優しくしないで、好きだから 腹痛で目が覚めた。ろくろく朝食も食べられないうちにトイレに籠り、胃液まで戻した。
ようやくワンルームのベッドに戻っても、何も口に入れたくない。昨日作った麦茶を一口ずつ飲んで、ようやく水分を摂れる程度だ。
作り置きの常備菜も、朝ごはんにしようと思っていた卵も納豆も食べられないだろう。かといって買い出しに行くには悪心がひどい。たぶん、まっすぐ歩くこともできない。
睡眠も取れず、ただただ苦しくベッドの上をのたうち回り、時たま嘔吐のためにユニットバスのトイレへ這う。
このままごはんも食べられないで死ぬのかな……とぼんやり思い始めた時、スマホが震えた。
ロック画面を見れば、LINEのポップアップ通知が表示されている。黒いポメラニアンのアイコンに、立香は横になったまま飛び上がった。
あわててロックを解除し、アプリを開く。ホーム画面の一番上に、『岡田以蔵』という名前と赤い未読バッチがある。
タップすると、『今日は来ないのか』とメッセージが来ていた。
顔を合わせている時の以蔵は時折聞き返してしまうほどの土佐弁を遣うが、文章でやり取りする時は標準語寄りの言葉になる。以前仕事上で「まったく読めない」と苦情を受けたかららしい。それでも、アクセントはきっと土佐訛りに違いない。
それを知っているのは何度もメッセージを送り合ったからだ。もっとも、立香の方から話しかけ、以蔵の方は相槌に毛の生えた程度の言葉しか返って来なかったのだが。
以蔵の方からメッセージを送ってくれたのは初めてだ。天変地異だ、と思いながらうつ伏せになってフリック入力する。
『すみません、今日はちょっと行けそうになくて』
『どうした。どこかのうが悪いのか。お前がわしのところに来ないなんて』
『その、なんだか具合がよくなくて』
『わしのところに来れないくらいにか』
以蔵の言葉に、立香はどう返信しようかしばし悩む。ありのままに伝えては、心配してほしいと言外に訴えることになりはしないか。
そう考えているうちに、再びメッセージが届いた。
『今から行く』
へ? 立香は変な声を出した。
『どこへですか』
『お前の家』
『え、そんな、大丈夫です。たいしたことじゃない』
『お前がわしのところに来れんなんて、たいしたことだろう』
それは確かにそうだ。立香は以蔵のストーカーをしている。行きつけのカフェや自宅にかなりの高頻度で押しかけてきた立香だ。その姿が見えないとなったら、以蔵も不審に思うだろう。
いや、ちょっと待って。以蔵は今、なんと言った?
『以蔵さん、わたしの家わかるの?』
『お前、わしに住所押しつけて来たろう。等価交換やなんや言うて』
その言葉に、記憶が紐解かれる。
尾行と覗き見で以蔵の住所を突き止めた立香は、郵便受けをまさぐって合鍵を見つけ、築三十年超の低層マンションの部屋に上がった。以蔵は『なんじゃぁぁぁぁぁっ!』と新鮮な悲鳴を上げ、どうしてここにいるのかと詰問してきた。
立香は素直に捜索の成果を報告し、以蔵を呆れさせた。その際に、「わたしばかりが住所を知っているのは不公平だから」と、以蔵へ自宅の住所を書いて渡した。当時はまだLINEのアカウントを交換していなかったからだ。
その時のことが、今こんな風に効いてくるとは。
――過去のわたし、なんてことしたんだ!
