慈雨の空 空が泣いている。
今年も五月雨の季節が巡ってきたようだ。那田蜘蛛山に小さな紫陽花が咲き、糸のような細く冷たい雨が降り続く。
僕は窓からそれを眺めていた。濡れて色濃くなった山の景色はいつもと変わることなく目の前に在る。
この家には日付や時刻を示すものは何もない。月の満ち欠けを追い、移ろいゆく花や葉の変化から四季を感じ取る。それで十分だった。何も変わり映えのない日々を送る僕たち家族にとって、日付も時刻もたいした意味をなさない。
とりわけ雨模様が続くこの時期は家に籠もりがちだ。僕は退屈をしのぐため、適当に家族をつかまえては話し相手になることを強いていた。
僕は視線を戻し、正面に座る母さんに声をかけた。
「ねえ、何か面白い話をしてよ」
母さんは露骨に怯えると、俯いたまま押し黙った。僕の命令は絶対だ。期待に応えられない者は鋼より硬い糸で締め付けられ血を流しながら刻まれる。そう、役に立たない家族など必要ない。
「どうして黙ってるの? 話をしてと言ったんだけど聞こえなかった?」
僕は指先から糸を出す。鞭のように糸がしなる。母さんがその音を聞き、慌てて顔をあげた。
「面白い話かどうかわからないけど……時々ふと知らない女の人の姿が頭に浮かぶことがあって」
「どんな人?」
興味がわいた。僕は糸を引っ込めて続きを促した。
「顔ははっきりわからないの。ただ、優しい目で私を見ていることはわかる。何かを語りかけてくるけど声は聞こえない。人間だった頃の記憶なのかしら……もしそうだとしたら一体誰なのかしら」
母さんの瞳が寂しげに揺れた。懸命に記憶の糸を手繰り寄せようとしているのか、それ以上語ろうとはしなかった。
僕はその人が誰なのかを知っている。だが母さんにそれを教えることはない。鬼は人間を食ったぶんだけ強くなり、強くなるほど人間だった頃の記憶を忘れていく。僕もその一人だ。
知らないままのほうがいいこともある。
「まあまあ面白い話だね」
感想を述べると彼女はほっとしたのか強張った頬をわずかに緩めた。
母さんは家族に加わる前、ほんの小さな子供の鬼だった。幼くて弱くて頼りなくて。鬼狩りに追われて山に迷い込み、右往左往しているところを助けてやった。家族として迎え入れてやろうと思っていたのに「お母ちゃんに会いたい」と泣いてばかりいた。
僕は興醒めした。
「せっかく助けてやったのに。そんなに親が恋しいなら家に帰れば? どうせすぐ鬼狩りに見つかって斬られるだろうけど」
苛立ちながらそう告げると彼女は全身を震わせ声を振り絞った。
「家族はもういないの。たったひとりの家族だったお母ちゃんは私が食べてしまったから……私が鬼になったせいでお母ちゃんは死んだ」
唇をかみしめる姿を見て悟った。この娘は親を殺して食ったことを悔いている。鬼になったばかりだと人間だった頃の記憶は鮮明に残っているものだ。
不思議と同情のような共感が芽生え、彼女を慰めたくなった。
「大丈夫だよ。いずれ全部忘れるから。会いたいと願う今の気持ちもね」
「嫌だ。忘れたくないよ」
涙を流しながら首を横に振る彼女に僕は言った。
「それなら君が僕の〝お母ちゃん〟になればいい。母親の役割を毎日全うしていれば月日が経っても頭の片隅くらいには残るんじゃない?」
幼い女の鬼は目を輝かせ、深く考えないまま出された案を受け入れた。
こうして彼女は僕の〝母さん〟になった。幼女の姿を捨て、記憶をなくし、今ではただただ僕に仕えるだけの傀儡だが。
「雨が強くなってきたわね。今夜は冷えるのかしら。累も風邪を引かないようにしないと」
窓の外を見つめて母さんが呟いた。まるで母親のような言い草。もちろんそれは僕が仕向けたことだが、彼女のこうした振る舞いに母性を感じる時がある。
「風邪なんか引くわけないだろ。鬼なんだから」
あきれた口調で反論すると彼女は「それもそうね」と相槌を打って微笑んだ。
母さんは自分の親を殺した事実をすっかり忘れている。それなのにこうやって母親らしく自然に振る舞えるのは愛されて育った証とも言えた。
そして僕もまた、彼女の中に宿る母性に懐かしさを覚えてたまらなくなる。天から降り注ぐ慈雨のように温かな何か。優しくて懐かしい誰かの手。彼女の母性に触れ続けていたら封印していた忌々しい記憶が蘇ってしまいそうで怖い。
だから僕はわざと冷たく突き放す。家族を虐げることで過去を遠ざけ、自分を正当化して生きるしかないのは思い出すのが怖いからだ。辛くて悲しい出来事は誰だって振り返りたくない。
『累は何がしたいの?』
いつだったか母さんにそう訊かれたことがある。僕は『わからない』と答えた。本当にわからなかったから。ひっそりと静かに暮らしたい。なるべく心を乱されたくない。それだけだ。
彼女は弱い鬼のくせに時々核心をつく。家族ごっこを始めた動機はとうに忘れてしまったが、母さんは僕の心に潜む矛盾に気づいているのかもしれない。無自覚な隙を見られてもなんとなく許せるのは彼女が僕の〝母〟だからだ。
「僕、母さんの息子になれて良かったよ」
柄にもなくそんな台詞を口にしていた。彼女は一瞬目を丸くしたが、すぐに柔和な笑みを浮かべてこう答えた。
「私もあなたの母になれて良かった。生まれてきてくれてありがとう」
無性に泣きたくなった。
でも家族の前で涙なんて見せたくない。僕は顔を背けた。
「別に褒めたわけじゃないからね。さっさと夕飯の支度して」
「わかったわ。父さんと兄さんも呼んでくるわね」
母さんの声音はいつになく弾んでいた。着物の裾を直して立ち上がると、空っぽの器を用意するために部屋から出ていった。
会話だけ聞いていれば穏やかな家族の日常そのものだ。後に待つのは団欒とは名ばかりの茶番なのに。
僕は短く溜息をつく。暴力で支配している自覚がないわけではない。
だが時折こうして親子のような言葉を交わすと錯覚してしまうのだ。僕たちの絆はもしかしたら本物なのではないかと。誰にも断ち切ることなどできないのではないかと。
──生まれてきてくれてありがとう、か。
その言葉を何度も反芻しながら、闇に包まれていく外の雨を眺めた。
母さんは過去にその言葉を受け取ったことがあるのだろう。潜在的な記憶は普段顔を出さないだけで消えてなくなったりはしない。人間だった頃の日々はもう思い出せないが、おそらく僕にも同じ言葉を向けてくれる存在はいたのだ。
生まれた日の空はどんな色をしていたのだろう。赤かったのか、青かったのか、それとも黒かったのか。
いつの間にか月が浮かんでいる。今夜は下弦の月だ。雨でも降らなければ母さんの話を聞くこともなかった。五月雨は鬱陶しいと感じていたが、案外悪くないのかもしれない。雨音に耳を澄ませながらそう思った。
空はまだ、泣いている。
了