それから時が流れて十月三十一日。
良守は兄である正守の職場兼住居である夜行本拠地へやってきた。
なぜかといえば、栞を貰ったあの日、その礼をさせて欲しいと良守が半ば強引に頼み込んだからだ。
今日は、夜行にいる子供たちのためにハロウィンパーティーが開催される。その手伝いをしに来たというわけだ。
楽しい催しが嫌いではない良守は、今日という日をそれなりに楽しみにしてきたのだが、一抹の不安もあった。
どうにも、正守に距離を置かれている気がする。
というのも良守は喫茶店で偶然再会したあの日以来、正守とまともに連絡を取れていないからだ。厳密に言うとハロウィンパーティーの手伝いに関するやり取りはしている。けれど、それは淡々とした事務的なもの。
例えば良守がたわいない話を始めようとすると「悪い、仕事が入った」などと、正守はあからさまな嘘をつく。
それが何度も続けば、当然良い気はしなかった。
どうして避けられているのか考えてみても、良守に心当たりはない。
原因があるとすれば数週間前、あの喫茶店での出来事なのだろう。
良守にとってあの日は、運命を感じるような出来事の連続であった。久々の再会は偶然の産物。大学帰りにふらっと寄った喫茶店で、五年ぶりに正守と対峙して密かに心を震わせたものだった。何故ならあの日、良守は秋空に兄への想いを零していたからだ。
正守と会わず過ぎ去っていく日々、そのなかで積み重なっていく晴れない心のモヤつき。
兄弟間の溝は幼少よりも確実に埋まっているはずだが、二人の関係性は平行線を辿り、決してその距離は縮まらない。
家のしがらみが無くなった今、正守と話したい話題が沢山ある。術のこと、裏会のこと、それから母のこと。聞きたくても聞けないジレンマを抱え、この五年間もどかしく思い続けてきた。
携帯を持ち始めた末の弟とは、よく電話やメールでやり取りをしているときく。
何故、自分には連絡を寄越さない?
影宮や氷浦からの情報によれば、正守は元気に過ごしているという。
何故、実家に帰ってこない?
そんな苛立ち、謎の焦燥に襲われ、二十歳を迎えてから正守が夢に出てくることもしばしばあった。
そうして、良守は思い悩む。
この気持ちは一体なんなのだろうか、と。
今まで兄から相手にされなくても、こんな苦さを感じたことは無かった。
最後に正守と話した日を思い出せないほど季節が巡っているのに、逢いたい気持ちが日に日に増して爆発しそうになる。
それは兄弟へ向ける感情を超えているのではないか。
何度も吐き出した重く苦しい溜息は、いずれいわし雲に変わる。
喫茶店で思い憂いていたのは、交わらない正守との運命についてだった。
『会いたくなって、来ちゃった』
一目見て好きだと確信した。
27歳になった兄の色気に当てられて、動揺を隠すために心を沈める術を使っていたのは、一生の秘密にしたい。
あの日、良守は秋空に兄を想って溜息を零していた。そうしたら目の前に突然、その想い人が現れた。そんな運命的な再会に良守は驚きつつも喜びを感じていたのだが、しかし、それは良守だけの感覚であったのだろう。
あの日以来良守は、正守に避けられている気がしてならない。思い当たる節を絞り出すとしたら正守は、良守に栞を譲った辺りからどうにも様子がおかしかったことか。
正守は栞を懐から落とし良守へ譲ったあとから、何を話しても心ここに在らずだった。そんな様子が良守はずっと気がかりで仕方がなかったのだ。
あのとき良守はもっと色々な話しをしたかったのだけれど、正守はそれを遮って「帰ろう」と言い出し共に実家へ戻った。そして、その道中は終始無言。出会い頭はウザったいほど饒舌だったのに、一体どういう心境の変化が起きたのか、良守にはその訳が全く分からなかった。
さっさと先を行く兄の背を追いかけ、必死に思考をめぐらせる。
どうして機嫌が悪くなったんだろう。
その理由を考えてみた。
俺が泣いたからか?
いいや、兄貴は俺が泣けば泣くほど喜ぶ鬼みたいな性格だから、きっと違う。
じゃあ、なにか気に障ったのか。
思考して、ひとつの答えに辿り着く。
もしかして、あの栞は正守にとって大切なものだったのではないか?
そう気づいた途端、前を行く正守の傍に駆け寄って栞のことを尋ねた。
「兄貴!あのさ!」
「なに?」
そう言って、振り向く姿が美しい。
イチョウ並木が続く道、黒衣の和装はとてもよく映えた。舞い落ちる木の葉が肩に落ちるのを目で追って、息を呑む。熱を上げて赤らむ頬は、決して寒さのせいではないのだと思い知ってしまう。
良守は乱れる気持ちを振り切って、正守に一つ訊ねた。
「これ、本当に貰ってよかったのか」
しまい込んだ栞を取り出し、視線を落とす。
もし、思い入れのある大切なものであるなら良守が興味本位で貰うわけにはいかない。ねだった自覚はあるが、そもそも良守は栞が欲しかったわけではないのだ。
興味を持ったのは、正守の私物だったから。
正守はいつだって模範的な優等生で、だから掴みどころがない。趣味も、服の好みも知らない。それくらい、彼の個性を感じることは少ないのである。
そんな正守から、なにか贈り物をされたかっただけ。だから別に、その物自体はなんだって構わなかった。
『良守にあげようと思っていたものだから』
そんなありふれた世辞を、馬鹿みたいに鵜呑みにして喜んでしまった。そのくらい良守は正守に惚れている。
でももし、何か忘れたくても忘れられない別の想いが栞に込められていたら…例えば別れた恋人のものだったとしたら話は別だ。
そんなものは欲しくない。
俺はゴミ箱じゃないんだぜ、なんていう醜い感情が心を曇らせていく。
「急にどうした?」
ポン、と頭に手を置かれて乱雑に掻き乱される。
大きくて安心する手のひら。
雑なのに優しさを感じる、そういう仕草ひとつひとつに心臓が跳ねる。
「…栞なんて貰っても迷惑だったか」
「違う!」
「なら、それはもう良守のものだから。いらないなら捨ててくれ」
そうじゃない。そんな顔をさせたかったわけじゃない。
と、言いたくても言えなかった。
押し黙る良守を正守は軽く笑って、それきり何も口にしなかった。
自然と正守は歩みだし、そのあとを追って帰路に着く。
正守はいつだって、良守の隣を歩かない。
良守は正守の背を見ながら、喫茶店の記憶を噛み締める。
『いい答え、見つかるといいな』
そう言ったときの優しい笑顔。
慈しむような暖かい笑みだった。そんな正守の顔を思い出して、少しだけ心が軽くなる。
あのとき目に焼き付けた正守の微笑むを思い出す度、きっと何度でも幸せな気持ちになれる。そして、正守を好きだと思う気持ちを大切にできる気がした。
