先生にも生徒にも評判の良い優等生で、学年でも優秀だと知られてる九井くんには噂があって、ガラの悪そうな人たちとつるんでるところを見たとか、真夜中に六本木のクラブから出てくるところを見たなんて話を聞く。
本当かどうかは分からない。
でも確かに九井くんには、その噂を「そうかも」と思わせるだけの雰囲気があった。
比較的裕福な家庭の子供が通うこの学校では、よく言えば穏やかで素直そうな、悪く言えばぼんやりとした呑気な顔をしている生徒が多い。そういう生徒たちと並んで立った時、九井くんの持つ雰囲気は異質なのだと言うことがよく分かる。
硬質で、鋭くて、ひやりと冷たそうなのに夏の熱帯夜みたいな湿度を持った九井くんは、ごく普通の家庭で普通に育ってきた自分とはまるで違う世界の人に見えた。
それからは事あるごとに九井くんを観察するようになった。
クラスメイトの前ではよく笑って、色々頼みごとなんかを聞いてあげている姿からは面倒見の良さを感じた。先生からの信頼も厚くて、長期の休み明けには必ず学級委員にと推薦されたりもしていて、だけど九井くんはそれを「ごめん、予備校とか色々忙しいから」と毎回断っていた。
「中1から予備校とかウソだろ」と言う少しの意地悪な言葉には「九井は頭いいし東大とかいくんだろ?」と周りのフォローが入り、九井くんはそれを否定せず、やっぱりそうなんだすごいな、じゃあしょうがないな、とその場が収まる。
万事がそんな感じで、九井くんは一見順風満帆で恵まれた学生生活を送っているように見えていた。
九井くんがどこの予備校に通っているのかは知らない。この辺りの有名な予備校で、九井くんを見かけたという人が誰もいないから。
そんな九井くんのことで私が一番気になるのは目だった。
九井くんのすっきりとした顔立ちの印象は目に寄るところが大きくて、つり目がちの一重に黒目の小さな瞳は、本人が言う「目が悪くて、遠くを見る時に目を細める癖のせいで余計目つきが悪くなる」との言葉を除いても鋭い印象が拭えなかった。そんな事情を知らない人間が、九井くんがチラリと投げかける視線と目を合わせてしまった時には、震え上がってしまうんじゃないかと言うくらいに。
教室にいる九井くんは普通の中学生に見えるのに、目だけが全然違うところを見ているようで、その真っ黒な鋭い目が時々怖いとさえ感じた。
九井くんを観察するようになって、九井くんに感じていた異質な雰囲気がどんどん強くなっていくのを感じる。
いつもにこやかだけど、その笑顔はもしかして上辺だけ?優等生なのにたまに授業を抜けてフラッといなくなるのはどうして?時々ものすごく怖い顔をしている瞬間があるのはなぜ?目が悪いのに一番後ろの席を定位置にしてるのは、そうやってクラスの人間を観察しているから?
そう思いながらも、九井くんに目を向けることはやめられなかった。
目の前で同級生と学祭の出し物で話し合ってる九井くんを見て、噂はきっと本当なんじゃないかと思う。分からない。でも少なくとも、私の周りにこんなにも異質な雰囲気を放つ同級生はひとりもいないから。
謎につつまれた九井くん。
他の皆とは違う九井くん。
そういう九井くんのミステリアスさは一部の女子にウケがよくて、そういう意味でも九井くんは人気があった。
九井くんを好きな子には共通点があって、この学校でも特に裕福な家の、所謂いいとこのお嬢様と言われる子が多かった。
彼氏持ちで、もう経験済みだなんて話していた早熟な子の中には「九井はやめときなよ」なんて忠告してくれる子もいて、私にはその理由は分かったけど、九井くんに惹かれる他の子にはその理由が分からなくて、もしかしてライバルなのかもなんて勝手に邪推して、ギスギスした関係になっていったりなんていうのもよくあったし、気の強い子なんかは他の子に取られる前にと告白のための呼び出しをして、九井くんはそのどれにも頷くことはなかった。
優等生で、いつもにこやかで、先生にも信頼されてて、予備校があるからと学級委員は断るけど誰も予備校で見たことがなくて、目が悪いのにいつも一番後ろの席で、女の子に告白されても誰とも付き合わないで、時々授業をサボって、たまにすごく怖い顔をして、ガラの悪そうな大人たちとつるんでるところや深夜のクラブから出てくるところを見られたりして、なのに朝にはまたいつものように登校して「おはよう」と言う九井くん。
