金曜の夜、あなたと/君と スマホが震えた。LINEの通知がポップアップされている。黒いポメラニアンのアイコンに、ため息を吐く。
『今日ものうが悪いのか』
一言のメッセージにどう返せばいいのか、十秒ほど考えあぐねる。
結局白い猫のような犬のような生き物(フォウくんという名前だ)がぐったりしているスタンプを押した。
『すみません、今日も試験勉強があって』
『無理しなや』
黒ポメラニアンが眉根を寄せているスタンプが返ってきた。
フォウくんが『ごめんなさい』と頭を下げているスタンプを送り、既読がつくのを確認してから、スマホをスリープさせる。
「……はぁ」
緊張が解けて脱力する。
金曜の大学のカフェテリアは、授業の合間に雑談に興じ、また勉強に勤しむ学生で混雑している。週末ということで、待ち合わせてどこかへ行く集団も散見される。
まるで淡水魚に混じった海水魚のような場違い感と苦しみを覚える。
昨日あたりからずっとこうだ。
三日前、立香は二十歳を迎えた。
ようやく以蔵から子供扱いされることがなくなる、と意気込んで、お酒を買って行って以蔵の家で飲んだ。初めての飲酒は勝手がわからず、立香はカクテル缶一本で酔った。
そんな立香を以蔵は介抱し、寝室のベッドで寝かせてくれた。
しかもその際、苦しいだろうと気を回した以蔵は、服の上からブラジャーのホックを外した。
そこまでしておいて、以蔵はなんでもない顔をして寝室を出て行ったのだ!
既に相当ひびの入っていた自尊心が、完全に折れた。
以蔵のことが好きで好きで、ストーキングを働くようになった。つきまといを繰り返し、勝手に家に上がって家事もした。下着姿で帰宅を待っていたことすらある。
いつ触れられてもいいように、肌のケアも欠かさなかった。
しかし以蔵にとって、立香は据え膳にもならない存在らしい。
立香は自分の身体を抱きしめて泣いた。
見返りが欲しくて恋したわけではない――とはいえ。
この悲しさが怨みつらみになりはしないだろうか、と怖くなった。
泣き疲れて寝て、朝になったらダイニングキッチンにはなぜか龍馬とお竜がいた。もちろん以蔵もいるから、かなり手狭だ。
「おはよう立香ちゃん、二日酔いにはなってないかい」
「リツカ、顔洗ってこい」
ぷかぷか浮かぶお竜に言われ、洗面所に立って己の顔を鏡で見る。
ひどい顔をしていた。目許は厚ぼったく腫れ、涙の跡が目尻に轍を作っている。
こんな顔を二人に晒したくなかった。どうして以蔵はわざわざこんな日に二人を呼んだのか。
ダイニングキッチンに戻ると、以蔵がグラスの水とウコン飲料のボトル缶を差し出した。
「ほんまは飲む前の方がよかったけんど、ないよりはマシじゃろう」
ボトル缶の蓋は既に開いていた。水とウコンを交互に飲み、グラスとボトル缶を返すと、以蔵は目を逸らした。眉根には皺が寄っている。
「今日も学校やったな」
「うん」
「わしは飲んじょったき、送っちゃれん。やき、龍馬の車に乗っちょけ。教科書は家か?」
うなずくと、以蔵は龍馬に、
「立香の家ぇ寄りぃ」
と声をかけた。その態度がいつにも増してよそよそしく感じられたから、立香は思わず以蔵のシャツの裾を掴んだ。
「……」
以蔵は軽く目を見開き、丁寧な手つきでシャツを引っ張って立香の手をほどいた。
一度引っ込んだ涙がまたあふれそうになって、目をこする。
「やめぇや、傷になる」
そう言う以蔵だが、積極的には触ってこない。
みじめだ。
どれほど好きになっても、以蔵は振り向いてくれない。
「お仕事、今日も頑張ってね」
「おう」
以蔵はうなずいて、グラスをシンクに置いた。
「立香ちゃん、準備できたかな」
後ろから龍馬が声をかけてくる。
