果てまで追いかけっこ「面堂さん、さっきの授業で分からないところがあるんだけど」
と、三人連れ立ってやってきた女生徒はすでに合服を着ていた。そういったささやかな変化から季節の変わり目を感じる頃合いだった。持っていた本を閉じ、僅かに視線を上げる。丁寧に使い込まれた教科書とノートを小脇に小首を傾げる彼女らは、皆一様に面堂を見つめていた。
「やあやあ、どこでしょうか。ぼくに分かることなら何でもお答えしますよ」
頼られるのは吝かではないので、素直に嬉しかった。教師に聞けば良いのにだのなんだと男子生徒の僻み声が漏れ聞こえてきたが、面堂に言わせれば負け犬の遠吠えだった。これまで面堂は、努力を怠ったことがない。天賦の才に胡坐をかかずに愚直に勉学や訓練に取り組んできた自負があるのだ。頼られるのもそれに応えるのも至極当然の話。なお、女性に限るが。
「やっぱり面堂さんは頼りになるわ。えっと、ここなんだけど…」
「ああ、ここですか。この問題はこの公式を使うと解けますよ」
ほらこうやって。わあ、すごい。机に広げた教科書の問題をノートに書き写し、公式を交えながら解きほどいていると、何やら廊下の方から騒がしい声が聞こえた。
「なにかしら」
「騒々しいわね」
面堂の説明に感心していた女生徒たちが、廊下を眺めたあとに目配せをする。また諸星くんかしら、と呆れたように目を細めるのを面堂は見逃さない。それは、出来の悪い弟を見るような面差しだった。
「きっとそうね。あ、見て、また女の子を追っかけてる」
「懲りないわね、ほんっとに」
ラムもなんで諸星くんに肩入れするのかしら。馬鹿にするというよりかは、心底不思議がっている口ぶりだった。それには面堂もおおいに同感だったので、全くです、と相槌を打つ。
「根っからの浮気者で不真面目でいい加減。見境なく女性を追い掛けるあの軽薄さ。ほんと見下げ果てたやつだ。僕はあの性根が心底気に食わない。ラムさんも早く愛想を尽かすべきなのに…」
僕が成敗してやろうか。問題の解き方を教えているという状況をしばし忘れて、堪らず腰に携えてある日本刀の鞘を握る。もう片方の手で持っていたペンは、指圧で折れてしまいそうだった。
「面堂さん、落ち着いて」
「ええ、ぼくだって、そうしたい」
冷静を保つため、僅かに震える芯の先を眺めていると、女生徒が「あの」と言った。
「…なんでしょう?」
「いえ、あの、的外れだったら申し訳ないんだけど、面堂さんってあれよね、ずっと思ってたんだけど…」
「あれ、とは?」
含みのある言い方をされては、気にならない方がおかしい。呼ばれるがままに視線を上げると、無垢な瞳と視線がかち合った。軽く目を眇めてから、前髪を払う。
ぼくがなんです?
と聞くよりも前に、女生徒が口を開いた。ずっと思ってたんだけど、ともう一度同じことを言って、それから――。
「――面堂さんって、実は誰よりも、諸星くんファーストよね」
予想だにしないことを言う。
「――は?」
と漏れた息の情けないこと。言い返す言葉も見つからず、しばし放心した。ぼくが、誰を優先してるって? あまりにも聞き捨てならない。とはいえ予想外の展開ゆえに理解が追い付かず、言い返すことも出来なかった。冷静にならなければと、動揺がバレない程度に深呼吸をする。
「………馬鹿な冗談はやめてください」
怒りと焦りが綯い交ぜになったような切羽詰まった声が出た。廊下ではあたるのいかにも呑気な声が響いていて、面堂の心を逆なでした。今にも追い掛けたくなる気持ちを必死に抑える。
「誰が、あんなやつを…」
剣呑な態度が声にも出ていたのだろう、発端の女生徒が困惑した表情で眉を下げた。
「…気に障ったならごめんなさい」
「…いや、あなたがそこまで気に病む必要はない」
そこで話が終わるかと思われたが、「実は私もそう思ってたわ」と隣にいる生徒が言い出し、もう一人が「あら、あなたも?」なんて同調し出すから話が余計にややこしくなった。しまいには「面堂さんは諸星くんに構い過ぎよ」と説教めいたことを言われて呆気に取られる。
