もういっぺん、わろうとうせ① 女学校に入学して一年。海老茶の袴と矢絣の小袖にも、もう既に慣れてきた。
掃除当番を一緒にこなした級友と、葉桜の並木を通る。よしなしごとを喋りながら校門を出て、
「ごきげんよう、立香さん」
「ごきげんよう」
手を振って別れれば、同級生は黒いマント姿の男の人の隣に立った。
こちらに背を向ける二人を視線で見送った立香は、
「書生さんだ……」
とつぶやく。
娘を女学校にやれるのは、ほとんどがある程度以上の格式のある家だ。
裕福でない階層の家では娘を尋常小学校にすらろくろく通わせずに家事や内職をさせ、早いうちに嫁がせることも珍しくない。
立香の祖父は大店の三男で、本家からのれん分けを受けて華族など富裕層相手の商売をしている。
決して小さな家ではないが、どうしても本家よりも格が落ちる。
分家であることの劣等感や、取引先への宣布のため、父は立香を女学校に入れた。
女学校は良妻賢母を育てることを校訓として、学問よりも料理や裁縫に力を入れている。
その日常に不満はない。
けれど、女学生一人が市電に乗って通学するのは少々心許ない。そのことは入学時から父の悩みの種になっている。不測の事態が起こって、立香だけだと対応が難しくなる時もあるかもしれない。
そんな時書生がいれば、便利だろうか。
書生を養うのは、それだけ家計に余裕があると周囲に見せつけて優越感を得るためだ、と聞いたことがある。
同時に、書生が優秀な成績で大学を卒業して役人や実業家になった時に、家の繁栄の手段となってくれる可能性もある。
立香は家業の詳しい舵取りを知らない。いずれ嫁に出るのだからと誰も熱心には教えないし、立香もわざわざ聞きに行かない。
父は立香や弟に何不自由ない生活をさせているが、書生を入れるほどの余裕はないのだろうか。
そんなことを考えていたら、数日後の食事中に父が言った。
「今度、書生を一人取ることにした」
家父長である父はしばしば事後承諾を求める。
あまりの理不尽には口を挟むこともあるが、今回は別に悪いことではない。
「まぁ、いったいどういう風の吹き回しで」
母が訊くと、
「本家はもう二、三人書生を養っている。我が家も負けるわけにはいかんが……まだ勝手がわからんからお得意先に相談してみた。そうしたら、お客様が懇意にしている素封家の方を紹介された」
父は整えた口ひげを嬉しそうに揺らした。
「土佐のご出身で、政府のお役人ともずいぶんと繋がりがあるようで」
そういえば、『薩長土肥』という言葉を聞いたことがある。
御一新に貢献した薩摩・長州・土佐・肥前の四藩の出身者が、今の政府の主導権を握っているという。
その素封家も、お役人と便宜を図り合っているのだろう。
「くすぶっている逸材の面倒を見てくれる家を探していると言うことでな。将来有望だが貧乏士族の出身で、中学の学費を出したらろくに飯も食えんと」
「それは大変」
「素封家のお宅に寄寓していたその青年とも会えた。土佐訛りがひどいが、なかなかに賢い。面倒を見る価値があると思えた。これからの世の中、青田買いで優秀な者を確保するのががますます大事になる」
父の言葉に、
「一度顔合わせしなければいけませんねぇ。こちらがよくても、本人が我が家を気に入らなければ困りますから」
母もうなずく。
「……お父様」
立香が小声を出すと、父はもの問いたげにこちらを見た。
「どうした、立香は不満か」
「いえ、そうではないんですけれど……その方、うちに住むんですか?」
「それは書生だからな、場所を作って住まわせる」
その言葉に、立香は返す。
「わたし、ちゃんと男の人とおしゃべりしたことってなくて」
さすがに文明開化も根づいて『男女七歳にして席を同じくせず』とまでは言われなくなった。尋常小学校も共学だ。