「はい、今行きます」
立香は以蔵に背中を向けた。
それから二日、以蔵の顔を見ていない。
毎日のように現れていた立香の姿が見えないことは、以蔵も少しは気にしているらしい。今まで以蔵の方からはろくに送られなかったLINEのメッセージが、昨日から散発的に来る。
そのたびに『試験勉強が忙しい』『元気にしている』と、嘘ではないが本当でもないことを送っているのだが、以蔵は果たして立香の欺瞞に気づいているだろうか。
(……いや)(以蔵さんにとってわたしはどうでもいい存在だし)
一年近く心のどこかでは感じ取っていたことを、改めて突きつけられている。
(わたしはいったい何をしてるんだろう)
徒労だとは思いたくない。
以蔵を好きになったことで、立香の世界の彩りは格段に増した。
以蔵の背後の景色はみずみずしく、まぶしく、生の輝きに満ちていた。
飴色の瞳に映る自分をより美しくしようと、見た目だけではなく指先一本の所作に気を配るようになった。
世界を豊かにしてくれた以蔵に感謝したい、という気持ちももちろんあるのだけれど。
「……はぁ」
悲嘆がため息となって口から出た。
今日も以蔵のところへ行かないから時間はある。以蔵に恋してからずっと押しかけ女房をしていたから、一人での時間のつぶし方がわからない。
家で動画を流しっぱなしにでもすれば、少しはつらさを忘れられるだろうか。
「リツカ」
聞き慣れた声に顔を上げれば、メイヴがテーブルの向こうに立っていた。その背後には三人ばかり男子学生が侍っている。ミス大学のメイヴはシンプルな服装だが、どことなく華やいでセクシーに感じられる。魅力的な内面が反映されているからかもしれない。
「浮かない顔ね」
「あぁ、うん……以蔵さんのことで」
メイヴには何回も以蔵の話をしている。どうやらメイヴは以蔵をあまり好ましくは思っていないようだ。
「リツカもやっとその意気地なしを見限るのかしら」
薔薇のような笑みに、立香はあわてて首を振った。
「以蔵さんはわたしに興味がないだけだから! 別に弱気とかじゃないから!」
「どうかしらね。リツカの話を聞いてる限り、脈がないようには感じないわよ。第一、厭なら家から追い出すでしょう」
「それは、以蔵さんが優しいから……わたしが傷つかないようにしてくれてるから……」
「本当に優しかったらとっくに振ってるわよ」
立香の否定にも、メイヴは意見を枉げない。
『優しい』と、無意識に発した己の言葉が胸をちくちく刺した。
「そんなこと……」
「あぁ、もういいわ。確かなのは、リツカが落ち込んでることよ」
メイヴは背後の男子学生を振り返った。
「今日は七時からだったわね?」
メイヴの問いに、男子学生の一人が「はい」と返事する。
「懇親会、来ない?」
「懇親会?」
立香が訊くと、メイヴは愉しげな顔をした。
「普段私と話すチャンスのない男たちに機会を作ってあげてるの」
高嶺の花でありながらサービス精神も豊富なメイヴらしい会合だ。
「わたしなんかが行ったら、男の子の邪魔にならない?」
「リツカは可愛いんだから、もっと自己評価高めましょ――女の子も何人か呼んでるわ。でないと、場がギスギスしちゃうのよ。紳士協定を無視して私を手に入れようって男もいるから」
そういうものなのか。メイヴが治める国のルールを、まだ立香は完全には把握していない。
「今日はストーカーするの?」
メイヴの言葉に、立香の心に愛しい面影が蘇る。
心の中の以蔵は立香に背を向け、物憂げに煙草をふかしていた。
(以蔵さん)
呼びかけると、以蔵は振り向いた。飴色の瞳に、興味の光はない。
(好きにしぃ。おまんはわしのもんやないき)
以蔵は再び正面を向いた。それっきり、立香に見向きもしない。