「僕がいつ諸星なんぞを構っているというんです」
「いつも、よ」
面堂さんが構うから諸星くんも逃げ回るんじゃないの。などと言われては、さすがにかっとなった。心底うんざりした気分にもなる。そこまで言われれば面堂だって考えがあった。
「…皆さんのお気持ちは、よおく分かりました」
「私たちのお気持ち?」
「ええ。いくら相手が悪名高き諸星といえども、やつを成敗する時間すらも勿体ない。この時間をもっと有効活用すべきでした。たとえばそう、あなたたちのように綺麗な女生徒たちとの触れ合いの時間に…」
「…なんだか、私たちが言っていることと少しずれている気がするけれど。面堂さんが納得したのなら良いわ」
それでどうするの。内緒話をするかのように声色を落とした女生徒が聞いて寄越す。
「そんなの、決まってるじゃないですか。今後一切、諸星の行動、言動に対してぼくは一切関与しない」
ふんと息を巻いて腕組みをすると、女生徒たちは三人揃って同じ反応、「そんなこと出来るのかしら」と目を瞬かせた。
あっという間にホームルームが終わり、帰り支度を整えていると、後ろの席の方であたるがしのぶにちょっかいを掛けていた。しのぶが本気で嫌がっているかどうか本当のところは分からなかったが、賢さと強かさを持ち合わせている彼女だからこそ、あえて面堂が間に入らなくても良いだろうと思った。案の定、面堂が教室を出ようとしたタイミングでしのぶが放り投げた机があたるの頭を直撃する。当然の報いだ。そのまま教室の隅まで吹っ飛ばされるのを見届けてから教室を出た。
「面堂さん、さようなら」
「あら、面堂さんもうお帰り?」
「また明日ね面堂さん」
すれ違う女生徒たちに挨拶を返し、生徒玄関へ向かう。折り目正しさを心掛けつつ会釈を繰り返していると、背中から大仰な足音が聞こえてきた。
「待つっちゃダーリン!」
「うっさい! おれの勝手じゃ!」
振り向かずとも誰がいるかは明白。大きな足音がだんだんと近付いてきては、面堂のすぐ脇をあたるが追い越していく。その際、わざと肩をどんと押されたので身構えていなかった面堂は簡単によろけた。
「………おのれ諸星」
「あれ? ぶつかっちゃった? そんなところで、ぼ~っとつっ立っとる方が悪い」
つくづく生意気な言い方をする。すかさず刀に手を掛けたが、ここで腹を立てては女生徒に指摘された通りになってしまう。深く息を吸って、ゆっくりと吐く。まるで精神統一でもするかのように落ち着けと自分に言い聞かせた。諸星なんか知らない諸星なんか知らない、と。
あたるのやることにいちいち怒っては首を突っ込んで、神経がすり減ったり心乱されたり、何よりもどこか満たされなくて切ない気持ちになるのは面堂だってこりごりだった。追い掛けても追い掛けてもするりと逃げていく。そのくせ自分が構って欲しいときは、さりげなく寄ってくるんだ。まるで気ままな猫みたいに。
玄関には二年四組の生徒がいて、面堂を見るなり「お前ひとりか」などと言うので腹が立った。
「ああ、見ての通りぼくひとりだが、何か?」
「…いや、ちょっと凄むなよ。ここに来る前にあたるがちょろちょろ走り回ってたからよ。てっきりラムちゃんかお前が追っかけてんのかと思ってさ」
どいつもこいつも、セット売りみたいに言いやがって。よく分からない感情でいっぱいになり、心臓が軋んだ。
「ふん。あいにくぼくは、諸星なんぞを追い掛けるほど暇じゃないんでね」
「なーに言っとる。いっつも追いかけとるくせに」
「それも、今日で終わりだ」
「あ、そ。ほんとに出来るのかねぇ」
訝しげな声には返事をせず、校庭に向かう。校舎を出るとオレンジ色の陽光が地面を照らしていた。じきに日が暮れる。すぐ脇の木陰ではあたるがこそこそと隠れていて、少し視線を上げるとラムが空を飛び回っていた。ラムにあたるの居場所を教えるのも空しいし報われないし悲しい。
あたるみたいな馬鹿は放っておいて早く帰ろう。そう思った瞬間に、おいと呼ばれた。案の定、声の主はあたるだった。