本来なら、以蔵の来訪は喜ぶべきことだ。一方的に追いかけ続けてきた以蔵が、こちらを振り向いてくれたのだから。
しかし今日は、今に限っては困る。とても困る。
立香は寝間着代わりのTシャツとハーフパンツだけの姿で、下着もナイトブラと質素なショーツだ。色も合っていない。その上嘔吐のしすぎで、顔は汗と涙とよだれと胃液にまみれている。好きな人に見せられる顔ではないし、悪心のせいで身繕いもできない。
だから、
『いや、いいです。大丈夫。来なくて』
と素早くメッセージを送ったのだが。
『お前もわしの都合なんて聞かずにわしの家に来るろう。自分がしてることを他人にするななんて、理屈が通ってない』
そう言われると反論できない。返事をためらう立香に構わず、以蔵は二の矢を射てくる。
『食事はできてるか?』
聞かれたら、答えざるを得ない。
『朝から何も食べてません』
『何か見繕って持ってく』
以蔵はメッセージの後に黒ポメラニアンがサムズアップしているスタンプを押した。
以蔵の中では、既に立香の家へ行くことが決定されたのだろう。
『いや、待って、来ないで、まじで来ないで』
『聞こえんのぅ』
『ほんとにほんとに困ります』
そのメッセージに既読がついたが、その後何のリアクションもない。
立香は大きく肩を落としてから身を起こし、横置きにしたカラーボックスの上のメイクボックスから顔用のリフレッシュシートを取り出した。ベッドへ戻って顔を拭き、先ほど口許をぬぐっていたティッシュとまとめてごみ箱に捨てる。
スマホで時間を見れば、もう夕方だ。
以蔵が初めてこの部屋に来るというのに、何も支度できない自分が情けない。
その後一度トイレに行ったが、やはり胃液以外出せない。お腹を抱えて、ベッドで丸まった。
どれくらい経っただろうか。
ぴんぽん、とドアチャイムが鳴った。よろけながら玄関へ向かい、硬くて冷たい鉄の感触にすがるようにしてドアを開けると、目を丸くした以蔵が立っていた。
「あ……いらっしゃい」
「立香……おまん、何しゆう……」
以蔵は両手にビニール袋を提げたまま、ふらつく立香を抱き留めた。
「何、って……寝てた」
「うるさいなら救急車でも何でも呼ばんか!」
いきなりの以蔵の剣幕に、立香は驚く。
「いや、はは……そんなに、ひどくないよ」
「おまん、鏡見たがか。今車出しちゃる。かかりつけの医者はどこじゃ」
以蔵は怒っているように見える。冷静な、すげない対応ばかり見せられ続けていた立香には新鮮だ。
しかし今はそんなことを考えていられない。
立香の背中に、以蔵の腕が回っている。頬には胸板が当たり、想像通りのたくましさを立香に教えてくれている。香水などはつけていないようだが、煙草の香りと安心できる匂いがする。
しばし目を閉じてその感触を味わっていると、
「答えい、かかりつけ」
以蔵が焦れたように再び問う。
「あ、えっと、ないです」
大学進学と同時に一人暮らしを始めた立香は、幸いなことに今まで健康を保っていた。この地域の病院へは通ったことがない。
「わかった。今の時間でも開いちゅうとこ調べる。おまんはえいからベッド戻りぃ。こんまま支えちゃるき」
以蔵は立香を抱きしめたまま靴を脱ぎ、そのまま上がり込んだ。太い腕に包まれる安心感。
「こけなや」
「う、うん」
なかば引きずられるようにして、立香の身体はベッドに戻された。
「冷蔵庫借りるぞ」
立香の返事を待つ前に以蔵は2ドアの小さな冷蔵庫に何かをしまった。おそらく差し入れだろう。
しかし立香はそれを見る余裕もない。
以蔵はデスクからオフィスチェアを引き寄せて、ベッドサイドに陣取った。その手には経口補水液のペットボトルがある。