それでも、男子といえば小学校時代の洟垂れの同級生しか知らない。
女学校に通う長女の立香には、大人への階段を上り始めた青年と接する機会はない。
(野蛮な人だったら怖いな……)
同級生の家から迎えに遣わされる書生たちには、気難しそうな者もいる。
大人の男性を父と教師しか知らない立香に、書生との生活などできるだろうか。
不安を覚える立香をよそに、六歳歳下の弟は弾んだ声を出した。
「ショセーさんって男の人なんだ」
そこからか、とずっこけかける。
「そうだ、お前はずっと『兄様が欲しい』と言っていたな」
「はい! 姉様だけじゃつまんない」
「見たところ、真面目そうな青年だ。兄と思って慕うといい」
「俺に兄様ができるんだ!」
まだまだ声変わりも遠い弟は、もう話が決まったとばかりに碧眼を輝かせている。
「落ち着きなさい」
と弟をたしなめる立香だが、生活が変わる予感も覚えて胸の鼓動を止められない。
それが吉凶どちらの兆しなのか、つかみかねずにいた。
普段着でいいと言われたが、立香は赤い珊瑚の玉があしらわれた髪飾りをつけた。
藤丸家の家族が上座に座り、
「入りなさい」
と、父が廊下へ声をかける。
障子の陰から現れたのは、色あせた粗末な小袖と袴の下に襟のすり切れたシャツを着た青年だった。
父の前で正座し、青年は指を揃えて頭を下げる。
「ご家族様方にはお初にお目にかかります。土佐から参りました、岡田以蔵と申します」
確かに言葉にはお国訛りが強い。立香は土佐弁で喋る者を初めて見た。
髪は黒く、時代錯誤に長い。
(もしかして、バンカラの人なのでは)
バンカラとは学生の中でも、おしゃれな恰好をして流行の最先端を気取るハイカラをよしとせず、あえて粗末な身なりで乱暴に振る舞う者たちだ。
資産家の世話になる者なら、ある程度身だしなみも整えるはずだが。
立香はいっぺんに怖さを募らせる。
「顔を上げなさい、我が家の家族を紹介しよう」
父の呼びかけに、以蔵は顔を起こした。
ひどく時間の進みが緩やかになる。
右目は長い前髪に隠されている。あらわになった左目は飴色で、父の言うように知性が見え隠れする。
薄めの唇は閉じられ、真面目さが際立っている。
思っていたよりも端正な顔に、我知らず目を奪われた。
「こちらが妻、娘と息子になる。どうだお前たち、以蔵くんは」
「まぁまぁまぁ、恰好はもう少し綺麗にした方がいいけれど、よく働きそうな子ね」
母はいっぺんに以蔵を気に入ったようだ。
「書生は下男じゃないぞ、勉強にも力を入れてもらわないと引き取る意味がない――立香はどうだ」
「あ、はい」
水を向けられても、とっさには感情を言葉にできない。
第一印象の怖さと、それを覆す顔立ちに戸惑う。
立香の言葉を待たず、弟が叫んだ。
「兄様!」
以蔵は左目を見開いて首を巡らせた。
「兄様がおられるがですか……お子はお嬢さんとお坊ちゃんだけじゃと伺うちょりましたが」
「あぁ、『兄様』とは君のことだ。兄だと思って慕えと言ってからずっとこの調子でな」
「はぁ、そりゃ光栄です。もちろん書生としての分はわきまえますけんど――もしお世話になるがやったら、ほればぁ慕うてくれゆうがは嬉しいです」
地黒の顔から覗かせる歯は白い。
脳髄を揺さぶられているような心持ちだ。
「立香、何か挨拶しなさい――以蔵くん、これは世間知らずでな。書生というのはみな荒くれ者なのではないかと怖がっている。実際に君を見れば印象が改まると思っていたのだが」
「……こんにちは、立香と申します。よろしくお願いいたします」
胸の中の感情を整理できないまま、立香は名乗った。
以蔵は初めて立香を見た。そしてぱちくりと何度かまばたきをして、数秒固まる。
「……はっ」
以蔵はあわてて深々と頭を下げた。
「こ、こちらこそよろしゅう……立香お嬢さん……えいお名前ですのう」