不思議だった。
なぜなんだろう。
どうして九井くんは、こういう人なんだろう。
人がそうなるには必ず理由があるはずで、九井くんが他の皆とは違う、その理由を知りたいと思うようになった頃、それは起こった。
進級して間もない四月のある日、グラウンドで体育の授業を受けていた時のことだ。
九井くんは今日は朝から途中で抜けることなく授業を受けていて、少し離れたところで体操服に身を包み、少し怠そうにしながらも、ペアを組んだ男子と時々談笑をしながら体を動かしていた。
風は涼しいけど日差しはもう暑くて、私は日焼け止めを塗り忘れた首の後ろを気にしながらそっと九井くんのことを観察していた。
その時だ。
校庭に、バリバリと煩いくらいの大きな音が振動を伴って響いた。バイクの音だ、とすぐに分かったのは、背の高いフェンスと植込みの向こう、通学路沿いの道路に白いバイクが滑り込むように止まるのが見えたから。
ド、ド、ド、と排気音を鳴らしたままの白いバイクは見たことのない形をしていて、前の方に黒いペイントが施されてあった。
「うわ、族車じゃんアレ」「なにそれ」「暴走族の乗るバイクのこと!」
クラスメイトの声が聞こえる。暴走族。その言葉に、不安が波のように校庭に広がるのが分かった。不穏な空気に、近くにいた友達に肩を寄せ少し後退る。そうしながら、族車と呼ばれるバイクに乗っている男の子を見た。
背が高くてスラっとしている。特攻服と言われるような怖い服装はしていなくて、普通の白いTシャツとブラックデニムに、足元は青いピンヒールのパンプスを履いていた。ヒールでバイクって危なくないのかな。地面に擦れちゃいそう。
ヘルメットをしていない頭髪は金色で、染めているのかと思う。顔はここからだとよく見えないけど、体格は同級生の男子たちとそう変わらないように見えた。同い年くらいなのかもしれない。暴走族って中学生でもなれるものなのかな?
そんな見当違いのことを考えていたら、バイクに跨ったままの男の子が排気音に負けないくらいの大きさで「ココ!」と声を張り上げた。
思わず友達と顔を見合わせる。ココ。なんだろう。誰かの名前?知らない人。それとも何かの合図?
戸惑う私たちを他所に、体育教師が肩を怒らせながらノシノシとフェンスへ近づいていく。そして腕を組みながら怒鳴るような大声で「ウチの学校に何の用だ」「ここは君みたいな不良が来るところじゃない」「迷惑だからさっさと立ち去れ」と捲し立てた。
男の子は何も反論をせずただ何かを探すようにこちら側をじっと見ているだけで、それに気を悪くした教師はますます声を大きくしてがなりたてる。
私はこの教師の大きすぎる声量と威圧感のある喋り方が嫌いで、だからバイクの男の子に向かって偉そうに怒鳴るのに、早くこの時間が終わってくれるようにとだけ思っていた。クラスメイトも同じ気持ちなのか、少しの好奇心を覗かせながらも不安そうな顔を見合わせるばかりで、この事態を遠巻きに見つめるばかりだった。
その時だ。グラウンドの砂を踏みながら前に出た九井くんが「どうしたんだよイヌピー」と声を上げたのは。
体育教師を押し退けて男の子に近づき、そのままフェンスに右手の指をかけると、いつもより少し乱雑な口調で話し始める。
「珍しいな、学校まで来んの。何か急ぎの用事でもあった?」
「別にねぇけど、暇だったから」
「マジか。オレこれでも健全な中学2年生で通してんだけど」
「悪ィ」
「イヌピーそれ悪いと思ってる顔じゃねぇだろ」
そう、楽しそうな声が聞こえてくる。
ココ。九井くん。そうか、ココっていうのは九井くんのことだったんだ。
「で、本当のとこは?」
「……どういう意味」
「だってイヌピー、暇だったからなんて理由でわざわざ学校まで来ねぇだろ。斑目に言付けでもされた?」
「………それは………ある、けど………急ぎじゃねぇ」
「んじゃ何」