けれど、ふと斜め後ろから盗み見た今の正守の様子は、依然として固く沈んでいる。
どちらの顔が本物なのだろう。
正守の本当の心がわからなかった。
久々に再会してこれじゃ気分が全く晴れやしない。
「なあ、兄貴。栞のお礼をさせてくれない?」
その提案は、欲を孕んでいた。
正守を喜ばせたい気持ちと、また二人きりで会いたい気持ちが混ざった邪なものだ。
「お礼?」
正守は意地悪な男である。
弱みを見せればつけ込むし、恩を売れば倍で返せと取り立ててくるに違いない。
なにより、根っこにある彼の優しさから良守を無碍にはしない。きっと頷くに違いないと、良守は淡い期待を抱いていた。
「礼なんて、いいよ」
けれど正守は、良守の提案を静かに否定する。
素気無い態度に、真っ白な布に墨を一滴だけ垂らされたような気持ちになった。
悔しくて食い下がれず、良守は会話を無理やり続けようと躍起になる。
「そんな、遠慮することないだろ」
「別に、礼をされるほど大層な物あげてないだろ?ただの紙切れひとつに大袈裟だな」
「…っ」
嗚呼、そうか。
良守が抱いたときめきは、今の言葉によって砕け散った。
生まれて初めて、正守から貰った贈り物だった。
それは良守にとってはかけがえの無いものだけれど、正守にとってそれは大したものじゃない。良守が勝手に眩んで浮かれていただけ。
現実は綿菓子のようにはフワフワ甘くはないのだと思い知り、冷水を被ったみたく心が震えた。
あのとき、馬鹿みたいにはしゃいだ気持ちはなんだったのだろう。
紙切れひとつに大袈裟、か。
流石に、その言葉はショックだった。
「でも俺、本当に嬉しかったんだ…」
思わず、本音が零れた。
「たかだか栞ひとつで?」
苦笑する正守をみて、良守は慌てて言い訳をする。
「違っ!授業で参考書たくさん使うから、ずっと栞が欲しいと思ってたっつうか。でも買う機会逃してて…」
正守から変に思われたくなくて、それから正守に対する卑しい気持ちを見透かされたくなくて、とっさに嘘をついてしまった。
「そりゃタイミングが良かったね」
「そう!だからなんつーか、ほら…兄貴もなんかそういう困ってることはないか?」
「そうだなぁ。特にパッと思い当たらない」
鈍いのか、わざとなのか。
絞り出せよ!と思わず叫びたくなる。
「俺が力になれることなら何でもするから!こんなチャンス、またとないぜ?」
「あのな。なんでもする、なんて軽はずみに言うもんじゃないよ」
「そりゃあ俺が出来ることなんて限られてるけど…なんか一つくらい困ってることないわけ?夜行の雑務が溜まってる〜とか」
「優秀な部下がいるから問題ない」
ああ言えばこう言う態度に、良守はムスっとしながらも必死に言葉を紡いでいく。
「じゃあ、あれだ!菓子は?お菓子作り」
「お菓子作り?」
「俺、趣味でケーキ作ったりするんだけど…食べない?」
「ケーキ、か…」
考え込むような様子に、良守は手応えを感じた。
兄は甘いものが好きだ。
唯一知っている好み、正守は甘党であること。
「店の味には劣るけど、手作りにしか出せない味ってあると思うんだよな」
「そう、だなぁ…」
無茶苦茶な押し売りなのに、なぜだか響いている。
良守は手汗に濡れながら、正守が頷くのを待った。
これが無理なら、もう諦める。
「じゃあさ、クッキーとか作れる?」
「!!」
「夜行の子供たちに配るくらい、大量に」
「できる!まかせろ!」
こうして結果的に正守が折れる形で「夜行の子供たちに菓子を作ってくれ」と頼まれたのであった。
そして十月三十一日、夜行への訪問が決まった。
正守が良守に要求したことは「お菓子作り」。なんでも、子供たちのために夜行でハロウィンパーティーをする予定があり、そのために配る菓子が必要なのだという。
調理班に負荷をかけぬため既製品を購入するつもりだったが、正直なところ大所帯ゆえ作った方が安上がり。だから予算は出す、そのかわりハロウィンの菓子を作ってはくれないか?と、つまり労力を求められたわけだ。
元々良守はお菓子作りが趣味であったし、それを人に配るのも好きだから「そんなことでいいのか?」と首を捻ったけれど、正守にとっては「お釣りが出る」ほど大いに助かるらしい。
そんなこんなで良守は、式神と共にせっせと作り上げた大量の菓子をパッケージし父に借りたボストンバッグに詰め込んで、夜行の門を叩いた。
といっても夜行へは良守一人で来ることは出来ない。
裏会の掟で、例え身内であってもその所在地は明かされず秘匿されている。良守は正守の部下である蜈蚣に連れられて、いくつもの山と霧を抜け辿り着いた本拠地、その重厚な門をくぐり抜ける。
「お、おじゃましまーす…」
こうして正面から招かれるのは初めてだ。
少しだけ緊張する。
ドキドキしながら良守は蜈蚣からはぐれないように歩み出した。
「いらっしゃい。よく来てくれたな」
すると最初に出迎えたのは意外にも、此処の主である正守だった。
「長旅ご苦労さま」
濃紺の着流しを纏い現れた正守は、蜈蚣と一言二言会話をし、彼をこの場から立ち去らせる。
そのあと目が合って、こちらへ近寄ってきた。
にっこり、胡散臭く笑って…
「良守も疲れただろ。荷物持とうか?」
変だ。兄貴が妙に優しい。
いやそれだけじゃない。
此処へ来る道中にきいた蜈蚣の話によれば、正守は仕事で遠方に出ており夜まで帰らないはずだった。
居るじゃん?
と疑問に思いつつ、菓子が入ったボストンバッグを正守へ渡す。
「これ、人数より少し多めに作ってあるから。余ったら兄貴が食えば?」
つい、ぶっきらぼうな言い方をしてしまった。
そんな可愛くないことを言うつもりじゃなかったのに、どうにも正守を前にすると上手く話せない。
栞の礼をするしないの、すったもんだが心につっかえていたせいだろうか…いいや、違う。よく分からない理由で避けられていた当てつけだった。
「ありがとう。好きだよ」
「は??」
突然なにを言い出すんだ?と、目を丸くしてしまう。
「俺、良守の作る菓子好きだよ」
はぐっっっ。
その笑みに、心臓を抉り取られた。
そんな錯覚を起こすくらい激しい心拍の向上を感じる。
「これってクッキーとブラウニー?」
正守はボストンバッグを開けて、パッケージされた菓子を一つ手に取ってみせた。
食べるのが楽しみだ、という喜びがその表情から読み取れる。
「凄いな、クッキーがおばけとカボチャになってる」
「型が家にあったから…その、子供が喜ぶと思って」
「可愛いね。なにより、凄く美味そうだ」
屈託のない正守の笑顔を見つめていると、どくどく鼓動が二倍速になって緊張してしまう。
(どうしたんだろ。今日の兄貴、なんか変に素直っていうか…それとも俺がおかしいだけ?)