先ほどよりもわずかに声が震えている。
「そうなのだ、少し耳慣れない名前だが」
「少しくらいハイカラな方が覚えてもらいやすいかと思ったの」
母と笑い合っていた父が、以蔵に向き直った。
「私は一度聞いたが、うちの家族にも聞かせなさい。この家の書生になって、どんな未来を思い描いているか」
「はい」
以蔵は将来の展望を語り始めた。
土佐から東京の中学へと転籍し、藤丸家で細々とした用事を申しつけられながら勉学に励む。中学卒業の年に一高に受からなかったら、 二年まで浪人をする。二年の間に入学試験を突破できなかったら潔くあきらめ、働きながらそれまでの生活費を返す。
「もちろん、絶対に受かる気持ちでおります。けんど、見込みがないがに浪人を重ねたらお家のご迷惑になりますき」
「いや、君は目の光が違う。土佐の中学の通信簿を見せてもらったが、座学の科目はすべて甲だった。体育も甲だったな。文武両道だ」
「周りの出来がようないき目立っちょっただけです……一高から帝大に入りましたらいっそう奮迅して、官僚を目指すつもりでおります。旦那様やご家族様のために身を粉にして働こう思うちょります」
「いいんじゃないかしら。あなたがおっしゃるなら優秀なんでしょう。うちも男手が足りないと思っていたのよ」
「うん、頭のいい兄様だったらいい!」
母と弟も乗り気である。
具体的な将来設計をし、それを順序立てて出資者へ伝えることができる。その口ぶりには、目標への努力を惜しまない意志も感じられる。
その如才なさを、父は気に入ったのだろう。
「前に義父が使っていた離れがあるのよ。今は物置になってるけれど、そこを書生部屋にするのはどうかしら」
「気が早いぞ。――まぁしかし、我が家の意見は一致した。立香もいいな? 是非とも面倒を見させてほしい」
「あ……ありがとうございます」
以蔵は興奮して畳に額をこすりつけた。
(この人と一緒に暮らす……)
立香にはまだまだ実感が湧かない。
「小袖も袴も、主人が着古したものが何着もあるわ。仕立て直してあげるから、うちに来たらそれを着ちゃいなさい」
「いや、ほがな……ご迷惑ですろう」
「うちの書生として羞ずかしい恰好はさせられないわ。立香も手伝いなさい。以蔵さん、この子はね、女学校でも裁縫の授業で甲を取るの」
母はもともとはぎれ布を使って市松人形に小袖や振袖を仕立てるのが好きだ。着替えさせ甲斐のある新しいおもちゃを見つけた気分なのかもしれない。
「お嬢さんは女学校に通われゆうがですか。座学の授業もありますろう。わしでよければ、わからんところも教えちゃれます」
以蔵の言葉に、母は笑った。
「いいのよ、そんな! 女の子は家のことができて愛想よく笑ってればいいの。勉強なんてしても意味はないし、嫁ぎ先で生意気を言っても困るもの。あなたは家の仕事をなさい」
母の口癖に、ほんの少し眉をひそめてしまう。
実際に母は、学がなくても立派に藤丸家の奥を回している。女は簡単な読み書きと家計をやりくりする時のそろばんができれば充分だ、というのが持論だ。
立香に『女としての幸福』を味わわせたい、と善意で言っているのはわかるのだが。
ちら、と以蔵は立香を見た。
「だから以蔵くんには勉強をだな……」
ため息をつく父の横で、弟が歓声を上げた。
母はその日のうちに巻尺で以蔵の寸法を測った。
「こうなるががわかっちょったら新品の褌ばぁ着けて来ればよかったです……」
裏口から帰る時、見送った女中にそうこぼしていたという。
母と立香は大急ぎで父の着物を仕立て直した。
一ヶ月後、行李を風呂敷で包んで背負って来た以蔵は書生部屋として片づけられた離れに通された。行李を置いて、母屋の居間で母に額づく。