「おい、面堂。今日だけおれも送迎車に乗せてくれんか」
反射的に目を合わせてしまった。それはそれは図々しい願いを悪びれもせずに言ってのけるあたるは、走り回った影響か息が弾んでいる。
「………貴様な」
いつの間にか唇を噛み締めていた。喉奥でひゅうと息が漏れる音がする。ぼくの名前は「おい」じゃない、と言おうとしてやめた。なんでぼくが貴様を乗せていかなならんのだ、と言おうとしてやめた。みんなは面堂があたるを追い掛けているというか、追い掛けるように仕向けるのはいつだってあたるの方だった。
「………人の気も知らないで」
あたるに聞こえるか聞こえないかの声量で吐き捨て、ろくな返事もせずに歩き出した。視線を逸らす直前に見たあたるは、呆気に取られた表情をしていた。
「………なんだよ、無視しやがって」
心底寂しそうにいじけた様子はあまり見たことのない類のそれでいっそ感動すらした。咄嗟に思う。ぼくにとってお前はなんだろう。お前にとってぼくはなんだろう。この関係にはクラスメイトでも恋敵でもない、形容しがたい何かが混じっている。
校門にはすでに送迎用の黒塗りのセダンが停まっていた。これでようやくあたるから離れられる。小石を避けながら校庭を歩いていると、背中に何かがぶつかった。というより、ぶつけられたといった方が正しい。それが奇しくも小石だと気付くのにそう時間は掛からなかった。
「――ばーか」
まるで子どもの喧嘩だ。続けざまに「あほ」と言われて思わず立ち止まった。振り返ると、むっと頬を膨らませたあたるがつまらなさそうに膝を抱えてしゃがんでいた。悪口と言うのは低レベルすぎるそれは、なおも続く。
「面堂の陰険タコ」
「…おい」
「いいかっこしいのスケベ」
「…おい、諸星」
「車くらい乗せてくれたって良かろう、ケチ」
「おいったら貴様、ぼくの話を聞け」
「ふん。最初に無視したのはお前の方だろ」
珍しく正論を言われてぐうの音も出ない。黙っていると、「ほら見ろ、自覚があるんじゃないか」と見事に指摘された。でも大事なことはけっして言葉にしない。思えばその、煮え切らない思わせぶりな態度がずっと気に入らなかった。
「…ぼくが無視したくらい、なんだ」
気付いたときには声に出していた。逃げるのはいつだってお前の専売特許なくせに。それなのに。あたるを前にするとどうしたって掻き乱される心。ついさっき決意したばかりの気持ちなんて、もうどうだって良かった。目の前にあたるがいる限り、面堂は追い掛けないとだめらしい。そういう星に生まれてしまったらしい。
「…なにがだよ?」
通りやすい声ゆえに、あたるは凄むと案外迫力が出る。ワントーン低い声に心臓がひゅっとなった。興奮のまま、いつでも斬り掛かれるように刀の鞘を抑える。
「…ぼくに無視されたのがそんなに堪えたのか?」
「…は?」
ぐっと押し黙ったかと思えばあたるが急に立ち上がる。掴み掛かられるのも覚悟の上で身構えたが、予想していた衝撃はいつまでたって訪れなかった。
「…あほか。んなもんなんともないわ」
べ、と舌を出しては挑発し、面堂に向かってくる。なんともふてぶてしい顔は、ともすれば晴れ晴れとも見える。すれ違いざまに肩を小突かれ、またよろけた。
「…も、諸星、貴様。一度ならず二度までも僕を愚弄するとはもう許せん」
地面を蹴って駆け出す。息を吸って吐いて。うまく呼吸を使いながら、すでに小さくなってしまったあたるの背中を全速力で追い掛けた。今日ばかりは逃さんぞ、と声を張り上げて。待て、と叫べば、誰が待つかと言われた。じゃあこの手に掴むまで追い掛けてやる、と言い返してやると、やってみろと挑発された。まるで武者震いにも似た気持ちで心が震えた。迎えに来たセダンを追い越し、走る速度を上げた。一生を懸けてもつかまえてやる、と心に決めて。
「――あら結局あの二人、追いかけっこしてるのね」
「――懲りずにま~たやっとる」
相変わらずだなあ、と誰かの呟きが暮れなずむ空に消えていった。