男の子の口が小さく動いたのが見えたけど、排気音で聞こえなかったのか、「聞こえねぇって」と九井くんが言い、バイクに跨ったままの彼を指で呼んだ。
男の子は言われるがままバイクを降り、青いパンプスのヒールを鳴らしてフェンスに近づく。
そしてフェンスにかけていた九井くんの指の上に、そっと自分の指を重ねた。
かしゃん。
その音が鳴った瞬間、他の音は何も聴こえなくなった。
ただ自分の心臓の音だけがド、ド、ド、と鳴っているのが分かる。
男の子が重ねた指を動かして、九井くんの手の甲を擽るように撫でた。骨張った、男の子にしては細い指を辿って、縦に長い綺麗な爪を撫でて、それから。
それから手を伸ばして、九井くんの左耳で揺れるピアスを小さく引っ掻くのが見えた。
引っ掻いて、何か呟いて。
俯いた男の子の手を今度は九井くんの指が辿って、薄い唇が動く。笑みの形に頬を緩めた九井くんの指が男の子の爪を親指で撫でて、最後に惜しむように指先だけで繋がって、離された。
かしゃん。またフェンスが鳴る。
目が離せなかった。
心臓の音と排気音が混ざって、ド、ド、と鳴り続けていて、どちらがどちらの音か分からない。
どきどきしていた。
二人の間にある空気に当てられたように、誰も動けなかった。
九井くんが聞いたことのない優しい声で言う。
「20分で行くわ。先行ったとこにあるファミレスで待ってて」
「分かった」
そう頷くと男の子はフェンスからさっと離れ、長い脚を翻すように白いバイクに跨ると、かけたままだったエンジンを吹かし、バリバリと轟音を鳴らして来た時と同じような滑らかさで去っていった。
あっけに取られる私たちの目の前にピンヒールの青い色だけが残像のように漂い、私は世界に音が戻ってくるのを感じていた。
男の子の後ろ姿を見送っていた九井くんは、ややあってゆらりと振り返った後、のんびりと私たちを見回すと「幼馴染が誕生日の続き祝ってくれるって。じゃ、そういうことなんで」と言って立ち去ろうとしたが、それを止めたのは男の子に偉そうに説教していた体育教師だった。
「オマエ自分が何やってるのか分かってるのか」「あんな奴を学校に近づけるなんて」「大体今は授業中だろうが」「どうなるか分かってるんだろうな」そんなことを、真っ赤な顔で唾を飛ばしながら捲し立てる。
大人の面子を潰されたとでも思っているのか、普段より数倍大きな声は音割れを起こして響き、私はまた自分が怒られているかのような萎縮感を覚えた。別にいいじゃない、ちょっと授業を抜けて友達……友達?と遊びに行くくらい、どうせつまらない授業なんだし。
そう思って顔を顰めたところ、間近で怒鳴られていた九井くんが急にぐっと顔を近づけ、驚く教師の耳元で何事かを呟いた。
その瞬間、さっきまでの勢いが嘘のように教師の顔から色が失くなっていく。
青褪めた顔をした教師が、「どうしてそれを」「どこから」と訳の分からないことをブツブツと呟いたあと、震える声で「………行っていい」と絞り出すように告げる。九井くんはそんな教師を冷たい目で一瞥すると、「お先」と言って横を通り抜けていき、呆然と立ち尽くす教師と私たちだけがその場に残された。
一連の出来事に呆然としたのは私たちも同じで、誰も九井くんに何も聞けなかったし、誰も九井くんの後を追いかけられなかった。
取り残された私たちはどうしていいか分からないまま、とりあえず他の先生に連絡をし、それから授業を再開すべく、事前に教えられていた練習をすることにした。
ざわざわとクラスメイトの話し声がする。
「九井ってさー……族と知り合いなの?幼馴染って言ってたけどヤバくね…?」
「教師に何言ったんだろ…」
「分かんね。けどさっきの九井、なんかちょっと怖かったよな」
「てかさぁ、九井って普段もちょっと、なんていうか…ちょっと違うよな。いい奴なんだけど、なんていうか」
「あー、うん。オレらとはちょっと違うっていうか」
「自分のこと全然話さねぇしな」
どこか遠くに聞こえる声を聞きながら、グラウンドを去っていく九井くんの後ろ姿を見て強く思う。
やはり九井くんと私たちは違う世界の人間なのだ、と。
私たちと九井くんの間にははっきりと白線が引かれている。