「奥様もお嬢さんもお忙しいがに小袖と袴を三揃えも仕立ててくださって……わしはもうなんと礼を言えばえいか」
「いいのよ、その代わり明日から働いてくれれば」
その言葉の通り、翌日から以蔵は雑務を仕込まれた。
夜明けとともに起きて、玄関と中庭をほうきで掃く。
手を抜かない程度に掃除を早めに終わらせ、朝餉の前に教科書を広げる。
膳を片したら中学に通い、夕方に帰宅してからも仕事は満載だ。
父の書斎に呼ばれて書類を清書する。
今まで手代と丁稚が交代でやっていた薪割りを一手に任される。
短期間ですっかりなついた弟もあしらわなければいけない。
そして――
女学校の休み時間中、
「ねぇ、立香さん」
同級生の一人が問うてきた。
「立香さんのお宅に、新しく書生さんがいらしたの?」
うなずくと、同級生たちはきゃいきゃいと鳴き始めた。
「最近、校門の横に立っている殿方!」
「端正なお顔で! 少し時代がかったお姿!」
「どことなく憂いを含んだ表情……どなたのお迎えかと見ていたら……」
「先週お父様が引き取って、わたしの通学はちょっと危ないから迎えだけでもって」
立香が言うと、
「いいわねぇ、うちの書生はいつまでも芋っぽさが抜けないの。大学にも本当に通ってるのかどうか。立香さんの書生さんはどう?」
「うちの書生さんはまだ中学生で」
「中学! お若い!」
女三人集まれば何とやらで、女学生たちはちょっとした日常の刺激にも盛り上がる。
特に、殿方の話題になればみな桃色の雰囲気を出して笑いさざめく。
あのレストランのボーイは。あの芝居小屋の役者は。あの通俗小説の主人公は。
立香はその空気を邪魔したくはない。
(――けれど)
こっそり、息を吐く。
みな、どこかではわかっているのだろう。
自分たちに、慕う殿方と添い遂げる自由などないということを。
親の言うまま、娘たちは望みも言えず家同士の結びつきや利益のために結婚する。
女学校に在学中でも、縁談がまとまれば中退するのが当たり前だ。
むしろ、嫁ぎ先が決まらず卒業を迎えると『嫁き遅れ』と蔑まれる。
庶民にはそこまでの縛りはないらしいが、娘を女学校へやるような家の娘は『財産』だ。
『財産』には人権がない。
女学校という猶予の間、少しはしゃぐことくらい許してほしい。
殿方を巡るから騒ぎには、そんな悲哀もにじ出ている。
始業の振鈴が鳴り、男性教諭が教室に入ってきた。
「お前ら、席に着け。授業を始めるぞ」
女学生たちは蜘蛛の子を散らすように着席し、授業の支度をする。
(勉強なんてしても意味はないし)
母の言葉が脳裏に蘇る。
五時間目までの授業が終わり、荷物をカバンにしまって教室を出る。
主家の女学生を迎えに来た書生たちが何人かたむろしているが、マント姿の以蔵は目ざとく立香を見つけて会釈した。
立香も歩み寄って顔を向ける。
「お嬢さん、ご苦労様でございました」
「わたし、以蔵さんほど忙しくはないから」
以蔵は学校帰りに女学校へ来ているから、教科書や帳面の詰められたカバンを持っている。
「持ちますき」
「大丈夫だよ、そんなに重くないから。以蔵さんの方が大変でしょ?」
「ほがに重うないがやったらわしが持っても負担にならんですろう? お嬢さんに荷物持たすらぁ書生の恥ですき。持たいてつかあさい」
その理屈はもっともだ。言葉を間違えた、と思いながら渋々とカバンを手渡す。
「行きますかえ」
以蔵の言葉に立香はうなずき、市電の電停へ向かって歩き出した。
呼び方にもひと悶着あった。
両親は早々に呼び捨てを始め、本人もむしろそう呼ばれるのは当然と言った風だったが、立香は使用人とはいえ遠い親許から勉学のために上京して来た人を粗略に扱いたくなかった。
「以蔵さん」
「何度も申し上げましたろう、『さん』は要らんです。呼び捨ての方がこっちも気安うお仕えできますき」