――そうだ。以蔵さんはそうするに決まってる。
心象風景から現実に視界を戻し、立香はメイヴに向き直った。
「メイヴちゃん、わたし行くよ」
どうせ予定なんてない。飲み会に出れば、誰かしらと会話ができるはずだ。一人では、気が滅入るループに入ることが容易に想像できてしまう。それならば。
「たまには困らせちゃいなさい。ねぇ、リツカに今日のこと伝えて」
メイヴが背後も向かずに指示すると、男子学生の一人がスマホを見せてきた。
午後七時、ターミナル駅前の待ち合わせスポットに集合、女子は参加費なし。
多少出費がかさんでも、メイヴとの謁見にコストを払いたがる男子が来るのだろう。
幹事の男子のスマホ画面を撮り、立香は再びため息を吐いた。
「そんな顔してると幸せが逃げるわよ。嘘でも笑いなさい」
「それができればこうなってないよ……」
嘘を吐くのは得意ではない。
メイヴなりの励ましに、立香は弱気の笑顔を返した。
ターミナル駅は、坂本探偵事務所の最寄り駅でもある。当然、何度も通いつめた場所だ。
今日はいつもとは全然違う気分でここにいる。ストーキングという日課をサボっていることへの少しの罪悪感が、どことなく浮遊感を与えるのだろうか。
広場の隅では、既に十人ばかりの男子と三、四人の女子が固まって待っていた。その中で咲く大輪の花が、立香に手を挙げた。
「リツカで最後よ」
立香は驚いて、スマホで時間を確認する。やっぱりまだ六時五十五分だ。
「ここにいるのは、時間を厳守する人だけなの」
暗に語られているのは、メイヴが時間にだらしない人間を許さない、ということだ。
(そりゃメイヴちゃん、以蔵さんのこと気に入らないよね……)
ほんわかして、直後に冷水を浴びせられた思いになる。
以蔵のことを考えるのが癖になっている。あの飴色の瞳を思い浮かべるだけで幸せになるのも。
しかし、現実の以蔵は立香を見ない。
考えを切り替えるために首を振る。
幹事が先導して向かったのは、看板からして大学生に似つかわしくない雰囲気の店だった。
敷居をまたぐと、天板の厚い木製のテーブルに案内された。調度も和風で、水墨画のようなものも飾られている。
メイヴの騎士になるためには、このくらいの金銭的試練を乗り越えるのも当然なのかもしれない。
ドリンクメニューを眺めていたら、
「藤丸さん、飲める?」
隣に座った男子が話しかけてきた。
「はい、さきおととい誕生日だったので」
「梅酒の酒類が多い店っていいよね。俺のおすすめはゆず梅酒」
割とぐいぐい来る人だ。
「じゃぁそれで」
お通しのお皿も丁寧に作られたものだ。ゆでピーナッツと、湯葉と小松菜のおひたしが載っている。
早速運ばれたゆず梅酒を少しずつ飲みながら、ゆでピーナッツの皮をむいて口に運ぶ。
ピーナッツは鮮度が命で、産地直送の新鮮なものでなければゆでるのには適さないらしい。煎ったものももちろんおいしいが、ゆでたピーナッツの舌触りは柔らかく、焦げみのない自然な香りも気に入った。
湯葉も学生向けのお店によくある大味な味つけではない。にぼしから取った出汁の味がする。
上京してからこちら、こんなに優しく美味なものを食べたことがなかった。主に手作り、時にコンビニやスーパーのお惣菜を食べていた。
(……もしかして、今まで以蔵さんにおいしくないもの食べさせてたかも……)
メシマズとは言われないように修行をしてきたつもりではある。
しかし、高校まで母の手伝い程度しか台所に立っていなかった立香には経験が乏しい。本やインターネットでレシピを調べても、まだまだ本当においしい食事は作れないだろう。
以蔵が立香に押しかけられ、美味でもないごはんを食べさせられ続けてきたことを、立香はよく知っている。