「本当、美味そう…」
「あっ!おい、まて、お前まさか今食う気満々か!子供たち優先だぞ!兄貴の分は、あくまで、余ったらだからな!!」
「わかってるよ。余ったら、ね?」
くそ。見透かされている。
ちゃんと正守の分を用意していることなんてお見通しなのだろう。
恥ずかしい。
頬が熱くなるのを隠したくて、ついまたぶっきらぼうな態度をとってしまった。
本当はもっと仲良くしたい。兄弟らしく振る舞いたい。
でも無理だ。
良守は、兄である正守に長年秘めた恋心を抱いている。
いけないことだと分かっていながらも、これは本能から求めてしまう劣情。良守にはどうすることもできなかった。
だから、生涯隠し通して墓場まで持っていくつもりだった。
それなのに。あの日の喫茶店で揶揄われた意地悪も、良守を心配して不器用ながらも背を押してくれた優しさも、その全てが愛おしくて溢れる感情を止められなかった。
涙がこぼれたのは、そのせいだ。
どうしようもなく正守が愛おしくて堪らなくなった。同時に、兄をふしだらな気持ちで愛してしまった罪悪感に苛まれ、心がぐちゃぐちゃになった。
こんなに人を好きになったことはない。
きっとこれほど誰かを恋い慕うのは生涯、正守たったひとりだけ。それを心の底から自覚して、その報われなさと愚かさに激しく胸を痛めた。
だって、この想いは一生報われない。
いつか正守は家族よりも弟よりも大切な人を見つけて、そいつを一番にする。正守のウザったい説教も不器用な優しさも、決して良守だけのものにはならない。
そんな現実を思うと耐えきれなくて、涙が溢れてしまったのだ。
(あの日、俺が泣いたこと…やっぱり兄貴は迷惑だったのかな)
目を伏せて良守は「じゃ、俺帰るから」と踵を返そうとし、強く腕を掴まれる。
「まだ来たばかりだろ」
振り返ると能面みたいな顔をした正守が、良守を引き止めていた。
「閃や蒼士たちも、子供たちのために尽力してくれたんだ。今日はみんな仮装して参加するらしい」
「へぇ…」
「閃は最後まで嫌がっていたけど、蒼士は意外と乗り気でさ」
「そう、なんだ」
あれ。心にトゲが引っかかる。
へえ…蒼士、蒼士、ふーん。
前まで正守は氷浦のことを「氷浦君」と呼んでいたのに、いつの間にか下の名前で呼んでいる。
ずるい。
いや、正守は基本的に部下を呼び捨てにしているのだから、これが普通なのだ。氷浦が夜行に溶け込んで、居場所ができることは喜ばしいはずなのに。
おかしい、なんでこんなに胸がズキズキするんだ?
わからない、こんな感情なんて知りたくない。
兄貴の特別が増えていくのを見ていたくない、だなんて…
「良守?会って行かないのか」
「え?あぁ、そりゃ会えるなら会いたいけど…」
不思議そうに此方を見つめる正守と目を合わせられなかった。
優しくされればされるほど惨めになる。俺は氷浦に嫉妬した、兄貴の親切にすら(どうせそう言うのは俺のためじゃないくせに)と僻んだ。こんなにも器が小さくて醜い…ダサい自分を見ないで欲しかった。
「どうかした?具合でも悪いのか?」
「別に」
「別にってことないだろ」
「…悪い。ここに来るまでに酔ったかもしんねえ。でも本当に、すぐ治るから大丈夫」
嘘をついてしまった。
仮病なんて、すぐ見抜かれてしまいそうで怖い。
「そう?じゃあとりあえず俺の部屋に行こうか。荷物を置いて少し休憩しよう」
「あ、いや…」
「なに?」
「ううん…なんでもない」
これ以上、兄貴のそばにいたら変なことを口走ってしまいそうで怖いから帰ります。とは言えず、良守は歯切れが悪い返事をしてしまう。そんな良守のどっちつかずな態度に、正守は静かに口を開いた。
「最初から菓子貰ってサヨナラするつもりなら、わざわざお前をここに招いたりしない。この意味わかるか?」
「それってつまり…」
「配るまでがお仕事だ」
そう語る正守の目は鋭く据わっていた。
嫌な予感がヒシヒシとする。
主に労働面における、第六感が…
「おい蜈蚣さんどこいったんだ!早く帰らせろ!」
逃げ出そうとして腰を捕まれ、拘束されてしまう。
「どれだけ駄々こねたって働いてもらうぞ。何でもするって、お前が約束したんだからな?」
「言ったけど!なんか思ってたのと違う!」
「ったく。それだけ叫んで動けるなら本当は元気だろ、お前」
「ハッ!まさかその手に握っているのは!?」
ニヤリ、正守が微笑んで手に持っていた黒猫耳のカチューシャを良守の頭に装着させた。
「うん、可愛い」
パシャリと携帯電話でシャッターを切られた。
「なっ!」
二十歳にもなって猫耳。
その衝撃で固まる良守を放って、正守は無理やり良守の首根っこを掴み、ズルズル屋敷の中へ引き摺っていった。
「ちょ、離せよ!もう逃げたりしねえからっ」
乱暴な兄にゲンナリしつつその腕を払う。
正守は「そう?」と簡単に手を離して、良守の隣へ並んだ。
「えっ?」
「なに、どうかした?」
横顔を覗き込まれて、初めて違和感の原因が分かった気がした。
「いや。べつになんでも、ない…」
古い平屋の廊下は、二人が歩むたび少しだけ軋む。
和風の屋敷は、着流し姿の兄に良く似合う。そう思うのは別に変ではない、身内の贔屓目がそう思わせるのだと早る自分の胸に言い聞かせた。
(思っていたよりも広いな…)
ふと意識を遠くへ向けると、ガヤガヤ賑わう甲高い声がする。
きっと今日のパーティーを楽しみにしている子供たちが、今か今かと待ち侘びてはしゃぎ回っているのだろう。
その微笑ましさに、良守は思わず目を細めた。
そして、遠い日の記憶が蘇る。
忘れもしない、家族で過ごした十月三十一日。それは正守が初めて良守を本気で叱った日でもあった。
「こら。よそ見するな」
「痛っ!」
ポコンと拳が頭に落ちてきて、恨めしく見上げると顎で前を差された。気がつけば随分と先を行かれている。
早く来いってか?