「買うちょいてよかったわ。風邪でもなさそうじゃが、あげるか、それともさげるか?」
以蔵の言葉の意味はよくわからなかったが、文脈で判断はできる。
「戻す……」
「ほうか。じゃぁまだ食べるがは早いの。飲め」
以蔵は経口補水液のふたを開け、立香にボトルを握らせる。
「いっぺんに飲みなや。ちっくとずつ口に含みぃ」
弟か妹へ言うような声音に、立香の胸は少しだけざわつく。女として見られていない。
しかし喉が乾いていたのも確かなので、以蔵の言葉通り小鳥のように飲み下す。
「うまいか」
うなずく立香の頭を、以蔵は少し乱暴に撫でた。
「これがうまく感じる時はそんだけ体調が悪いがよ。しばらく寝ちょき、準備できたら起こしちゃる」
うながされるまま横になる。吐き気はまだまだ治まらないが、死の危惧はいっぺんに遠ざかった。近くに以蔵がいるというだけで安心してしまう自分は、なんて単純なんだろう。
しばらく横向きになってお腹を抱えていると、以蔵が肩を叩いてきた。
「車出すがぞ。階段降りれるがか?」
うなずいてから、まだ寝間着のままでいることに気づいた。羞恥心をうまく言葉にできずにいると、
「病人の恰好らぁて誰も気にしやせん思うけんど……気になるならこれ着ちょき」
と、ジャケットを羽織らせてくれた。赤い裏地に柳の葉があしらわれた黒いジャケットは、立香もお気に入りのものだ。煙草の香りと以蔵の匂いに包まれ、なんとか歩けそうだと判断する。
「保険証はどこじゃ」
「財布の中……」
「すぐ出せるようにしいよ」
財布は普段使いのトートバッグに入っている。A4の教科書も入るカバンはかさばって、取り回しが効かない。
「立香、すまんがカバンからいらんものは抜いちょくれ。勝手にカバンは荒らせんき」
普段は立香を恋愛の対象には入れず、子供扱いする以蔵だが、こんな時は一人の人間として尊重してくれる。弱っているせいもあって、惚れ直してしまう。
財布と化粧ポーチ、タブレットと充電器を入れたトートバッグを、以蔵が持ってくれる。支えられながらアパートの階段を降りて、徒歩一分の駐車場に停めてあった車に乗り込む。坂本探偵事務所所有の軽バンを、以蔵はしばしば私用する。
「あげそうになったらこれ使え」
以蔵が渡してくれたのは、先ほど差し入れを持ち込むのに使ったビニール袋だろう。
五分ほどで内科医院に着く。受付で初診の旨を伝えた以蔵へ、事務職員がクリップボードに挟んだ問診票を渡した。
「書けるか? 書けんならわしが書いちゃる」
「いや……書く」
住所氏名、症状といつ発症したか、処方薬やアレルギーの有無の下に、『妊娠していますか』という問いがあった。これは以蔵には見せられないし、聞かれたくない。
記入した問診票を、以蔵が受付へ提出してくれた。自然に立香の隣に座り、こちらを覗き込んでくる。
「うるさこうたら肩貸しちゃる」
「以蔵さん、どうして今日は優しいの」
「病人気にかけるがは人として当たり前じゃ」
「もっと好きになっちゃうよ」
「惚れちょけ惚れちょけ、そんでおまんののうがようなるならえい」
静かに笑う以蔵から離れられるわけがない。立香は身を傾げ、以蔵の肩に頭を載せた。
「これ以上優しくしないで……」
口から本音が転げ出た。
以蔵はことあるごとに立香の恋愛感情を若気の至りだと断じる。これは本当の恋ではない、ただ危機を救われたことで吊り橋効果に陥ってしまったのだ、と。
そんな以蔵が、今日は甲斐甲斐しく面倒を見てくれている。
「お断りじゃ」
以蔵は笑い含みに言った。
これは夢ではないだろうか。
しばらく以蔵を感じていたら、「藤丸さんどうぞ」と名を呼ばれた。
立香の母親よりは少し若い女性医師が、診察台に横たわった立香の腹を触診した。女性医師がいる病院を、以蔵が選んでくれたのだろうか。