「兄様! 兵隊ごっこしよう! 日本役は交代でいいよ」
「『兄様』も! わしが兄やんらぁ恐れ多いですき!」
藤丸家の姉弟の折衝の結果、『以蔵さん』と呼ぶことでひとまず落ち着いた。
女学校の前の道から、電停の走る表通りへ出る。以蔵は立香の一歩後ろを歩く。
振り返ると飴色の左目は鋭く、立香を害する者を見逃すまいという気合いが見て取れる。
「お嬢さん、わしんことらぁ気にせいでつかあさい。護衛は対象に護衛されゆう思わせたらいかんですき」
まるでちょんまげを結った武士のようなことを言う。貧乏とはいえ士族の出身だから、家訓でもあったのだろうか。
「いけないの?」
「対象の行動を制限させることになりますき。ほれ、前向いて歩かんと危ないですき」
以蔵にうながされ、前を向く。電停に着いたらちょうど市電が来たので乗り込む。
以蔵は座席のある車内真ん中には行かず、車両の端に立香を閉じ込めるように立つ。
「混んじゅうとこにおったら護りづろうなりますき」
一度乗り換え、家の最寄りの電停で降りる。
陽は少し傾いて、空はほんのり赤さを増している。
「ありがとうね」
「礼言われることやないです。お嬢さんを護るゆうががわしん仕事ですき」
「仕事……」
その言葉は、一粒の氷の塊のように立香の心を冷やした。
その理由を探そうとしたら、以蔵は背後から言った。
「お嬢さん、学校は楽しいですかえ?」
「……どうしたの、急に」
「ここ一週間ばぁお迎えしちょって、お嬢さんのお顔拝見しちょったら、なんとのう聞きとうなって……好きな科目はありますか?」
思ってもいなかった問いに、考える。
古文はいい。物語や和歌を紐解くと、当時の人たちの考えていたことがわかる。今の世まで残ったものは普遍的で、かつて己と同じことを考えていた人がいたと知れば安心できる。
英語はアルファベットと簡単な文法と単語しか教えられていないが、言葉がわかれば築地や横浜の外国人が怖くなくなるかもしれない。
しかし――
(勉強なんてしても意味はないし)
「裁縫と、唱歌かな」
口にすると、少し心が濁る。
本当のことが、喉の奥でせき止められている。
もちろん、裁縫も唱歌も嫌いではないのだけれど。
「お嬢さん」
以蔵はほんの少し低い声を出した。
「わしは歴史が好きです。覚えることがこじゃんとある暗記科目じゃ思うちゅう者も多いし、実際試験でもへごい引っかけ問題出す教師もおるけんど……歴史には流れがあります」
「流れ?」
「例えば――桓武帝が皇子をこじゃんと作られたき、ご子孫に平将門が生まれた。将門は坂東武者の不満を取りまとめて、形にして乱を起こした。お父やんとうもういかざった源義朝が坂東に根ぇを張ったき、そん息子の頼朝が挙兵した時に御家人がようけ従うた。朝廷を軽んじる――ゆうがはちっくと違うけんど、権威よりも権利を取った北条義時と坂東の御家人は後鳥羽院を攻めて恐れ多うも隠岐へお流しした。戦の恩賞の領地を巡る御家人の争いがあちこちで始まって、こんままじゃ武士が滅びる思うた義時の息子の泰時が御成敗式目を作って広めた。はるか先の世で、権現様は御成敗式目を参考にして大名や武士を取り締まる武家諸法度を作った。御成敗式目は、江戸の世でも寺子屋でジャリが暗唱しちょった」
文学でない歴史には疎い立香はすべてを理解することはできなかったけれど、『流れ』はなんとなく感じられた。
「ここで起きたこととあこで起きたことが繋がっちゅう、ゆうことはこじゃんとあります。ほれを見つけた時は――心が踊ります」
声音から、うっとりとした以蔵の表情が見えるようだ。
「まぁもちろん、楽しいことばっかりやないです。けんど楽しいことを知っちょれば、えずいことがあっても乗り越えられる。勉強ゆうがは試験や出世のためだけにあるがやないがです」
「それが、どうしたの?」