「屋敷内は入り組んでいるから、はぐれないようにしっかりついてこい」
「るせえな。わあってるよ」
すぐに追いつき、正守の様子をチラリと伺う。
スカした横顔だ。兄貴らしい自信に満ちた足取り、けれど俺に歩みを合わせてくれている。不思議だ。
「兄貴、あのさ」
「ん?」
じっとその瞳を見つめ視線が交わって、納得がいった。
数々感じた違和感はこの瞬間、確実なものになる。
「まだ部屋につかないのかって顔してるな?」
そんな顔したつもりは全く無かったが、良守は適当に話を合わせた。
「おう。遠すぎて眠くなってきた」
「おぶってやろうか?」
「結構です」
キッパリ断るとクスクス笑われてしまった。
こうやって良守をからかって遊ぶのが、正守らしさというわけか。
「悪いけど、まだ少し歩くから我慢しろよ」
「ここってそんなに入り組んでんのか?外観からは想像できない広さなんだけど」
「まあ、色々あるんだよ」
はぐらかされてしまった。
「それに人の上に立つってのは何かと面倒が多くてさ、おかげで俺の部屋は入口からかなり遠い。かったるくて仕方ないよ」
「大変なんだな」
「でも、その分ちょっとだけ良い思いもできる」
「ふーん…」
「お前この話興味無いだろ」
「ぶっちゃけ、ない」
それから、言葉通り長らく廊下を歩かされた。
そうして入り組んだ回廊を練り歩き屋敷の奥、他と空気が異なる部屋の前に辿り着く。
「着いたぞ」
正守は木の引き戸を開け、その先にある襖の前に立つ。
お宿のような出入口に感嘆し、ちょっとどころかちゃっかり頭領らしい良い部屋に暮らしているじゃないかと腰をつつきたくなった。
「どうぞ」
「おじゃましまーす…」
辺りを軽く見回して、邪魔にならない隅へ自分の荷物を置いた。
話に聞いていた通りの立派な和室だ。寝室と書斎を兼ねているような作りをしていて、二人分の布団を敷いたとしても充分な広さがある。
(いや、別に。泊まるつもりなんてないけど…)
でも、嗚呼そうか。
これが今の正守の部屋、そう思うと少しだけ感慨深い。実家の部屋は凡そ個性なんてものはなかったからだ。家具も部屋の配置も良守と対になっている鏡のような部屋だった。
此処も実家と同じく和室なので、華やかさは薄い。
けれど、物書き机の上に洒落た文鎮があったり床の間には季節の花がきちんと生けられていたり、他にも正守のこだわりを細部に感じることができた。
多忙な兄のことだからどうせ殺風景な部屋に違いないと思っていたのに、意外にも正守の個性を感じる品々が数多く目に留まり、驚きつつもどこかホッとする居心地の良さを感じた。
「つまらない部屋だろ?」
そう正守が苦笑混じりに囁くが、良守にとってそれは皮肉にしか聞こえない。
そして正守が襖を閉めたのを横目で確認し、深く息を吸って吐き出した。
「もういいよ」
と、一言呟いて正守と向き合う。
「なにが?」
「兄貴のフリしなくていい。お前、式神だろ」
あっけらかんと言い放つ良守に、正守は肩をすくめた。
「なんだ、もうバレちゃった?」
その小馬鹿にした表情も心の篭っていない声色も、正守にそっくり。本当によく出来ている。
結界師でなければ、アイツの弟でなければ、絶対に気づかないであろう代物だ。
でも正守は何故こんなことを?ただのイタズラにしては精巧すぎる出来に、良守はどっとため息を零す。
「なんなんだよ。本当すげぇな…途中まで全く気づかなかった」
「それはどうも。主人も帰るまで貴方様に気づかれるとは予想していませんでしたから。いやはやこれはなんと言い訳したものか…」
「お前ら俺のこと舐めんの?」
「いいえ。それくらい渾身の出来だったということです。そして数々の無礼をどうかお許しくださいませ」
深々と頭を下げられて、良守は罰が悪くなる。
正守の姿でしおらしく振る舞う姿を見ると心がどうにもモヤついた。
再び良守は「もういい」と呟き式神と向き合う。
「兄貴はどうしてる?蜈蚣さんの言う通り、やっぱ京都に?」
「はい。裏会の責務を全うしておられます」
「そうかよ…」
目を伏せる良守に、正守の式神は惚ける。予想外の反応だったからだ。主人から聞かされていた彼はもっと…
「で?お前は正守から何を命令されてる」
キッパリと式神へ用を探る姿勢は、流石は次期当主と言ったところか。運命に選ばれた者の纏う空気、式神はそれらをひしひしと感じた。
「貴方様の世話を焼くように。そう、申し付けられております」
「はぁ?!」
式神が頭を垂れると良守は素っ頓狂な声をあげる。
心做しか怒気に満ちていた。
「んだよそれ!ムカつくッ」
「なぜ?客人を労って何が悪いのですか」
「ばか!アイツがそんな考えで命令するわけねえだろ!どうせ俺が、自分のテリトリー内で粗相しないように見張るつもりなんだ。そうに決まってる…」
「さあ?どうでしょうね」
式神は静かに微笑んだ。
そんな姿を見て、良守は目を見開く。
ここまで感情が豊かな式神を見るのは、本当に久しい。というのも感情を与えると術に込める力が馬鹿にならず、かなり本体への負荷が掛かるからだ。
結界師が式神に求める役割は、あくまで補助の域。
高度な術者ならば人に近い式神を生み出すことも可能だが、誰もそこまでの技術を式神に要さない場合が多い。
しかも本体の正守は関西で裏会の仕事をこなしているというのだから、こんな真似をするメリットなんてないはずだ。余計に疑問が残る。
「あー、もう…わかんねえ」
良守は畳にあぐらをかいて思考を巡らせていく。
状況を整理したくなった。
「本当なんなんだよ…」
久しぶりにまた兄に会えたと思ったのに、それは式神だった。そしてこれほど精巧な式神を動かしながら、彼は遠方で本職もこなしている。
随分と余裕綽々、高慢なことだ。
じゃあ、そうまでしてコレを作った理由は?