だからあの噂は本当で、きっともっと私の知らない九井くんがいて、もしかしたら人に言えないような悪いこともしているのかも知れない。
九井くんの纏う異質さはきっとそこから来ていて、それは常人には踏み込めない。
ぬるま湯に浸かった私たちとは別の世界を生きているのだ、と。
でも。
フェンス越しに手を繋ぎあっていた二人の姿を思い出す。
ピアスに触れられた時、九井くんはどんな顔をしていたのだろう。
伸ばした前髪に隠されて見えなかった黒い目は、どんな色を浮かべたのだろう。
分からないけど、嬉しそうに笑っていたんじゃないかと思った。だって九井くんのあんなに優しい声は聞いたことがなかったから。
きっとあの男の子は、九井くんにとってとても大切で、特別な人なんだ。
すぐ会えるのに惜しむように離れた指先。
きっとあれはそう言うことなんだ。
九井くんに告白を受け取ってもらえなかったたくさんの女の子たちと同じに。
九井くんを、観察と言う言い訳でずっと目で追っていた私と同じように。
なんとなく、そんな気がした。
私たちとは違う、だけど少しだけ同じところもある九井くん。
「ココ」と言うかわいいあだ名で呼ばれる九井くん。
秘密が多くて、自分のことを話さなくて、悪い噂があって、少し怖い目をする時があって、大の大人を何か言うだけで黙らせて、暴走族の友達に誘われて授業を抜けていく九井くん。
幼馴染の男の子を大事に思っている九井くん。
あの日、ファミレスで合流した二人はどんなふうに過ごしたのだろう。
想像するけれど分からない。
いくら考えても分からない。
だからそろそろ、不毛な恋はやめて次に進まないといけない。
***
ゴールデンウィークを過ぎた空は日に日に青さを増して、新緑の季節がやってきた。
あれから時々、九井くんはあの男の子と放課後に待ち合わせをしているようだった。
今もヘルメットを受け取りながら「イヌピーも被れよ」「族がメットなんか被ったら舐められるだろ」「じゃあオレもいらねぇ」「ココはダメだ、ちゃんと被れ」等と話す声が聞こえる。
その姿をぼんやり見つめていると、視線に気づいた男の子が私の方を見た。
それにドキリとして、思わず足を止めてしまう。
はっとするほど綺麗な顔をした男の子だった。
顔の左側に大きなアザがあるけれど、それが気にならないくらいの綺麗な顔立ちに、つい不躾に眺めてしまう。
ふと九井くんが「どうしたイヌピー」と男の子の視線を追いかけ、そこで私に気づいて挨拶をしてくれた。
「2ケツしてるの先生には黙っててくれる」
「…うん、いいよ」
「ありがと、助かる」
「別にこれくらい。なんにもしてないし」
「それでも」
そうやって笑う九井くんは、さっき男の子に見せたのとは違う、いつも教室で見せる笑顔をしていて、そんな九井くんを男の子は興味深そうに眺めていた。
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日。イヌピー、行こうぜ」
「ちょっと飛ばすからちゃんと捕まってろよ」
「なるべく安全運転で頼むな」
九井くんは後部シートに乗り込んだ後、振り向いて「バイバイ」と口だけで言ってくれた。
バリバリといつか聞いた音が響いて、二人を乗せた白いバイクはあっという間に遠ざかっていく。
遠くなる音を聞きながら、そういえば今日はヒールじゃなかったな、と思った。
別にいつもヒールと言うわけではないのだろう。だけど初対面の印象はとても強くて、私はあの男の子を見るとあのピンヒールを思い浮かべてしまう。
今日の二人はどこへ行くのだろう。
そう考えかけて、もうやめるのだったと思い直す。
きっとどこでだって、二人はあの時のように、離れがたい物に触れるように指先を触れ合わせるのだろう。
それでいい。これでもうおしまい。
目を閉じてひとつ深呼吸。そうして目を開けると、眩しいくらいの五月の空が目の前に広がっていた。
青いピンヒールに似た深い青空。
結局、九井くんのことは何ひとつ分からないまま、何ひとつ変わっていない。
けれどひとつの区切りをつけた私の心は、まるで数学の方程式を見つけた時のように不思議とスッキリとしていた。