愛と勇気 こんなズルいやり方でキスしたって満たされるはずがない。僕は寸前までKKに近付けていた顔を上げた。
ベッドの上で深い寝息を立てているKKは何も気付いた様子もなく、尚もそのまま微動だにせず眠っている。一方僕は震える呼吸を整えるので精一杯。早鐘を打つ心臓が全身に熱い血液を送るのを感じながら罪悪感に唇を噛み締めた。
昔麻里の読んでいた少女漫画で「いつから好きなの?」と聞かれた男の子が「気がついたら」と答える場面があった。まだまともに恋もしたことのなかった僕は、気がついたらだなんて自分のことなのに分からないものなのかと首を捻った記憶がある。
気がついたら好きだった。自分のことなのにいつから好きかだなんて分からなかった。
名前を呼ばれるのが嬉しかった。
褒められるのが嬉しかった。
触れる距離が嬉しかった。
いつしか僕だけにその黒色の瞳が向けられることを望んでいることを自覚したときには遅かった。確かな肉欲を伴うそれは親愛や友愛なんて生優しいものじゃない。その身体を暴いて僕のものだと刻みこむことを願って初めて、KKのことが好きだと気付いた。
傍らで眠るKKの口から吐息とも呻きともとれない声が漏れる。上下する喉仏と僅かに開いた唇に、僕は生唾を呑んだ。無理に視線を逸らして目を瞑る。
KKは僕の大切な相棒だ。その関係を壊す勇気なんて僕は持ち合わせていなかった。
* * *
踏みつけた水溜りが跳ねる。息を吸い込むたびに冷たい空気が肺を刺したが、脚を止める余裕はなかった。
油断していたつもりはない。現にいつも通りKKとともにマレビトたちを片付けて今日の依頼を終えたはずだった。緊張の糸が切れたほんの数秒、KKすら欺いて一瞬のうちにそいつは現れた。顔の抉れた黒い口裂けは、KKが僕の名前を呼ぶ隙も与えずに手に持った大鋏を僕へ向けた。
全身に衝撃が走る。最初、斬られたのだと思った。だけど痛みが走ったのは、口裂の狙っていた首ではなく背中。同時に、降っていた雨とは違う生暖かい液体が勢いよくかかった。
マレビトの攻撃が影響を及ぼすのは精神だ。肉体を直接傷つけたことなんて一度もなかった。
KKの身体が音を立てて地面に倒れ込む。あの日、事故に巻き込まれた時と同じように世界がスローモーションになって無音と化した。
「KK!」
KKが僕を庇ったのだと悟ようやく悟る。だが遅かった。黒い口裂は僕の叫び声など聞こえていないかのように再びKKへと鋏を構える。
無我夢中だった。どうやってここまで来れたのか記憶もあやふやだ。KKを肩に担いでとにかくがむしゃらに走った。どこまで行けば逃げ仰るのかも分からない。あの身の毛もよだつ気配が消え去るまで、雨の中を文字通り死に物狂いで駆け抜けた。
入り組んだ路地裏に入った頃にはあれほど降っていた雨も止んでいた。ひとまずの身の安全は確保できただろうと判断すると、安堵に全身の力が一気に抜けて担いでいたKKと共に崩れ落ちる。
「KK、もう少しの辛抱だから」
ボディバッグからスマホを取り出しながら絶え絶えに言う。だけどKKから返事はない。足元にKKの身体を巡っていたはずの赤い血溜まりが広がっていく。
「KK……?」
考えれば分かることだ。これだけの出血量、本来ならあの時すぐに応急処置のひとつでもしなければならなかった。あの雨の中何もせず、あまつさえこれだけ乱暴に扱えばどうなるかなんて明白だ。
「KK!」
スマホを放り投げてうつ伏せになったKKの身体を返す。黒い瞳は僕を映さず虚ろを見ていた。口は薄く開いたまま、息も吐き出さない。
頭が白くなる。
嘘だ。まだ手はある。何をすればいい。KKが僕を1人にするはずがない。いやだ。どうしてKKが。せっかく取り戻した命だろう。僕のせいだ。
一気に巡った思考を振り払い、教習所で受けた応急救護の記憶を呼び起こす。脈の確認はできなかった。この状況では答えを否応なしに突き付けられているのも同然なのに、それを指で確かめてしまうともう何もできそうになかった。
鳩尾に両手を揃える。まっすぐ押す手を肋骨が邪魔をした。2度目はもっと体重をかけた。骨の折れる感触が直に伝わる。だけど止めることはできなかった。
教習所で教わった通りアンパンマンの歌を口ずさむ。知らずその声は大きくなった。生きることを謳う歌詞が反響する。汗と涙で前は見えない。何度も圧迫して痺れた手を無理矢理動かし、KKの顎を上げて鼻を塞いだ。
口の中に鉄の味が広がる。息を吹き込むと黒いタクティカルジャケットが僅かに持ち上がった。
「KK、戻ってこい! そこに居るんだろ!?」
絶叫だった。初めて会った時に霊体で動いていたKKがこの様子を見ていないはずがないと思った。まだ肉体もここにある。今なら戻れるはずだ。
折った身体を起こして、また胸を圧迫する。アンパンマンの歌は1から歌いなおした。リズムに合わせて押すたびに、KKの身体が揺れた。
これだけ肋骨を折ったのだから、戻ってきたらしばらく入院生活が続くだろう。タバコが吸えないだのお酒が飲めないだのメシがまずいだのと文句を言うに決まっている。しばらく禁煙禁酒を続ければ今より健康になるかもしれない。退院したら目一杯好きなだけ美味しいものを作ってやる。溜まっている報告書だって僕が全部終わらせる。一生アンタの一番の相棒でいる。アンタの傍に居られるなら何だってする。
だからまた、僕の名前を呼んでくれないか。
「僕を置いていくな! 目を開けろよ、KK!」
黒い瞳は虚空を映したままだ。その口から「暁人」と紡がれることは、もうなかった。