良守は顎をさすって思考を巡らすが、正守の考えることなんてさっぱり分からない。
「なぁ式神、正守って今日帰ってくんの?」
式神に問いかけるが、返されたのは曖昧な返事だけだった。
きっと正守が仕事を終えて戻って来たとしても、かなり夜遅くなのだろう。その頃に良守は家に帰っているから、タイミング的に会うことは叶わない。
「…そういう大事なことは最初に言っとけっつうの」
思い切り畳に横になって、良守は深く息を吸い込んだ。
懐かしい匂い。
藺草と着物の古臭い香り、そして少しだけ正守の温もりを感じる。見知らぬ部屋の匂いが肺を満たし、キュッと胸が苦しくなった。
結局、正守のことなんて何ひとつ分からない。
実家の部屋は正守が居なくなって、もう随分と年月が経っている。父が綺麗に掃除してくれても、主が居ない空間は死んでいくばかりだ。
でもここは違う。この場所で、正守は日々を生きている。良守の知らない毎日を仲間と共に過ごしている。しがらみのない幸せな時間を。
寝返りを打つと髪が揺れて自身から実家の香りがした。
きっと正守はこの香りなんてとっくに忘れている。
「良守様」
「んあ?」
「長旅でお疲れでしたら布団を敷きますよ」
「おー布団が恋しいなぁ。でもそろそろ行かなきゃダメなんだろ」
よいしょ、良守が身を起こすと式神が手を差し伸べてくる。
右手を差し出されて戸惑い、良守は自力で立ち上がった。
「なに?その目」
「いいえ」
「やっぱコイツ監視目的か…」
ブツブツ不貞腐れる良守の様子をみて、式神は口を閉ざす。
主人に命じられた、本当の言いつけを彼に教えるべきか迷ってしまった。
しかし腐っても正守の式神、ここで全てをばらしてしまうのは面白くないと感じ、何も告げずに良守を見つめ返す。
「先程お預かりしたバックは、すでに刃鳥様お渡し済ですから、後は貴方様が大広間に向かえば全ての準備が整います」
「えっ!いつの間に!?仕事早くね!?」
「はい。ですから出来るだけ早くご支度ください。仮装したご友人が首を長くしてお待ちですよ」
「お、おう?」
ポンと肩を叩かれて、良守は式神の笑顔に並々ならぬものを感じてしまう。
流石、兄貴の式神。纏う圧が同じだ。
「そういえば影宮と氷浦は仮装してんだっけ?」
「ええ」
「じゃあ早く行かなきゃな!」
頷く式神に良守はニカッと微笑む。
「良守様。大広間は部屋を出て向かって左、道なりに進めば辿り着きます」
「?お前は行かないのか」
「はい。主人には催し中は、この部屋で待機するように申し付けられておりますので」
「そうなの…?」
あれ俺の監視が目的じゃないのか?と良守は首を傾げる。
「一応、主は出張中の身ですから。私の存在を知っているのは刃鳥様と先程ご説明した蜈蚣様のみ」
「そっか。あんま動き回れねえのか」
「ですが、何かあればこの部屋へいらして下さい。主人の5割程度であれば力になれますよ」
「そりゃかなり頼もしいわ…」
兄の半分というのは戦車一台に匹敵する。
と、良守は適当なことを考えていた。
「では屋敷の地図をお渡しします。どうか失くしませんように」
「おう。ありがとな!」
良守が部屋を出ていこうとしたとき、式神が「待って」と呼び止める。振り向くと迷子のような兄の顔が、そこにはあった。
「その。最後に一つだけお聞きしたいことが」
「なに?」
襖に手をかけ、式神に顔だけを向ける良守に遠慮がちな眼差しが刺さる。本当によく出来ている…と関心しながら式神の言葉を待った。
「なぜ私が本物ではないと分かったのですか」
「え?」
予想だにしなかった問いかけに、良守はキョトンとしてしまう。
正守曰く懇親の出来だったとはいえ、ソレを見破られたとして式神が気に病むものか?まさか自尊心がある訳でもあるまい。
暫し答えを考えて、良守は苦笑した。
負けず嫌いで意地悪な性格、何かと根に持つ粘着質な兄だ。
そんな兄の魂が半分も篭った式神ならば、正体を見破られたわけを知りたがる摩訶不思議が起きてもおかしくはない。
なんともふざけた話だ。
ならば、より真実に近い回答を与えなければいけないか。意趣返し、そんな気分であった。
「そうだな。強いて言うなら…」
意味深な良守の笑顔を、式神は不思議そうに見つめた。
「愛、かな」
部屋を後にした良守は熱くなる頬を必死に冷ますため、駆け足で廊下を進んだ。
渡り廊下に差し掛かり子供たちの声が近くなる。
明日から11月。外の空気は冷え込んでいて、火照った体にはちょうどいい。心地よい冷風を感じて、忙しなく動く心音が漏れぬよう唇を噛み締めた。
(なーにが愛だよ!)
良守は軋む廊下の音なんて気にせず、大股で歩む。
恥ずかしい、式神相手に何をほざいてしまったのか。
そもそもアレを兄ではないと気づいたのは、愛なんて大層な理由じゃない。
良守でなければ気づかないほど小さな違和感。正守ですら無意識であっただろう日常のささやかなクセ。そして、そんな違和感を真実に変えた式神の瞳。
これらを材料に確信を得たに過ぎない。
「本当、そっくりだったな…」
良守は回廊の角で立ち止まり、そっと振り返る。それから正守の部屋の方へ視線を向け、のちに俯いた。
懇親の出来だと自ら宣った式神は、最後に何故あんなことを問いかけたのだろうか。
まさか本当に自尊心が芽生えたというのか?
考えたところで真意は分からない、だから良守も真実は教えなかった。
(だってアイツは…本当の正守は、俺の隣を歩いたりしない)
正守の式神が良守を気遣って隣に並んだとき、とても妙だと思った。
彼はいつも良守を置いてさっさと前を行ってしまう。横に並んで一緒に歩いてくれたことは一度もない。
だから、言えるわけなかった。
そんな寂しくて惨めな答え、たとえ偽物相手だったとしても言えるわけがない。
それに、あの瞳。
正守が良守を見つめるときの黒い眼差し、その濁りをアレからは全く感じなかった。目は口ほどに物を言う、とはよく言ったものである。
正守からは切っても切り離せない、良守への憎悪。どろりと濁ったそれは、たとえ烏森が無くなっても消えることは無かった。
あれを浴びさせられることは良守が生まれた瞬間、自動的に正守の心を切り刻んできた代償ともいえる。
だが式神の瞳には、そんな濁りは全く滲んでいなかった。偽物の双眼は空っぽに澄んでいて、良守のことなんてまるで見ていない、虚無の眼差しをしていた。
正守と全く同じ顔で、そんな瞳を向けられるなんて…やめてほしかった。
避けられていたこともあり、前よりいっそう嫌われたのかと心が軋んだ。
無関心ほど、辛い拒絶はないのだから。
「はぁ…ぁ」
深いため息が零れる。
考えれば考えるほど、虚しくて堪らなくなった。
どうせ会えないのなら、いっそ最後まで会えないままでいい。偽物を宛てがうなんて、そんな手の凝った意地悪をしないで欲しい。
もしも、あのまま気づかず式神を正守だと思い込んで一日を過ごしていたら…?それを思うと心の底からゾッとしてしまう。
どれだけ似ていようが紛い物で喜ぶやつなんかいないのに。正守は何を考えてアレを作ったのか、全く気持ちがわからない。
良守を嘲笑うためか、それとも自己顕示欲を満たすためなのか。
(くそばか兄貴…)
古びた板間をキッと睨んで、顔を上げる。
こんな事でクヨクヨしたってしょうがない。
あと少しで大広間だ。
