実はなかば強引に帰ってきました 以蔵の仕事について、立香は詳しく聞かないようにしている。探偵業には守秘義務もあるし、あまり愉快ではない案件にもぶつかるという。できることなら立香は以蔵の愚痴聞き役ではなく癒しになりたい。
とはいえ、出張の予定は聞いておかないと生活に支障を来す。
今回は車で二時間の地方都市に、一週間から十日ほどの予定で泊まり込んでいる。期日が不確定なのは、ターゲットの行動に予定を左右されるからだ。
立香は自分にできることをするしかない。三日に一度以蔵の家を訪れて空気を入れ替え、いつ以蔵が帰ってきてもいいように掃除する。
逢いたい、淋しいという気持ちをごまかすための手段だが、以蔵が快適な顔をしてくれるのを想像すると頑張れる。
そんな風に以蔵の不在を憂えている、六日目の昼過ぎことだった。
『帰る』
と、LINEのメッセージが飛んできた。
仕事のおやつ休憩のタイミングで、あわてて返事をする。
『早くない?』
『ざんじ持って帰らんといけん証拠品がある』
『何時頃になる?』
『七時か八時、けど今日中に戻らんと』
そうか……立香は落ち込む。
以蔵も立香に逢えなくて淋しく感じている――と思う。
だからといって、個人的な恋愛事情を仕事より優先させていいわけがない。目先の欲に弱いとはいえ、以蔵は真面目な人でもある。自分のヘマで仕事を台なしにしたら、後悔するだろう。
立香もわがままは言えない。
以蔵とお揃いの、黒ポメラニアンがしょげているスタンプを送って残念さを表現したら、
『やき』
とメッセージの続きが来た。
『お前はお前の家におれ』
意外なひと言だ。どんな意図だろう。
『お前を補給したい。そのためにわざわざわしの家に呼ぶのは悪い。やき、待ってろ』
以蔵のメッセージには時折標準語が混じる。
(えっ)
その内容が、立香を動揺させる。
立香は今春大学を卒業し、晴れて就職した。
以蔵とは身も心も結ばれ、大変に幸福なのだが、まだプロポーズはされていない。そのせいもあり、以蔵は立香の家へはめったに来ない。
以蔵はいつも、
「嫁入り前の娘に妙な噂ぁ立たすわけにはいけん」
と言う。
立香はとっくに以蔵と添い遂げる気でいるし、以蔵もタイミングを測っているところが見受けられるのだから、気にする必要はないのに――と訴えても聞かない。やっぱり真面目な人なのだ。
そんな以蔵が、主義を枉げてまで立香の家を訪れる。
立香を補給したい、という言葉に込められた切実さ。仕事中でなかったら嬉しさに泣いていた。
『わかった、待ってる』
そう返事を送って、私用スマホをスリープさせる。
久しぶりの逢瀬に胸は高鳴るが、つまらないミスのせいで残業することになったら本末転倒だ。
立香は己の頬を軽く叩き、気合いを入れてPCに向き直った。
以蔵さんのため、わたしのため。
口の中でそう唱えれば、やる気は三倍増しになった。
ちゃんとした夕食を作る時間もないし、以蔵が何時に帰るかもわからない。
しかし、以蔵がお腹を減らしていた時のことを考えて、サラダチキンとカット野菜を買って帰宅し、手早く炒める。
自分の分の食事を済ませている間に、以蔵からまた連絡があった。
『今事務所出る』
坂本探偵事務所から立香の家までは車で二十分ほど。
『待ってる』
返事に既読がつく。リアクションがないのは、運転しているためだろう。
何を話そう。淋しかった、逢いたかった、と自分の都合ばかり押しつけたら厭な気分にならないだろうか。だからといって、忙しい以蔵に他愛ない日常の話をしてもいいものか。
そんなことを考えているうちに、
『着いた』
メッセージを受信する。
立香が玄関前に移動したのと同時にチャイムが鳴った。
チェーンを外して鉄製のドアを開けたら、待ち望んでいた人が立っていた。
光量の乏しい廊下にいてもわかるくらいに、左目の下の隈が濃い。
(どんなにハードな仕事をこなしてきたんだろう……)
そう思う立香との距離を即座に詰め、以蔵は立香を抱きしめた。上がりかまちの分だけ身長差がなくなっているから、顎に鎖骨が当たる。
以蔵のジャケットからは、重めの煙草の匂いと、以蔵自身の香りがする。これらが混じり合うと、立香はひどく安心できる。
以蔵はオレンジ色の髪のサイドに鼻先を埋め、すーすーと匂いを嗅いだ。
「お風呂、入るんだった……?」
「えい。おまんの匂い、嗅ぎとうて」
そのまま、腕の力が強まる。
立香は視覚、嗅覚、聴覚、触覚で以蔵に味わわれている。
五感にはひとつ足りない、と思っていたら、唇を重ねられた。唇の間から侵入した舌に舌を絡め取られ、粘膜を熱く愛撫されて、立香は思わず服の上からでもたくましさのわかる背中に腕を回す。
まっすぐ立っていられなくなった立香の腰を太い腕で支え、以蔵は抱擁を深くした。
「……あぁ、わしを笑え、立香」
唇の触れる距離で、以蔵は言う。
「何を?」
「たった一週間――逢わざっただけで耐えられのうなっちょる」
自嘲の色のある言葉に、立香は首を振る。
「そんなの――わたしだって同じだよ。以蔵さんに逢いたくて逢いたくて、我慢してごまかして、でもこうして逢えて……嬉しくて、泣きそう」
「立香」
呼びかけの後で、再度のくちづけ。
吐息ひとつも漏らすまいとする以蔵に、己のすべてを捧げたい。
そう思ったから、息継ぎの合間に立香は問うた。
「……抱く?」
以蔵は唇だけで笑って、立香の頬に軽くキスした。
「いや、えい」
その言葉に、少しだけ悲しさを覚える。
(以蔵さん、わたしのこと欲しくないのかな……?)
以蔵はそんな立香の弱気を見透かしたように言った。
「おまんが欲しい。それは確かじゃ」
「それなら」
「けんど、この短時間で抱くがは抜くがと変わらん。おまんを粗末にしとうない」
大きな手のひらが、細い背を撫でた。
「今夜はおまんを充電したかっただけじゃ。後でじっくり、愛させとうせ」
名残り惜しそうに腕に力を籠めた後、以蔵はそっと立香を手放した。
「また連絡する。戸締まりはしっかりせぇよ」
もう一度唇を重ねて、以蔵はドアの向こうに消えた。
すっかり以蔵を迎え入れるつもりになっていた身体が熱い。立香はへなへなと玄関に座り込んだ。
「――ばかぁ……」
自分の身体を抱きしめると、情けないうめきが口を突く。
しかし大事にされていることもわかっているので、以蔵を責められない。
その場にしばらくわだかまり、落ち着いたところで立香は立ち上がった。
まだシャワーは浴びたくない。以蔵の匂いが落ちてしまう。
まずは野菜炒めを冷蔵庫にしまおう。
以蔵はきちんとごはんを食べているだろうか。あの顔から察するに、食事にまで気を遣える環境ではなさそうだ。
本当に仕事が終わって帰ってきたら、腕によりをかけて晩餐を作ろう。お気に入りのケーキも添えて。
前向きな目標を見つけられたのはいいことだ。以蔵の笑顔を胸に抱けば、だいたいのことはできる。
立香は立香にできることをしたい。