ロナドラSS(今と30年後)「……ネクタイの結び方がわかんねぇ」
洗面所からネクタイを片手にしたまま戻ってくるなり、ロナルド君は情けない顔でそうつぶやいた。思わず私はゲームをする手を止め「はぁ?」と声を上げる。だって煽る以前の問題だ。理解ができない。紳士たるもの、ネクタイくらい結べるのは常識ではないか。
しかしよく考えればこの若造は、私がここに来た時スーツ一式を持っていなかったのだ。だが仕事で必要に駆られて買った時は、たしかキチッとネクタイをしめていたはずだが。
「前は結んでたじゃないか?」
「前って?」
「今着てるのじゃなくて、アホなマジシャンみたいに派手な奴買った時」
「殺した」
「ブェーッ! 事後報告やめろっつってんだろボケ造!」
塵になった躰を整えていると、ソファの隣にどっかりと座ったロナルド君が「あの時は」ともごもご言いにくそうに続ける。
「……店で買ってそのまま着てったから、店員さんが結んでくれた」
「なるほど、五歳児は一人でお洋服着るのむずかちかったんでちゅね〜」
形を取り戻しはじめていた躰に無言でもう一発拳が入れられる。ジョンがいないからって好き放題だな。いや、ジョンがいたって別に彼が容赦したことなんてないか。やれやれと肩をすくめながら、今度こそ私はソファに座り直す。
ロナルド君の外出の時間が迫っているのはわかっていた。これから彼は学生時代の友人の結婚式に出席するのだ。吸血鬼が伴侶らしく、ナイトウェディング。そこに友人とはいえ退治人が出席するとは面白い世の中になったものだ。まあ私としては、人の結婚式のあとに感動したり童貞である事実に打ちひしがれたりするロナ造を見る面白さのほうが楽しみではあるが。
組んだ脚の上に肘を突きながら「それで?」とロナルド君の顔を覗き込む。
「君は結べないことを私に報告して、どうしたいんだね?」
うぐっ、とうめき声が上がった。ロナルド君は苦虫でも噛み潰したような表情を浮かべている。彼が何を考えているかなんてIQ5億の私にかかれば簡単にわかるのだが、今は敢えて黙っておく。そうすれば心底不本意そうに彼は言うのだ。
「……ネクタイの結び方教えろください」
「えー、そんな頼み方じゃどうしようかなァ? もっと畏怖って頼んでくれな……ヴェー! 今殺すのかね君!」
「うるせー! 煽るテメーが悪いんだろ! クソ砂ぁ!」
「そんなこと言って、時間ギリギリだろーが!」
バンバンと塵と化した私の上で拳を打ち付ける暴君に怒鳴れば、ピタリと動きが止まる。どうやら気付いてなかったらしい。まったく、本当に遅刻されたらさすがに招いてくれているご友人方に悪いというもの。私もゴリラの飼育係として、そんなマナー違反なことはさせたくない。
全身を元に戻すと、パッとゴリラの手に握られたままだったネクタイを奪い取った。
「まったく、よく見ておきたまえよ」
「お、おう」
膝を突き合わせ向かい合わせになると、シルバーのそれをしゅるしゅると太い首に巻きつけていく。
「ネクタイの結び方くらい、身だしなみとして習わんのかね?」
「そんなん習わねぇよ。学生の時はずっと学ランだったし、ハンターやっててスーツなんてそもそもほとんど着ねぇし……」
「ロナ戦関係の式典とかは?」
「それはむしろハンター装束が正装だろ」
「ああ、それはそうか」
そんな会話をしている間にネクタイはあっという間に結び終えた。
「ほら、できたよ」
ネクタイから手を離すと、ロナルド君の顔がつられるように上がった。ほとんど吐息のかかりそうな距離の近さに、一瞬目をまたたかせる。別に狭い部屋で一緒に暮らしているし、こんな距離もはじめてではない。けれど、そういう時はお互いバトルモードだから、冷静な気持ちでこんな近くで見るのははじめてな気がした。わあ、睫毛が本当にえぐいほど長い。そしてその睫毛に彩られた碧眼は、どんな宝石よりも青く澄み切って見え――たところで、私はゴリラの拳に殺された。