そこには影宮や氷浦、俺を待っていてくれる人たちがいる。
そして、いつぞや家族で楽しみたいと願った楽しい催しが待っている。
気持ちを切り替えて、良守は前を向いて歩み出す。
(俺が作ったおかし、みんなに喜んでもらえていたらいいな)
ハロウィンパーティーは大盛況を収めた。
仮想をした子供たちが「トリックオアトリート!」と元気よく大人に唱え、大人たちは良守が用意したお菓子を子供たちへ配った。
閃や氷浦、他にも仮装している構成員達が子供たちと一緒になって催しを楽しんでいる様子を見ているだけで、自然と笑顔になれる。
お菓子を配り終わると子供たちは庭の広場へ集まって遊び出し、「頭領の弟」に興味を持った子供たちに連れられて良守もその輪に加わった。そして数年ぶりにクタクタになるまで遊びまわることになる。
「頭領の弟〜!けっかい出して!」
「はいはい、俺は良守な!いい加減名前で呼べ!」
「うっせえ!弟〜!はやくはやく!」
生意気な子供はコツンと足元を結界で転ばせ、柔らかい結界で受け止めて飛ばす。するとトランポリン遊びだと勘違いした子供が喜んで「もっとやれ!」と生意気がエスカレートしていく。
そういう子供たちに気を取られていると、別の子供たちに服を引っ張られて「良守!おれたちと鬼ごっこしよう!」とか「だめよ!頭領の弟さんは疲れてるんだから!私たちとおままごとしましょ!」とか、揉みくちゃにされてしまう。
そっちにばかり気を取られていると、良守が作った足場から転げ落ちそうになる子供が出てきたり、良守に構って欲しくて異能で気を引こうと攻撃してきたり、夜行の子供たちの血の気の多さに目眩を起こしそうになる。
「おい頭領の弟!こっちこい!」
「乱暴はだめ!良守が困ってるじゃない!」
「うるせぇブス!」
「こら〜お前ら!仲良くしろ!俺は一人しかいねえの!順番に遊んでやっから、待っててくれ」
「ふん!なんだよ、つまんねー!もういい!あっちいこうぜ」
「そうね!しんぱいして損したわ!」
「えっ、なんで俺が悪者みたいになってんだ!?」
怪我人を出さぬように意識を多方面へ向けて結界を作る難しさに、良守は遊びながら修行している気分に陥った。
子供たちの「遊んで!」総攻撃を受け、良守は途中から本気で無想に頼りきって行動している。
「よしもり〜!おっきい結界つくってぇ!」
「あっ、ずりぃ!こっちも足場つくって!」
「はいよ!」
異能者の子供たちが行う鬼ごっこの激しさに、良守は目を回す。
自分が子供の頃、周りにいたのは普通の子供たちだったから、こういう激しい遊びの数々を目の当たりにして新鮮な気持ちに陥る。
こっそりズルをして能力を使うのではなく、個性として力を利用して遊んでいい環境が、良守にはどこか眩しく映った。
ガキの頃こんな風に思いっきり遊べたら、楽しかっただろうな。
という気持ちが少しだけ湧いてくる。
良守が幼い頃、周りにいた同世代の能力者は家族と幼なじみだけだった。でも彼らとはどこか溝があって、いがみ合わなくちゃいけない関係だったから結界を使って遊ぶなんて御法度、できるわけもなく。
もし、志々尾や閃、氷浦と小さい頃に出会っていて、こんな風に遊ぶことができたなら…
「良守君、大丈夫?」
ハッとしたときには、正守の部下である刃鳥が子供たちを上手く誘導し昼寝に向かわせていたところだった。
きっと遠くから見守っていてくれて、目を回す良守を気遣ってくれたのだろう。
「ちょうどお茶が入ったの。少し休憩しましょう?」
「ありがとうございます」
刃鳥と食堂へ向かうと、閃たちがお茶を飲みながら雑談していた。
心做しか朝に会った時よりもくたびれている。客人の良守がクタクタなのだ、元いる閃たちはその倍疲労度が高いに違いない。子供のためのイベントとはいえ、頭領考案なのだから半分は仕事みたいなものだったろう。
「良守ー!」
良守に気がついた閃が、手を振って招いた。良守は閃と氷浦いる席へ腰掛けることにした。
「よぉ、夜行の子供たちの相手はどうだった?」
「兄貴の修行並に鬼だった」
どっと笑い声が響き、それから思い出話に花を咲かせていく。
彼らとこうして会うのは、実に5年ぶりだった。
あのときはまだ中学生でお互いに未熟だったと懐かしんだり、今の環境について話しをしたり…
「あの墨村良守が、普通の大学生になってるなんてなぁ〜」
「どういう意味だそれ」
「いやぁ、なんか感慨深いっつうか。お前も大人になったんだ?みたいな」
「馬鹿にしやがって〜!言っとくけど俺、七郎と同じ大学なんだぜ!?」
「は?!うそだろ!」
「うそじゃねえし。俺達、偶然入学式で会ったんだ。アイツ家の事があったから俺と同じ年に受験したらしくてさ」
「…なあ。それって頭領は知ってるのか?」
「え、なんで兄貴にそんなこと言う必要があんの?」
「はあーあ、そうだよな。お前はそういうやつだよ…そんな気はしてた」
きょとんとする良守の前で百面相をする閃。
首を傾げつつ茶を啜っていると、氷浦が良守の横にピッタリとくっついて離れなくなる。
「どうした氷浦?眠たいのか」
「眠くない。ただ、心配になった」
「心配?」
「扇七郎…」
「あー、そうだよな」
氷浦にとって七郎は5年前の記憶のまま止まってしまっている。あんな事があったのだ、氷浦が暗い顔をするのも無理はない。心配を掛けたくて「同じ学校なのだ」と言った訳では無かったのだが、でも氷浦の優しさを感じて自然と心が暖かくなった。
この5年間で、きっと氷浦は色々なことを学んで思い出を沢山作ることが出来たのだろう。だからこうして他人を心配できるくらい、感情が豊かになっているのだ。そのことに心から感動を覚えてしまった。
「ありがとう氷浦」
弟を宥めるような気持ちで、ツンとした青い髪を撫でる。氷浦はそれを猫のように目を細めて受け入れて、喜んでいた。
久々に再会した氷浦は、かなり図体が大きくなり雰囲気も大人びてしまっていたので、少し寂しさを感じていたけれど、彼の素直な性格は変わっていないらしい。でっかい野良猫みたいで、とても可愛いらしかった。
「…和んでるとこ悪ぃけどさ、お前本当に大丈夫なのか」
「なにが?別に平気だぞ。アイツと敵対する理由はもうないし、学校でも割りと上手くやってんだよなぁ」
「上手くって、アイツと仲良くなったってこと?」
「いや仲良く…って程ではねえけど」
「けど?」
やけにしつこく質問を繰り返してくる閃に、良守は戸惑いを隠せなくなっていく。何故だか尋問されているような気分になってきた。
「もう七郎の話はもういいだろ。そんなにアイツのこと知りてえなら兄貴に聞けよ。あの二人って新設した裏会の幹部なんだろ?」
「へー?そういう話も七郎から聞いたのか」
「…そうだけど、なんか悪いのかよ」
どうせ俺は兄貴からは何も聞いてない。アイツは自分勝手なやつだから、俺のことは根掘り葉掘り嗅ぎ回るくせに自分のことは隠したがる悪癖がある。
「別に。お前は何にも悪くねえ、けど…頭領に七郎と学校で仲良くしてる〜みたいな話しはしない方がいいぜ」
「はぁ?なんで」
別にすることも無いだろうけど、その理由が知りたくなった。もしかして七郎と正守は組織内で対立関係だったりするのだろうか。正守が扇家を快く思っていないのは良守も感じてはいたけれど、今でもそれは変わりないのか?