話の着地点がわからず、立香は訊いた。
「お嬢さん」
以蔵の呼びかけには、優しさと温かみがある。
「好きなもんを好きじゃ言えんことはある思います。ほんでも、好きなもんを好きでおることはよさんでつかあさい」
その時立香は初めて、母の言葉が己を縛る枷になっていると気づいた
「初めて会うた時に、奥様がおっしゃっちょりましたろう。『女に学は要らん』ち。あん言葉を聞いた時のお嬢さんのお顔見よったら……わしがお父やんから『金がないき中学はよせ』言われた時んことぉ思い出したがです。
――なんとのう、なんとのうですけんど」
振り向いたら、以蔵は笑っていた。眉間には苦いものを飲み込んだような皺が寄っていたが、口許には確かな達成感があった。
「お父やんの言うことに従うちょったら、道は開けざった。藤丸の旦那様にお目文字することものうて、土佐で『ほんまはもっとやれちょったはずじゃった』思いながら人に雇われるか畑を買うちょったでしょう。好きなもんを捨てる後悔は一生もんです」
熱心に語る以蔵と目が合った。以蔵ははっと目を見開いて、あわてて深く頭を下げた。
「も、申し訳ございません! まだお家にお仕えして一週間の書生かたけが、お嬢さんにこがなわかった風な口を……出すぎました、忘れてつかあさい!」
公衆の面前でなければ、土下座していそうな勢いだ。
「……ううん、以蔵さん。ありがとう」
以蔵はわずかに頭を上げる。飴色の左目には疑問符が浮かんでいた。
「礼を言われることやないです、むしろお叱りを受けるべきで――旦那様に『こがなことぉ言われた』とお伝えくださっても」
「ほんとにありがとうね」
「……どういて、礼らぁ言うがですか……?」
「帰ろう。以蔵さん、やることたくさんあるでしょ?」
以蔵は太陽の高さを見て、
「確かに、ほうです……」
と言った。
「薪がないと炊事に困っちゃう」
「……承知、いたしました」
立香たちは裏口から帰宅し、以蔵はすぐに離れへ向かった。荷物を置いて、薪置き場に行くのだろう。
立香は厨で急須のお茶をもらい、盆に載せて母屋の自室へ戻る。
柱に寄りかかり、お茶を茶碗に淹れてすする。
先ほど初めて自覚した、己を縛る枷。
女が学を積んでも学者や官僚になれるわけでもないし、そもそも女子が高等教育を受けられる場はほとんどない。
けれど。
(好きなもんを好きでおることはよさんといてつかあさい)
立香はそばの棚から百人一首の本を引き寄せた。
藤原定家が撰んだ和歌の作者は、天智天皇から順徳院まで約五百五十年に及ぶ。
そこには恋が、四季が、機知が、嘆きが詠われている。
母からすれば、これも家庭を営むにあたって無駄なことだろう。
立香は以蔵の微笑みを思い出した。
好きなことを好きでい続けること。
無駄なことが心を豊かにする。
もう一口、お茶をすする。
「……おいしい」
今まで、お茶の味など特に意識してこなかったのに。
やがて夕餉の支度ができたと呼ばれた。
藤丸家ほどの商家でも、毎日白米を食べられるわけではない。
しかし今日の七分米は普段よりもまろやかで柔らかい食べ心地がした。
食事を終えて膳を厨へ持って行くと、中から以蔵の声が聞こえた。
「……こがにうまいもん食えてえいがか」
最年少の女中に話しかけているらしい。
「うまいもん、ってこれご家族が食べるもんじゃなくてあたしたちとおんなじまかないだよ」
「言うたち、米には粟も稗も入っちゃぁせんし、野菜もこがに味がして……味噌汁にも具が入りゆう。まぁ魚だけは土佐のが新鮮じゃけんど」
「あんた、よっぽどな暮らししてきたんだねぇ……」
女中の言葉には同情がある。
「まぁ、おいしいって言ってくれるのは嬉しいよ。あんたが割った薪で作ったごはんでもあるんだから」
「おまさんらぁが作った飯でもあるき」