時にギャンブルで給料を吹っ飛ばすこともあるとはいえ、れっきとした社会人の以蔵には立香よりも自由になるお金が多いはずだ。ごはんも好きなものを食べられる。
ひとつ例を挙げるだけでも、以蔵への迷惑が思い出される。
(わたし、本当にダメだ)
テーブルに大皿のサラダと冷奴が運ばれてきた。手許の小皿に取り、ゆず梅酒を傾けながら食べる。
(――でも)(以蔵さんと食べるごはん、とってもおいしかった……)
立香の前で無愛想な顔をする以蔵が、食事の時には穏やかに笑う。その顔を見ると、自分が以蔵の特別になれたように錯覚してしまう。
所詮、錯覚なのだけれど。
無性に泣きたくなった。しかし、こんなところで泣き出したら迷惑になる。
化粧ポーチだけ持っで立ち上がり、椅子に座っている人に背後を譲ってもらって通路に出る。
トイレは店の隅にあった。洗面所は比較的広く取られている。洗面台のボウルも、銅を加工したものだ。よく掃除が行き届いていて、磨かれたように光っている。
鏡の中の顔は、先日ほどにはぼろを出していない。それでも目は潤み、見る者が見れば悲しみを汲み取れるはずだ。
(あぁ……やっぱり、一人の方が迷惑かけないかも……)
マスカラが落ちないように目をハンカチで押さえる。
メイヴには申し訳ないが、帰ってしまおうか。泣き上戸の絡み酒など、ろくなものではない。
と思っていたら、背後のドアが開いた。
「藤丸さん」
先ほど隣に座っていた男子学生だった。
「どうしたんですか、えっと……」
「模部」
男子学生は軽薄に名乗った。
どうも模部は立香を知っているらしい。
ストーカー活動で忙しかった立香は、あまり大学で友達を作っていない。語学のクラスが一緒だったメイヴと、あとは両手両足の指で足りるほどだ。
「どこかで会ってましたっけ」
「藤丸さん、案外有名なんだよ。よくメイヴと一緒にいるだろ。しかも可愛い」
かけられた言葉が、ピンと来ない.
メイヴも同じ言葉で立香を褒めていたが、この世で一番そう言ってほしいと願う人からは何も言われない。
以蔵以外の人から何を言われても、立香にとっては無に等しい。
それにしても。
「模部さんもお手洗いですか」
立香が問うと、模部は照れくさそうに笑った。
「藤丸さん、抜けない?」
「抜けるって」
「俺、藤丸さんともっと話がしたいなって」
流れるように言う模部に、立香は違和感を抱いた。
「メイヴちゃんとお話しに来たんじゃないんですか」
模部は肩をすくめて笑った。
「今は他の女の話はよそうよ。俺は藤丸さんと話したいんだから」
模部は一歩距離を詰めてくる。薄笑いの意図は読めない。立香も一歩下がったが、洗面台が腰に当たった。
「メイヴね……第一、あれだけ男を侍らせて誰ともヤッてないわけないだろ。初めて来たけど、目が覚めた」
それはメイヴへの偏見なのではないか。メイヴへの解像度が足りないのではないか。
そう思う立香の顔を、模部は上から覗き込んで来た。
「やっぱり俺は、可愛くて初心な子がいいなって」
「わたし、初心なんかじゃないですよ」
反論が口をつく。初心な子は、下着姿で夜這いをかけたりはしないだろう。
しかし模部は首を横に振った。
「藤丸さん、面白いね。俺、ますます気に入っちゃった。こんな背伸びしたとこじゃなくてさ、二人で話せる雰囲気のいい店知ってるんだ。俺、エスコートするから」
模部は手を伸ばし、立香の手首を握った。
「ねぇ?」
その手は熱かった。興奮しているのだろうか。
『二人きりになりたい』
以蔵しか追いかけていなかった立香にも、その意図はわかる。
だから、
「わたし、好きな人がいるんです」