しかし、良守から見た七郎は決して悪い人間ではなかった。ただし心から良い人間かといえば、それは否だ。目的のためなら手段を選ばない男なので、鬼のような所業も裏では行っている。でもそれは正守も同じ、良守だってそうだ。彼らは皆、他人の犠牲の上に生きている。
「俺からすると、頭領と良守って見ててもどかしいんだよ」
「?それってどういう…」
「だから、」
閃が何かを言いかけたが、食堂の扉が勢いよく開いた音でかき消された。
「影宮、悪いもう1回…」
「皆、休憩終了!夕餉までに各自片付け、仕事に戻るものは仕事に戻りなさい」
閃が何を言ったのか良守は確認をしたかったが、入室してきた副長の刃鳥が指示を始めたため有耶無耶になってしまう。
それから片付けを手伝いながら、閃の言いかけたことが気になったけれど、でも深く追求しようという気にはなれなかった。
「良守君」
「うぁ?!」
部屋の飾りつけを外したり、ごみ捨てを手伝い終わった頃。気配もなく現れた刃鳥に背後から声を掛けられた。
「驚かせたかしら」
「いえ、全然…」
心臓飛び出るかと思った。
「客人なのに後片付けまで手伝わせてしまってごめんなさいね」
「何言ってるんですか、これくらいやらせてください!俺、部外者なのに皆さんには良くしてもらいましたし、今日は本当楽しかったです。それに普段から夜行の皆さんには兄貴が世話になってますから、これくらい手伝わなきゃ」
良守がペコペコ恐縮すると、ふっと刃鳥が表情を柔らかくする。その美しい微笑に、良守は思わず見蕩れてしまう。
「あぁ、そうだ。そろそろ夕餉の時間なのだけれど、よかったら良守君も食べていかない?」
「えっ!そんな、悪いです」
「全然。大所帯だから、一人増えたくらい全く問題ないから気にしないで。きっと良守君が来てくれたら、影宮や氷浦も喜ぶと思うわ」
「でも…」
「もちろん良守君の都合もあるでしょうし、無理にとは言わないから。でも折角の機会だし、ゆっくりしていって?きっと頭領もそれを望んで君を夜行へ招いているわ」
良守は腕時計を確認して、誘いに乗るべきか迷った。今すぐ連絡をすれば、食事の支度をする父親に迷惑をかけることはない。
でも正守の職場で正守がいないのに、弟の自分が呑気に夕食をご馳走になって良いものか悩む。
「あれ良守?なんだよ、お前まだ居たのか」
ひょっこり廊下から顔を出して、閃がこちらに声をかけてきた。刃鳥が「こら、影宮…」と咎めるのを良守は必死で宥める。
「あの!刃鳥さん、やっぱり俺帰ります。実家で父が夕食を作って待っていてくれるので…」
「そう…」と刃鳥が残念そうな表情をするから、少しだけ罪悪感が芽生えてしまう。
けれど同時に、刃鳥が閃の耳を物凄い勢いで引っ張っているのが気になって仕方がなかった。閃が声にならない叫びをあげ、涙目で顔を歪めている。
そんな様子を猫目で見守っていると、刃鳥が閃の耳元で何か一言囁いた気がした。
そのあと閃がピキンと硬直して動かなくなって、みるみる顔色が悪くなっていく。
そんなやり取りを、良守は冷や汗をかきつつ見守っていた。比べるのは烏滸がましいのかもしれないが、まるで時音と自分の関係性を見ているようであったからだ。歳上の女性は時として非常に恐ろしい、ということを良守はよく知っている。
「なあ良守、オマエも飯食っていけよ」
「え?いやだから俺、帰っ…」
「いいから、食って行け。今日は夕餉もハロウィンらしくなってっから、客人がいた方が絶対盛り上がると思うし!子供達もお前に懐いてたから、ここで帰ったらすげー残念がると思うぜ?」
「お、おう…?」
「よし!じゃあ決まりな!親に連絡しとけよ!」
「うん?」
それらしい言葉と屈託のない笑顔に言いくるめられてついつい頷いてしまったが、先程まで「まだ居たのか」と言っていた人間の言葉とは思えなかった。副長の圧力…?そんなまさか。刃鳥が良守を引き止めるメリットなんてない。
そして良守は、あれよあれよという間に再び食堂に招かれ、夜行の若者達のどんちゃん騒ぎに巻き込まれていく。
今日は行事ごとの晩ということもあって、皆いつもより浮かれているのだ。と隣にいた閃に耳打ちをされる。
「しかも珍しく頭領から大人達に酒代渡されてるらしくてさ〜今晩は百鬼夜行の無礼講だぜ」
そう語る閃も、どこかはしゃいで見えた。そのまま仲間たちの輪に加わって騒ぐ閃は、良守の記憶にはない表情をしていて、思わず笑みがこぼれる。
そうして一人になってしまったし、折角だから氷浦と話をしようと席を立った良守であったが、「あ!!良守君見っけ!!!」と花島に抱きつかれ揉みくちゃにされながら、酒盛りをしている大人達の輪に引きずり込まれてしまった。
「本日の主役連れてきましたっー!!」
「おおー!!!よくやった花島ぁ!!」
「良守君!こっちこっち!」
大人達の間に良守はちょこんと座らされる。みんなかなり赤ら顔で、もうバッチリ出来上がっている様子だ。みんな「頭領の弟」に興味津々らしく、たくさんの視線が突き刺さって少々居心地が悪い。見知った顔もチラホラあるが、大半が知らない構成員で緊張してしまう。
「良守君、お酒飲める?」
「少しだけなら…」
「よっしゃあ!おーい!誰か頭領の弟さんに酒もってこーい!!」
「今晩は無礼講じゃー!!」
「カンパーイ!!!」
「あ、あはは…」
血気盛んな面々に萎縮しつつも、花島や翡葉など見知った大人達が程よく間に入り、困惑しているであろう良守に助け舟を出して気を回してくれた。
流石大人だ…!と感動しつつも「ほら遠慮せず沢山飲めよ!」と、どんどん酒を注がれるので、ぐるぐる目が回りそうになる。
「うーん噂には聞いていたが…こうして実際に話してみると、やはり良守殿は頭領とは似ても似つかんな!」
グサッとくる一言に苦笑いしかできない。
「よく言われます。兄貴は昔から何でも出来たし背もデケェし。俺には無いものばっか持ってて…」
と言うと周りがドッと大笑いするから、良守は目をぱちくりさせてしまった。
「違う違う!言い方が悪かったな、君を褒めたつもりだったんだよ!」
「え?」
「なに、キョトンとしちゃって本当可愛いわね〜!頭領の弟さんがこーんなに可愛い子だなんてアタシビックリよ!」
「マジっすね。頭領には良守君の爪の垢飲ませてやりたいわ」
「そしたらちったぁ可愛げが出るかもな!」
「あのときもあの石頭は〜」
「ほんとそれな!」
次第に頭領愚痴大会が始まってしまった。
兄貴、部下にボロクソに言われてっけど大丈夫か?と心配になったものの、彼らの表情から察するに正守を尊敬し信頼しているからこそ言えることなのだと気づいて、ほっと安心をする。
(なんだ、兄貴ってすげー部下に恵まれてんじゃん…)
「んふふ、笑顔も可愛いのねぇ良守君」
「えっ?俺笑ってました?」
「笑ってたわよ〜写真撮って頭領に送りたくなるような笑顔だったわ!」
「それはやめてください…」
ゲンナリする良守の背中をポンと隣にいた男性が叩く。冗談だよ、と気を回してくれたのかもしれない。先程から日本酒を片手に皆の話をしらっと聞いている印象だったが、もしかして良い人?