女中も住み込みで働いているが、暮らし向きが豊かでない者同士共感できるところがあるのだろう。
ちくり、と胸が痛んだ。
(……なんだろ)
違和感に戸惑いながら、厨へ入る。以蔵はちょうど女中に膳を渡していた。
続けて膳を渡す立香へ、以蔵は言った。
「今、藤丸のお家はまっことありがたいと話しちょったところです」
「うん、そう言ってもらえて嬉しいよ。お勉強頑張ってね、昼間の学校やお仕事に障らないぐらいに」
「はい」
以蔵は笑った。
その白い歯と細めた左目を、先ほど女中にも向けていた。
そう思うと、無性に心が曇る。
己の心の動きを追えず、立香は困り果てながら部屋へ戻った。
(まかない……)
当然、立香は見たことすらない。家族には女中が腕によりをかけた膳が出る。
(まかない、どんな味がするんだろ)
気になるが、当然食べることなどできない。
もし立香が「まかないを食べたい」などと言ったら、母は身分の別をわきまえない立香を叱るだろう。
女中頭は、家族が満足できる食事を供することができなかったと罰を与えられるかもしれない。
そんなのは、立香の望むことではない。
ざわざわする心を鎮めたくて、ランプに火を点ける。
少女雑誌をめくって、流行りの小袖の柄を眺めても、落ち着かなさの理由は見つからなかった。
今日も立香は以蔵の迎えで帰途についていた。
市電はいつもよりも混んでいる。
「お嬢さん、えずうないですか」
「えず……?」
「あぁ、つろうないですか」
以蔵の土佐弁は、時たま理解が難しい。
「わしができる限り護っちゃりますけんど……苦しゅうなったら言うてつかあさい」
うなずく立香に、以蔵は微笑った。
白い歯に、心がそわそわする。
ともあれ、以蔵が人波を食い止めてくれているおかげで、そこまでの圧迫感はない。
このまま落ち着いて帰宅できれば――と思った時。
車輪が何か固いものに乗り上げたのが、床から足の裏へ伝わった。
同時に、車両が大きく揺れる。
金属の軋む音がする。急ブレーキをかけたのだろう。
つり革に掴まって立っていた乗客が均衡(バランス)を崩し、進行方向――立香と以蔵が立っている端っこに雪崩のように押し寄せる。
「お嬢さんっ」
腕を突っ張る以蔵の抵抗は無駄に終わった。
「きゃっ……」
押しつぶされて、肺の中の空気が残さず口から出る。
頬に何かが当たっている。
硬くて温かい、頼り甲斐のあるもの。
「……っ」
耳許で小さく息が吐かれた。
「お嬢さん……なんちゃぁないですか」
低く抑えられた声が、ひどく熱く感じられる。
目の前に耳があった。
「う、うん」
必然的に、立香もその耳にささやきかける形となる。
「どこぞ痛うはないですか」
手足の爪先から胴体まで感覚を確認するが、痛む場所はない。
「大丈夫、以蔵さんの、お、か……」
そこで初めて、立香は己が以蔵の腕の中にいることに気づいた。頬に当たっているのは肩だ。
大きく唾を飲み込んでしまう。
その音に気づいたのか、目の前の耳が真っ赤に染まる。
「お嬢さんっ……!」
以蔵はもぞもぞと身体をひねる。しかし、倒れかかってぎゅうぎゅう詰めになった人たちのせいでうまく身動きが取れない。
「申し訳、ございません……!」
「いや、以蔵さんの、せいじゃないから……!」
頭に血が上ったが、できることもなく密着し続ける。
やがて車両中央の方から人が体勢を取り戻し、圧迫感がなくなっていく。
ようやく身を起こした以蔵は立香から身を離し、頬を染めて視線を逸らした。
「……石でも踏んでしもうたがですかの」
「危ないね。一歩間違えたら脱線してた……」
「こっちは気のつけようがないですき」
「市電に乗らないわけにはいかないしね」
「もっと線路ぉ整備してもらわんといかんですの」
立香はなんとか自然な会話をしようとする。