「グェーッ! 君、やってもらっておいてそれはないだろ!」
「え、あ、ごめん」
めずらしく素直に謝ったのは、私に真実として何の非もないからだろう。まったくゴリラは意味不明に暴れるから困る。
「それで、覚えられたのかね?」
「あ、あんな短時間でわかんねぇよ! やべっ、時間……ッ! 行ってくる!」
どうしようもない捨て台詞にも思える言葉と共に、ロナルド君はなぜか赤面しながらバタバタと事務所から出て行った。
「まったく……ゴリラの生態は意味わからん」
まあ、そんなところが面白いんだけど。つぶやきを落としながら、洗濯物をするために立ち上がる。さてはてあの五歳児がネクタイの結び方を覚えるのは何年かかるのやら。無事に結べるようになった時には、お祝いのお赤飯でも炊いてやろうか――
――そんなことを思っていた時期が、三十年前にあった。しかし、赤飯はあいにく未だ炊けていない。目の前の太い首にネクタイを結びながら、隠しもせずにため息を吐く。
「ロナルド君さァ……いつ覚えるの?」
正面に立つロナルド君は、目元の皺を深めながら瞳を細め「なんで?」と楽しげに聞く。その間にも彼の手は、なぜか私の腰と尻に添えられたままだ。
「なんでって、いい歳したおっさんならそれくらいできて当然だろ」
「何言ってんだよ。俺は五歳児なんだろ? できるわけねぇって」
くつくつと喉を鳴らしながら、ロナルド君は笑う。その瞳は昔と違って、ネクタイを結んでいる間も真っ直ぐと私を見つめている。
「都合のいい時ばっか五歳児ヅラしくさって」
「いいじゃん。ドラ公がやってくれんだし。それに」
腰に添えられた手が背骨をたどって上がっていき、結ばれた髪に触れる。そのまま手は髪を括るリボンを呆気なく解いて。
「リボンもネクタイも解き方ならバッチリだぜ?」
そんなことを手にさらったリボンに口付けながら言うのだから、まったくどこで育て方を間違えたのかと頭を抱えたくもなる。
「ほら、さっさと行こうぜ。今日はお前のためにとっておきの店予約してんだから。あ、でもその前に髪は結び直しておけよ」
「ファー? 今貴様が勝手に解いたんだろうが!」
「そうだけど。やっぱ解いてるところ人に見せたくねぇし……」
さっきまでの気障ったらしい表情はどこへやら、そう言うロナルド君は頭を掻いて決まり悪そうで。そんな姿を見せられると、いやすでにこの顔面のせいでだいぶ絆されてしまう。
ふん、と鼻を鳴らしてリボンを結び直そうとすると――なぜかゴリラの太い腕にぎゅうっと抱きしめられた。
「……おい、結べないんだが。とっておきの店とやらに間に合わなくなるぞ」
「いやぁ……なんか感慨深くなっちゃって?」
「何がだね」
「んー……」
ぐりぐりと人の肩口に顔を埋めうなったかと思えば「ドラ公」と耳元で呼ばれる。吐息が触れるくすぐったさに、思わず肩がピクリと跳ねた。そうすればこの男は楽しげに喉を鳴らして笑うのだ。
「この先もずっと、俺だけがこれ解けるんだなぁって、しみじみしてたとこ」
「……馬鹿造が。自分でも解くに決まっとるだろうが」
「お前以外なら俺だけだろ?」
「まあ、そうだけど……」
肩口から顔が上がって、愛おしさをたたえた瞳に捕らえられる。ドラルク、花蜜を煮詰めたみたいに甘ったるい声が耳を打って、言うのだ。
「百年先も、二百年先もその先も、解いてやるから」
覚悟しておけ――、退治人らしいはずのその台詞は、どろどろに甘い口付けと共に与えられた。分厚い舌が潜り込むのを受け入れながら、ゆっくりと瞼を閉ざした。