「そんなやつのこと、忘れちゃおうよ」
模部の手が力を強めた。
脳裏の以蔵の顔に、よくない影が差した。
立香をこれほど求めてきた人が、これまでいただろうか。
好きな人から一向に振り向いてもらえない立香は、己の魅力をまったく信じられていない。
以蔵は度重なる据え膳に手をつけなかった。先日などは、立香がいるにもかかわらず龍馬とお竜を呼んでいた。立香が早々につぶれたから、その代わりの話し相手を求めたのに違いない。
手を伸ばしても、影すら掴めない。
そして目の前には、立香を求める男がいる。
そこに下心しかないとしても、立香の心の空洞を埋めることはできるかもしれない。
第一、この後は独りの部屋に帰るだけだ。
見上げると、模部は目を細めた。
飴色の瞳とは、何もかもが較べるべくもない。
しかし、立香は思考を放棄した。
腕を引かれるまま、男の腕に引き込まれようとして――。
「ごいされませ」
聞き慣れた声が割って入った。土佐弁の言葉とイントネーション。
後ろめたさからの幻聴かと思った。声の方に首を巡らせる。
トイレの入口のドアに、今一番会いたくなかった男がもたれかかっていた。
――なんで――!
驚きのあまり、声を出せない。立香はぱくぱくと口を動かす。
「あっ、トイレ使います?」
模部は立香の手を握ったまま言って、個室を譲ろうと動きかけた。
「いんや、わしが用事あるがはそいつやき」
高めの声には、明らかな怒気が含まれている。
「……藤丸さん、知り合い?」
模部の問いかけに、立香はうなずいた。
「あっちの席にはいなかったですよね」
以蔵のたたずまいは、明らかに大学生ではない。模部が不審げになるのは当然だろう。
そんな模部の懐へ、以蔵は一瞬で飛び込んだ。ぶれることなく、立香の手を握っていた手首を掴む。模部は顔をしかめた。
「何するんです、離してください!」
「えいか、よう聞け」
以蔵は模部の顔へ顔を寄せ、鼻先がぶつかるほどの至近距離でささやく。
「こいつはおんしかたけのだきな手ぇで触ってえい女やない」
「え、あんた、何言って」
以蔵の歯ぎしりが立香の耳に届いた。
「わしをこれ以上怒らしとうなかったら、しゃんしゃん去ねや」
「模部さん、わたしは大丈夫だから……」
「なんだよ、お前ら、なんなんだよ!」
模部は悪態を吐いて出て行った。立香と以蔵が残される。
「立香、こっち来ぃ。ここは誰が来るかわからんき」
以蔵は立香の手首を引っ張ってトイレから連れ出し、そばの鉄扉を開けて屋外の非常階段へ忍び込んだ。眼下からはエアコンの室外機の稼働音と雑踏のざわめきが聞こえる。
飴色の瞳が、じっと立香を見下ろす。そこにある怒りの意味が、立香にはわからない。
「以蔵さん……どうしてここに」
「おまん、わしが何で飯食うちょるか忘れたか」
以蔵の声には冷静さがない。今にも激しそうになるのを理性でぎりぎり蓋をしている。
「尾行……」
「それより聞きたいがはわしん方じゃ」
以蔵は立香の両肩を掴んだ。
「なんじゃ、あん男は」
「あの人は、模部さんって言って、わたしの大学の」
「ほがなことは聞きやせん。どいてあげな男と二人きりになっちゅう」
以蔵の叱責に、立香は混乱の渦に叩き込まれた。
「おまんには危機感がない。あげに鼻の下伸ばしちゅう男にはろくなもんがおらん。隙ぃ見せたら取って食われるがぞ」
以蔵は諭す。
以蔵が何を言っているかわからない。
正確には、どんな意図があって立香にこのようなことを言っているのかがわからない。
自分のストーカーが男に手を引かれるなんて、喜ばしいことではないのか。立香に男でもできれば、もう以蔵に執着することがなくなるのだから。
――以蔵さんは、そう望んでいるんじゃないの?
