役割を担っていた。
元々は不良で、ナジーンとユシュカに諭されて現在の役に着いている。
「最近変わったことはあったか?」
「あっそう言えば、レディウルフのお使いで大魔王さまに例の石を渡しました!」
槍の装飾に使われていたヤバい石、魔瘴石。目ざとくナジーンが見つけて、それを封印したりしてくれているレディウルフことマリーンへと回しているものだ。
「そのことを愚痴ったら大魔王さまが「シャカルたちが無事でよかった」って言ったんですよね……。その時の表情が、なんていうか、凄くかわ……いえ、ナンデモナイデス」
ナジーンが纏う空気がいきなりずしと重くなったことで察したのであろうシャカルは、賢明にも口を閉ざした。
「あっでも、その後「絶対に守るよ」って言われた時は痺れましたね。かっこよかったなぁ」
若干頬を染めるシャカルに、ナジーンはいいようもない気持ちになった。また新たに人タラシの犠牲者が生まれているらしい。
溜息を吐きたい気持ちになりながら、ナジーンはその後シャカルからいくつかの情報を聞いてから広場を後にした。
「シュバリク、首尾はどうだ?」
「ナジーンどの! 最近は街の治安も危うかったが、現在は大魔王どのの活躍によりより平和になりましたぞ!」
続いてナジーンが声をかけたのはスライムナイトのシュバリクだった。シュバリクは主に裏通りへの入口付近の警戒をしている。
「水路に散らばっていた壊れた荷車を片付けてくれて、空き店舗のゴミを処理して、集合住宅地の壁の落書きまで消すという働きぶり。大魔王どのが率先してやってくれる姿勢を見せたことで、街の住人が大魔王どのにさせるわけにはいかない、自分たちでやるべきだという気になってくれたようなのだ」
興奮気味に語られることに、ナジーンは頭を抱えた。報告で聞いていたが改めて聞くと大魔王に何をやらせているんだ我が国はと思えてくる。
ちょっとナジーンからの締めつけの目が緩んだだけで、そういった問題が発生したというのに、それを根本から解決してみせるとは……頭が上がらなくなりそうだ。
「礼を言えば「私がしたことなんてほんの少し。シュバリクがいつも巡回してくれてるからファラザードは平和なんだよ。いつもありがとうね」とのお言葉を頂き、感激した次第だ!」
またここでも人タラシの話を聞いて、ナジーンは抱えた頭の痛みが増したのを感じた。
なんでいいことをしているのに頭痛を発生させるのか、あの自由人は何をしでかしてくれているのか。
その後、カナトへの賞賛の言葉をいくつかと、治安に関する話をして、ナジーンは今度は集合住宅地の方へと向かった。
「セテュラ、オリフェ、今日もいい曲とダンスだな」
踊りを踊り、リュートを奏でるセテュラとオリフェに話しかけると、オリフェは演奏の手を止め、セテュラは楽しそうにナジーンに駆け寄った。
「何か変わったことでもあったのか?」
普段はウインクを飛ばすくらいしかしないセテュラの興奮した様子に、ナジーンはきょとりと左眼を瞬く。
「ナジーンさま! 大魔王さまって凄いんだよ!」
「この前私たちの芸にケチをつける輩がいてね、そこに大魔王さまが通りがかって止めてくれたんだ。凄くかっこよかったんだから」
そういえばファラザード軍からそういった話が上がっていたような記憶がある。あれを捕縛したのはカナトだったのか。
「それでね、足を怪我した私に「女の子に傷をつけるなんて」って言いながら回復魔法をかけてくれてね」
「私も、リュートの弦が切れたのですけど、大魔王さまもリュートを演奏なさるみたいでスペアの弦をくれたんです」
「私たちにね「今日はもう休んで。私が後はやるから」って言って、騒ぎに集まった人たちにね、凄い歌声とリュートの演奏を披露してくれたんだよ!」
歌われた曲に心当たりはないが、その旋律に観客みんなが大盛り上がりだったらしい。
カナトは何曲か曲を披露し、人々が踊り出す曲、涙を流す曲、聞き入る曲と多種多様なものを奏でたらしい。
しかも、それに対するチップを丸々セテュラとオリフェに渡して「これで美味しいものでも食べて」なんて言ったらしい。どこまで太っ腹なのか。
その後、カナトの演奏に対する惚気を聞いて、ナジーンはふらふらと今度は酒場へと向かった。
「あらぁ、ナジーンさま、いらっしゃい」
情報通をうたうララファが「何か飲んでいきます?」と注文を取りに来たのを断って、変わったことはないかを尋ねる。酒場は隣が問題児の経営する黄昏呪術店なだけあって、なかなかに厄介事が多い。現に、ナジーンの近くには大きくひんまがった手すりがある。
「この前、酔っ払いたちがちょーっと羽目を外してね」
それにララファは苦笑をして、ナジーンの向かいに座った。
「出禁を叫ぼうとする前に私も突き飛ばされちゃって、でも転ぶ前に大魔王さまが受け止めてくれたの」
