かわいい「ふふ、可愛い」
ファラザードの片隅で、黒髪の少女は柔らかな笑顔を浮かべていた。
小柄な彼女は屈んでいるので、その姿は子どもが地面に落書きをしたり、虫を観察するさまによく似ていたかもしれない。
そんな彼女の顔をほころばせているのは、もふもふとした可愛い生き物だ。
彼女の従姉がこよなく愛する生き物、猫。それは魔界であっても変わらず可愛らしいものである。
魔界の猫はアストルティアのものとも違って言葉を話したりもするが、総じて気高く可愛らしいものに他ならない。
たまたま見かけた猫は人懐っこく、飼われているのか毛並みもふわふわだ。ごろごろと機嫌よく喉を鳴らして、もっと撫でろと力強く自分から頭を押し付けてくる。
くりくりと黒目がちな瞳で少女を見上げては可愛らしい声で甘えるように鳴きもした。
「…………カナト殿……?」
お腹を見せてもっともっと撫でろとアピールしていた猫を思う存分モフっていると、不意に背後から低い声が少女の名前を呼んだ。
猫はひっくり返ったままピタリとかたまり、カナトと呼ばれた少女も身をかためている。
「猫か」
呟かれた声に立ち上がろうとしたカナトの肩を押して、来訪者は同じように屈んだ。
大きくて無骨な手を猫の顔付近にやると、猫はその手をすんすんと嗅いで、顔を擦り付け始めた。どうやら受け入れたようだ。
来訪者は猫の小さな顎を撫でてやり、猫はご満悦そうに目を眇める。カナトは背の部分を何度も何度も撫でてやった。
猫によって差はあるが、大抵の猫が触られることを許すのが背中の部分だ。腹や尻尾を嫌がる子は多い。
「可愛いな」
滑らかな毛皮の感触を楽しんでいると、穏やかな声が耳を撫でた。
もちろん猫が可愛いのだろうが、少しイタズラ心が沸いた。
「私がですか?」
「もちろんだ」
だというのに、アッサリと言いきられてカナトは思わず弾かれたように来訪者、ナジーンを見上げた。
穏やかな紅い瞳が、驚きに目を見開くカナトを映している。
大きな手があげられたと思ったら、その手はカナトの頭におかれて優しく往復し始めた。
「な、ナジーンさん?」
「可愛いものは可愛がるのが当たり前だろう?」
手を離された猫を見遣れば、くわりとマイペースに欠伸をしていた。その後地面に頭を預けて眠そうに目を閉じては少しだけ開けるのを繰り返している。
ナジーンの手のひらは大きくて、カナトの小さな頭を簡単に包み込んでしまえる。撫でると言っても動かす範囲はそれほど広くはなく、その手は長い黒髪をもてあそぶ方向へと変わっていた。
「わ、私子どもじゃ……」
可愛がると言っても子どもを愛でるようなものだ。
確かにカナトは幼いが、これでも歴戦の英傑である。ナジーンよりも強いのだ、たぶん。
少し拗ねたように文句を言うと、髪を弄んでいた手のひらがそのままカナトの後頭部をすくいあげた。
ビックリしているうちに軽く触れたものは何なのか。
「これでどうだろう」
「…………どう、とは」
震える声で尋ねれば、ナジーンのただただ優しい瞳とぶつかる。真摯な光を灯す瞳は、カナトだけに真っ直ぐ注がれていた。
「私がきみをどう言った意味で可愛がりたいのか……ご理解いただけただろうか?」
艶を含んだ声に、カナトの腰は思わず砕けそうになった。こんなナンパな口説き文句を言うような男ではない、と思っていたのに。
メタルスライムよりもおかたいと表現されるナジーンが、甘い台詞を唇に載せる。
カッとカナトの顔が熱くなった。鏡を見たら真っ赤になっているのだろうが、如何せんナジーンの紅い瞳に染め上げられた自分しか見ることは出来ない。
「ご理解いただけたようで何よりだ」
蕩けた声と共に再び後頭部に力が込められたのを感じて、カナトはぎゅうと目をつぶった。
なお、ふたりは付き合っていない。