ぐちゃぐちゃになった立香の感情から、湧き出てくるものがあった。
「どうして……」
「あ?」
「どうして以蔵さんにそんなこと言われなきゃいけないの」
立香が叫ぶと、以蔵は一秒身を硬直させた。あわてて我を取り戻し、立香へ食ってかかる。
「どいてって……ほがなの、決まっちゅう。おまんはわしを……」
「でも!」
感情がレールから脱線しつつあるのを感じても、止められない。
「以蔵さんとわたしはなんでもないよね つき合ってもない、ただのストーカーと被害者。以蔵さんはなんでわたしを縛ろうとするの!」
「立香」
「わたしね、疲れちゃったんだ。以蔵さんのこと好きでいるの……」
以蔵は飴色の瞳を見開いた。そこに映る立香は、どんな表情をしているだろうか。
視界がぼやけると思って、初めて自分が泣いていることに気づいた。
疲れた。
それは、ここ数日立香の胸へ浮かび上がってきていたことだった。
見返りが欲しくて以蔵を好きになったわけではない。
それでも、一年以上も決定的な言質を得られない状態を続けられるのに耐えられなくなった。
以蔵は時たまお恵みをくれた。無愛想さの合間に見せる笑顔。ちょっとした気遣い。立香の攻勢に困っているはずなのに、完全には拒まないところ。
それを束縛だと感じてしまった。
立香を愛しているわけではないのに、立香の心を奪い続ける。
失恋の機会も与えず、ただ希望に似たものをちらつかせる。
それは優しさではなくむごさだ。
今も。
確かに模部はろくでもない男だったかもしれない。しかしストーキングの被害者でしかない以蔵が口を出すことでもない。
「ねぇ、以蔵さん……」
「立香」
以蔵の呼び声に、必死さが含まれているように感じる。たぶん気のせいだろう。以蔵がそうする理由がない。
「ごめんね、ずっと困らせて……つきまとって、上がり込んで、おいしくもないごはん食べさせて……」
「おまん、何言いゆう」
「迷惑だったよね、わかってた」
「ほがなこと」
「以蔵さんが怒るのも当然だよね……本当に、ごめんなさい……」
抑えきれない感情が嗚咽になる。ぐず、ぐず、としゃくり上げると、鼻水が出る。
情けない。醜い。
こんなところを好きな人に見せたくなかった。
それでも、言わなければ――
「勝手だよね、わたし、勝手……でももう以蔵さんの前には現れないから……だから、こんな酷いことしないで……」
「立香」
たくましい腕が立香へ伸びた。気づいたら以蔵に抱きすくめられていた。
「やだ、離してっ」
「泣くならここで泣いとうせ」
頬を広い胸に押しつけられる。涙と鼻水がベストに吸い込まれる。
「やめて、こんなの……」
「のう、立香」
以蔵は真剣な声で言った。
「わしは――おまんが、好きじゃ」
「やだ、今更、そんな、気なんて、遣わないで」
腕の中で暴れる立香を、以蔵は強い抱擁で抑えつける。
「やだ、以蔵さん、やだよ、こんなの」
「わしは間違うちょった」
悔いのにじむ声。立香は思わず身じろぎを止める。
「おまんにこがなこと思わせとうて言わざったわけやない……」
以蔵は立香の肩に顔を埋める。シャンプーと、煙草と、以蔵の香り。
「以蔵さん、何言ってるの」
「わしはな、怖じちょった――おまんの気持ちが変わるがを。おまんがわしを好きやのうなるがぁ、怖かったがじゃ」
「え? えぇ?」
立香が以蔵を好きじゃなくなるだなんて――そんなこと、あるはずないのに。
口を挟みたかったが、以蔵は言葉を続ける。
「おまんを大事にしたかった。わしは気が長い方やない。それがわかっちょったき、一時の勢いでおまんに触れとうなかった」
「ちょっと、以蔵さん」
「そんくせ、どっかで現状に甘えちょった。おまんのことならわしはいつまでも待てる――それがわしの傲慢さじゃった。あげなヤリモクの男ぉ見るまで、おまんが誰かにさらわれるらぁて思いもせざった。笑うとうせ、わしのアホさを。立香、おまんが好きじゃ、立香。誰にも渡せん。おまんの顔、いっとう近くで見せとうせ……」
いつの間にか、立香は抵抗する気を失っていた。
茫然としてしまう。
(ええと、この人は、いったい、何を……?)