ここでもカナトの名前を聞いて、一体彼女は何をしているんだとナジーンは本気で疑問に思った。
「そこからあっという間よ。暴れる荒くれ者たちを締め上げて「レディは大事に扱うものだよ」って」
ここまでの話を総合するに、カナトが女の子にはやたらと優しいことだけは分かった。ナジーンとしてはそこに自分もカウントして欲しいと本気で思う。
如何せんカナトが強すぎて、守りようがないのだ。逆にこっちが守られるという、何とも言えない名折れである。
「あの早業といい、台詞といい痺れたわぁ。お礼に奢らせてって言ったら「レディを助けるのは当然のことだから」って」
きゃーと言っているララファに遠い目をしつつ、ナジーンはここから自分の恋人の惚気話を聞くという地獄の時間を過ごすこととなった。
やっと解放されたナジーンが最後に向かったのは、集合住宅地にいるミーハのところだった。
ミーハは孤児で、ユシュカとナジーンが気にかけている子である。
「あっナジーンさま!」
ミーハはナジーンを見つけると、一目散に駆けてきて抱きついた。とても可愛い。
いつか、自分にもこんな可愛い娘ができればいいと心から思った。
「元気にしていたか?」
「うん! ミーハとてもいい子にしていたよ!」
撫でて撫でてとせがむミーハの頭を撫でてやりながら、ナジーンは最近の様子を訊ねる。
すると、ミーハの口からまたしてもカナトの名前が上がった。
「この前、大魔王さまがね、壁の落書きを消してくれたの。みんながありがとうって言っててね、ミーハも壁が綺麗になるのが嬉しかったから、ありがとうって言いに行ったの。そしたらね、大魔王さまもミーハをヨシヨシしてくれてね、ミーハといっぱい遊んでくれたんだ!」
嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねるミーハに微笑ましい気持ちになりながら、ナジーンはカナトも子供が苦手ではないことを知って安堵する。彼女は優しく強い母親になってくれるだろう。
「それでね、ミーハとおままごとをしてくれた大魔王さまがね、本当に王子さまみたいでかっこよかったんだ〜」
どうやらミーハが姫役で、カナトが王子役のおままごとをしたらしい。
ここまで散々人をたらしこんで王子さまみたいだのかっこよかっただのを聞いたからか、ナジーンは少しだけミーハに嫉妬してしまった。
「ミーハ、大魔王さまのお嫁さんになるって言ったらね、大魔王さまちょっと困ったような顔をして「ごめんね」って言ったんだ。大魔王さまはね、もう好きな人がいるんだって」
そして、その嫉妬心が一気に吹っ飛ぶ情報に、ナジーンは思わず変な声を上げてむせた。
「それでね「ミーハはもっと素敵な人に出会えるよ」って、ミーハをヨシヨシしてくれたの」
そんなナジーンの様子を気にせず、ミーハは実に楽しそうに飛び跳ねた。
ナジーンはその後、カナトがいかに王子でかっこよかったかの話を延々と聞いて、ぐったりとした状態でファラザード城に帰城した。
普段よりも数段疲労しているナジーンに、執政官たちは眉尻を下げて困った表情をし、早く休むように進言してくれた。
その進言に従い、ナジーンが自室でくつろいでいると、コンコンとノックの音が響く。
「開いている」
そう声をかければ、今日散々話に聞いたカナトがひょっこりと顔を覗かせた。
「なんかナジーンさんが凄くお疲れって聞いたんで」
「まあ、散々王子だのカッコイイだのの話を聞いたら疲れてしまってな……」
「? ナジーンさんは王子さまでカッコイイじゃないですか」
きょとりと紅い瞳を瞬かせながら、カナトがのんびりとナジーンに近寄って、勝手知ったるとばかりにからだを寄せてとなりに座った。
「確かに私は王子だったが、今は国も滅びたし、片目だって失っている」
眼帯の上から抉り取られた右眼を押さえると、カナトはその手を外して眼帯の紐に手をかけた。
されるがままになっていると、ナジーンの瞼に軽い口付けが贈られる。カナトはナジーンの右眼に口付けをよくしていたと、ふと思い出した。
「ナジーンさんがネクロデアの王子でなかったとしても、ナジーンさんは王子さまですよ」
にっこり笑いながら、カナトはナジーンの頬を両手で包んで鼻の頭に口付ける。
「ナジーンさんは、私の王子さまなんですから……んむっ」
とんでもない口説き文句ばかり飛び出す口を、ナジーンは物理的に塞ぎにかかった。こんなにも甘い言葉ばかり紡がれて、嬉しくならない方がおかしい。
蕩けた甘い瞳が、ナジーンだけをうつして、小さな唇がナジーンだけが特別なのだと言葉を紡ぐ。
「ナジーン、さん」
息の上がったカナトが、ナジーンの首に手を回して耳元でこぼした言葉をナジーンは決して裏切らないだろう。
―――私をナジーンさんのお姫さましてください。