医師からは胃腸炎と診断され、過労などで免疫力が落ちていたのかもしれない、と指摘された。確かに最近は以蔵へのストーキングを優先していた。嘔吐して軽い脱水と栄養不良状態になっているらしく、点滴を打つことになった。
奥の処置室できびきびした看護師の指示を受けてベッドへ上り、腕の裏側に針を刺される。スタンドに固定された点滴バッグを見上げていたら、以蔵が処置室に入ってきた。
「どうしたの」
「『藤丸さんのお連れの方』言うて呼ばれての」
以蔵は近くに立てられていたパイプ椅子を引き寄せ、組み立てて座る。
「うるさい時は先生の言うこと聞くに限る」
そう言うと、スラックスのポケットからスマホを取り出した。そういえば、と立香は思い至る。
「以蔵さん、今日、仕事は」
立香のせいで休ませたのなら申し訳ない。しかし以蔵は首を振った。
「おまんが気にすることやない。今日は外回りはないし、スマホでできる仕事もあるきに」
詳しく教えてくれたわけではないが、探偵は身元調査や浮気調査の際にターゲットのSNSを見ることもあるらしい。リプライ相手やそのフォロワーのタイムラインをたどって、より深い情報を得るのだそうだ。以前、『パパ活だの裏垢だの、げにぞうくそ悪いぜよ。裏垢なら裏垢らしゅう鍵でもかけちょき』と言っていた。
眉間に皺を寄せてスマホ画面をスワイプする以蔵に、立香は思い切って声をかけた。
「以蔵さん、手、繋いでくれる?」
お腹痛くてつらくて……と続けようとした立香の、針の刺さった方の手を、以蔵は迷いなく握った。断られるだろうと思っていたから、立香は言葉をなくした。
「ちっくと危ないかもしれんが、動かさなけりゃかまんろう」
「どうして」
「言うたろう、病人に優しくするがは当たり前じゃ」
ごつごつした男らしい手から伝わる体温が、痛みと悪心にこわばった心身をほぐしてくれる。
嬉しいのに悲しい。悲しいのに嬉しい。
「ねぇ、以蔵さん」
「なんじゃ」
「わたしが治っても、こんな風にしてくれる?」
「するわけないろう」
「だよね……」
わかっていた答えに、鼻の奥が痛くなる。
以蔵は時たま、立香に期待させる。
職場や行きつけのカフェについて行き、勝手に部屋へ上がり込んで押しかけ女房面をする立香を煙たがっていても、ごく普通の顔でカバンを持ってくれる。車道側を歩いてくれる。とりとめなくその日のできごとを話す立香に、穏やかな相槌を打ってくれる。
まったく手応えがなかったら、さすがの立香も折れていただろう。
以蔵が垣間見せる愛情のようなものにすがって、立香はストーキングを繰り返している。
一般的なストーカーは、相手の言うことを都合よく曲解して愛情を錯覚するのだそうだ。
立香はどうなのだろうか。以蔵の迷惑を顧みず、困らせているのは間違いないが。
脈がないなら突っぱねてほしい、と思うのと同時に、この優しさに可能性を見出してしまう。
愚かな恋をしている。
それでも、飴色の目に己を映したいと願うことを止められない。
「以蔵さん……好き」
つぶやく声は、涙で湿っていた。
「泣きな……こげなもんしかないけんど、使いや」
以蔵はハンドタオルを取り出し、点滴を打たれていない側の手に握らせた。
こぼれる涙を拭う立香に、
「わしもまっこと卑怯な男じゃ」
と以蔵は小声で言った。
意味を測りかねて見上げる立香へ、以蔵は微笑みを向けた。普段の尖った目つきとはかけ離れた、落ち着いた飴色の光が、立香の涙をあふれさせる。
「今日はプリンとゼリーと桃の缶詰買うてきたき、食えるもんだけ口に入れや。明日また来ちゃる。りんごも持っての」
華奢な手を包んでくれる以蔵の手を、立香はそっと握り返した。