耳に入った言葉を頭では理解しても、心は受容を拒んでいる。
「好きじゃ、立香」
以蔵は熱っぽい声でダメ押しする。
(……本当に? 夢じゃないの?)
立香は問うた。
「……いつから?」
「ん?」
以蔵は腕の力を緩め、立香の顔を見た。今まで見たことのない、切なげな顔だ。
「わたしのこと、いつから好きだったの」
「……」
飴色の瞳が、遠くを見るように細められた。
「初めて逢うた時んこと、覚えゆうろう」
「忘れるわけない」
一年近くも前のことだが、昨日のことのように思い出せる。
義務感を隠す気もなく、『坂本探偵事務所の副所長の岡田ぁ言います。わしは荒事が得意ですき、おまさんを護ることばぁ朝飯前です。よろしゅう』と明らかにいやいや頭を下げた時、「なんて嫌な人だ、服もだらしないし」とマイナスの感情を覚えたものだ。
「おまんが路地裏に追い詰められて、わしがようよバケモンから助けた時」
「うん」
「あん時、おまんのわしを見る目が変わった」
そう。バケモノへの敵愾心と立香を護るという意志を強く持った以蔵は、風のように現れて立香を背後にかばった。その手の中の日本刀が月光を反射して、垣間見えた飴色の瞳は生きがいを得たように熱く輝いていた。
綺麗だと思った。
「あん時の、おまんのわしを見る顔……この世のもんとは思えんくらい……綺麗やった」
あの一瞬、二人は同じことを考えていたのか。
――いや、待って。
それは、つまり。
急に腹が立ってきた。
「以蔵さん、最初からわたしのことが好きだったんじゃない!」
「……ほうじゃの」
「それなのに、わしに触れるなとか困るとか言ってたの」
「わしは大人やき……」
「わたしがベビードールで迫っても、なんでもないような顔して!」
「あれを我慢したわし、しょうげにまっこと褒められてえいぜよ……」
「好かれるためにってあれだけいろいろやってたわたし、莫迦みたいじゃない!」
「……あー、すまん。立香はえい子やき、勘弁しとうせ?」
以蔵は片手で立香を抱き留めたまま、片手で立香の頭を撫でた。
こんなことでごまかされてなるものか。立香は純情をすべて懸けて恋していた。つい先ほどまで、その気持ちをかわされてかわされて、絶望していたのだ。
許せない。乙女心をもてあそんで。
――と、いくら理性で思っても。
「今度だけ、だから……」
厚い胸に頬を預ける。以蔵はそこまで身長が高い方ではないが、身体はよく鍛えられている。大事なものを護るための身体に、いつまでも触れていたくなる。
「立香」
「なぁに」
以蔵は真面目な顔で立香を見た。
「こがなとこで言うがは……げに恰好つかんがじゃけんど……」
「わたしの間抜けさよりはマシだから、大丈夫だよ」
立香がささやけば、意を決したように口が開かれる。
「わしをおまんのそばに置かいてくれはせんろうか」
「それは?」
本当は、以蔵の言いたいことなんてわかっている。それでも立香は、同じ意味の言葉を違う角度から聞きたかった。
立香の言葉に、以蔵は含羞の表情を浮かべた。
「わしの……彼女さんになってつかあさい」
止まっていた立香の涙が、再びあふれる。しかし今度は歓喜の涙だ。
「あぁ、泣きなや……」
「こちらこそ、わたしの彼氏になってください。よろしくお願いします」
「……よろしゅうお頼み申します」