しかし心には洪水のような感情の波が立っていた。
熱い吐息。硬い肩と胸。わずかな汗の匂い。高鳴る鼓動。
しばらくずっと感じていた不可解な心の動きに、正解を突きつけられている心地だ。
(昔はものを、思はざりけり――)
女学校入学以来同世代の男性と接して来なかった立香は、こんな気持ちを知らなかった。
以蔵のことをもっと知りたい。土佐でどこへ行き、誰と喋り、何を食べていたのか。
腕を背中に回されて、抱きしめられたい。頼りになる男らしい香りを、もっと感じられるだろう。
うっとりと語られる夢を、誰より近くで聞きたい。毎日雑務をこなしつつ、何を励みに勉強しているのか。
したいこと、されたいことを全部叶えるには、一生涯以上の時間が必要だろう。
恋の和歌が脳裏に浮かぶ。
(恋ぞ積もりて、淵となりぬる)
昔の人は、己の気持ちを思うがままに謳っていた。
同じように、以蔵への感情を表現できたらどんなにいいか。
(――でも)
冬の冷えた水を浴びせられたように、現実が立香を襲う。
以蔵は土佐から東京の中学へ転籍した際、一年留年したと言う。
あと二年で中学を卒業し、浪人せずに一高へ入学できたとしたら十九歳になる。
その頃立香は十六歳。
十五、六になれば、良家の令嬢には縁談が次々と舞い込む。遅くとも女学校を卒業する十八までには嫁ぐことになるだろう。
その頃の以蔵は一高を巣立っているか、帝大の門をくぐっているか。
とても結婚を考えられる状況ではない。
以蔵が嫁取りを意識するのは、就職して仕事が軌道に乗ってきた二十代半ば。
縁故で紹介されるのは、間違いなく女学校に通う年頃の少女だ。
家庭に入った立香には、既に子が二人ばかりいてもおかしくない。
とうてい、以蔵と添い遂げることなどできやしない。
自覚した次の瞬間に破れた恋。
素敵な殿方に憧れを抱いて、結婚という現実から逃避する級友を思い出す。
夢物語で空虚を埋められればいいだろうか。
けれど――
(好きなもんを好きでおることはよさんでつかあさい)
あの時の言葉が胸に蘇る。
好きなものを好きでいることをやめたくない。
立香にとって、それは以蔵だ。
この先どんな釣書が届くとしても、以蔵より素敵な人などいないと断言できる。
「――お嬢さん」
以蔵が気遣わしげに問うてきた。
「ほがにづつなそうなお顔ぉなさって……やっぱり、どこぞ怪我しゆうがやないですかえ」
飴色の左目が、少し距離を取って立香を見ている。
それほど、気持ちが顔に出てしまっていただろうか。
この恋は秘めなければならないのに。
しかし同時に、いたわられたことで胸から温かい恋情も湧く。
立香はこんなに現実的で現金だ。
「ううん、大丈夫。ありがとう、心配してくれて」
「けんど」
「大丈夫だから、以蔵さんが護ってくれたから」
「ほいなら……えいですけんど」
車外で安全確認をしていたらしい運転手が、運転席に戻った。
「大変お待たせいたしました、発車いたします」
拡声器越しに、車内に声が響く。車両ががたりと震え、動き始める。
「お嬢さんを危ない目ぇには遭わしません。わしでよければ、何でもしますき」
決然と、以蔵は言う。
『何でも』
それは書生の分をわきまえた範囲のことだろう。
立香をさらってどこかへ逃げる――なんてことをするには、以蔵は真面目すぎる。
それでも、己を思って行動してくれるのは嬉しい。
「わしが護りますき」
「……うん」
改めて愛しさを感じて頬を緩めてしまうと、
「ほうじゃ、お嬢さんは笑うちゅうがが一番えい」
と、以蔵も報われた風に白い歯を見せた。
やっぱり地黒の肌に映える。
なるべく、以蔵の美点を見つけたい。
猶予の間に手に入れられる小さい幸福を、できる限り集めたい。
今後立香に待ち受ける運命から、少しでもこのはかない恋心を護るために。