「なんだ?日本酒、飲みたいのか」
「いえ別に」
じっと見ていたら声をかけられてしまった。ドギマギしていると「無理してペースを合わせなくてもいいんだぞ」と囁かれる。
この人、やっぱり良い人?
「頭領もなんで今日に限って出張なんだかなー」
「折角弟さんが来てくれてるってのに、ほんと頭領は薄情なやつだよ。良守君もそう思うだろ?」
「いや、兄貴は兄貴で頑張ってると思うから…会えなくても別にいいんです」
嘘だ。本当は会いたかった。
なんで俺の事避けてるのかも聞きたかった。
でも、居ねえもんは仕方がねえし。
別に兄貴がそばにいないのは今に始まったことじゃないから、気にしてない。
グビっとビールごと、大人達に聞き分けのいいことを言ってしまった苦い気持ちも飲み込んだ。
「はぁ…いい飲みっぷり!そして健気ねぇ〜!」
「え?」
「ホント素直でいい子だわ!うちに婿に来ない?!」
「それとも、オレの嫁になるか!」
がははは!と笑う酔っ払いたちに、良守は愛想笑いを浮かべるだけで精一杯だった。
「まぁでも頭領が大事にするわけだわ」
大事になんかされてない。
とは言い返せなかった。
「ねーねー、小さい頃の頭領ってどんなだったの?」
「それは俺も気になる」
「え?今とそう変わらないですよ。昔からあんな感じで、説教大好き」
「うそー!チビ頭領も見てみたかったなぁ、絶対素敵じゃないー」
「なぁ良守君は、頭領のどんなところが好きなんだ?」
「えっ、ええっと…?」
「頭領のどこをカッコイイって思う?」
「別に……兄貴なんて特に思わないですよ」
嘘だ。本当は滅茶苦茶カッコイイと思っている。5年ぶりに再会した正守は大人の魅力が増し増しになっていたし、電話越しに声を聞くだけでもドキドキしてしまう。それに、正守から笑いかけられた記憶を思い出しただけで体が熱くなる。
「でもでも、ちょーっとくらい良いなって思うところあるでしょ?」
「うぐっ…」
きっと、この部下の人は正守のことを慕っているのだ。自慢の上司の良いところを、家族である良守と共有して語りたい。そんな目をしていて良守は無下にできなくなった。
「ええーっと…強いて言うなら、」
「強いて言うなら?」
「…強いとこ?」
「ぶはっ!!!」
適当に答えたら笑われてしまった。
しまった、本当はもっと色々あるのに…!でもそれを語るのは何か恥ずかしくて嫌だ。しかし寄りにもよって、強いところって…!もっとなんか言いようあったよな、と赤くなりながら考えてしまう。
「じゃあ良守君の好きなタイプは?」
「はぁ?」
なんでそんなこと聞くんだ?!
「デートに行くならどんなところがいい?」
「えっ?!」
「和服と洋服どっちが好き?」
「えぇ…」
なんだかよく分からないけれど、「頭領の弟」に興味津々な面々に様々な質問攻めにあってしまった。
困惑しつつ答えられる限りは答えたものの、あの質問の数々は一体なんだったのだろう。
「はい!余計なことは考えなーい!良守君もっと飲んでー!」
「へ?いや、俺まだグラス入ってるんで…」
「んじゃ俺のと交換するか!」
「だから俺まだ自分の飲んでるんで!」
「がはははは!」
なるべくチビチビ飲んで、次を注がれないようにしないと確実に潰される…とウワバミたちに恐怖した。
「つまみ食うか?」
「え?あ、いただきます」
「騒がしくて悪いな。でもみんな頭領の弟さんが夜行へ遊びに来てくれて、本当に嬉しいんだよ」
「嬉しい?」
「そう。君が良い子で話していて楽しいのもそうだが、頭領が俺達に家族を…一番大切にしている君を、こうして俺達に預けてくれたことが何よりも嬉しいのさ」
「はぁ…」
「良守君、君のお兄さんは構成員から非常に尊敬され慕われている。俺達が命を張れるのは、頭領が上にいてくれるからだ。あの人のためになるのなら俺達は命なんか惜しくない」
「そう、ですか…」
「だから約束するよ。君の一番大切な人は、絶対に俺達が守るから」
「え?」
「その代わりと言っちゃなんだが、またこうして夜行へ顔を見せに来てくれないか?今度は頭領がいるときに…きっと頭領も会いたがってるからさ」
優しく頭を撫でられて、心がこそばゆくなる。
グイッと日本酒を飲んで、そのまま隣の男性は席を外してしまった。
(な、なんだあれ。無茶苦茶いい人だった…兄貴より全然大人だ……)
そのまま夜は更けていき、血気盛んな面々に絡まれ続けた良守は、結局閃と氷浦とゆっくり話す暇はなく宴会は幕を閉じた。
このあとなんやかんや、兄貴の式神がいる部屋に戻って帰る準備しながら式神と話しをしてなにか昼間と違う違和感を感じ、でも最後まで兄貴に会えなくて寂しく思いながら帰ろうとしたら引き止められて「なにか気づかない?」「え?」言われてジロジロよく見ると着物の柄が違う、ニヒルな笑みと目が合って…本物の兄貴!からの両思い!夜の正良エモエモのエモ運動会勃発!ハッピーエンド!
にしたかったですが、力尽きました。