以蔵は立香の目尻に唇を落とし、こぼれる愛情を舌先ですくった。
その舌の、やけどしそうな温度が、立香の心も身体も熱くさせる。
(――こんなに幸せなことって、あるんだ)
腕と胸で包まれて、立香は己の居場所を知った。
ここから出たくない。いつまでもここにいたい。
今立香は、その願いを叶えてくれるであろう男に抱きしめられている。
テーブルに戻ると、一同は驚いたように立香を見た。
それはそうだ。しばらく席を外していた立香が、知らない歳上の男に手を引かれて現れたのだ。しかもその目は泣き腫らしている。
しかも以蔵の見た目は堅気に見えない。
普通の大学生が身構えるのもしかたない。
「幹事さんはおりますか」
以蔵の言葉に、幹事の男子学生は身を強ばらせてから手を挙げた。
「藤丸さんの分、これで足りますろうか。釣りはいらんです」
以蔵は財布から取り出した一万円札をテーブルに置いた。
この場のルールは少し特殊なのだが、それを説明する余裕はなかった。一回でも多く、一秒でも長くくっついていたかった。
幹事にお金が渡ったのを確認して、以蔵は立香の座っていた席を見た。現れる前から、どこかでこのテーブルのことを観察していたのだろう。
「すまんですが、藤丸さんの荷物取ってつかあさい。もう帰りますき」
立香はバケツリレー方式で受け渡されたカバンを受け取る。
「忘れもんないか」
「うん」
立香の顔を覗き込んでから、以蔵は学生たちのいぶかしげな視線を受け取った。最初の段階から気づいていたはずだが、立香の支度を優先したのだろう。
「わしですか? 藤丸さんの彼氏です」
「メイヴちゃん! この人が以蔵さん!」
立香はあわてて叫んだ。せめて一人だけでも、望んでこの人と一緒にいるのだとわかってもらいたかった。
メイヴはうなずいてくれた。
「ほいたら失礼します」
「また来週!」
二人はもの問いたげな雰囲気を振り払って店から出た。以蔵の爪の短く切り揃えられた指が、エレベーターの降ボタンを押した。
「おまん家まで送っちゃる」
「えっ、以蔵さんち行かないの」
「もう遅い、こがな時間やと泊まりになるろう」
「そこはほら、あれじゃないの」
「あれってどれじゃ」
「その……朝まで、身体で語り合う的な」
「勘違いしゆうようじゃが、まだ抱かんぞ」
「えっ」
素で太い声を出してしまった。
「ほんまは今日も言うつもりなかったがじゃ。大学出るまで大人扱いはせんきの」
「そんなぁ」
「学生ん本分は勉強やき、せいぜい励みぃ」
ちり、とベル音を立ててエレベーターが到着した。乗り込んでドアを閉じると、ケージが動き始めた。軽い重力を感じながら、どちらともなく抱きしめ合う。
「キスもしないの?」
勇気を出した立香の唇に、柔らかいものが当たった。一瞬の後、以蔵の顔が遠ざかる。
「こんくらいなら、の」
「ねぇ、以蔵さん」
うっとり見上げると、以蔵は視線を逸らした。
「なんじゃ、ほがな顔して」
「キスって、気持ちいいね」
「――っ! やめぇや、我慢できのうなる!」
以蔵は派手に赤面した。
本当は立香と先に進みたいのに、大人だからと我慢している人が可愛くて、ついくすくすと笑ってしまう。
本当は立香も、以蔵の意志を尊重したい。
しかしそれはそれとして、この熱く愛おしい感情を常に示したくもあるのだ。