真昼の空に月親戚の魘夢お姉ちゃんは、いつも黒い服を着ている。
お姉ちゃんはいつもお人形さんみたいに綺麗で、笑った顔を見せてくれる。片目が不自由で、いつも眼帯で隠しているけれど、それでも綺麗。
僕の背が何十センチも伸びる間に、お父さんが白髪が増えたなんて何回もぼやいて、お母さんがもうこの服は着られないってクローゼットの整理を何回もして、そんな時間がすぎても、お姉ちゃんは変わらず綺麗だった。お人形さんみたいに、なんにも変わらない。ずっと黒い服を着て、ずっと悲しそうな顔で笑っていた。
だから、僕は魘夢お姉ちゃんに聞いたことがある。お姉ちゃんは何歳なの、って。
そのときは、「炭彦、女の人に歳を聞くものじゃないよ」ってカナタお兄ちゃんに怒られたっけ。僕もすぐに失礼だってわかったから、お姉ちゃんにごめんなさいって謝ったんだ。だけどお姉ちゃんは怒った素ぶりも見せず、いいんだよって頭を撫でてくれた。あのとっても優しくて、それでもどこか悲しそうな笑顔で。
僕は、そんなお姉ちゃんが好きだった。
小学生の頃だったかな。夏祭りの日、歩いてるうちに疲れてしまって、お姉ちゃんの家で休ませてもらったことがある。
いきなり子供だけで訪ねてきても、お姉ちゃんはにこにこしながら家に上げてくれた。僕はその大人っぽい笑顔にどきっとしながら、ポケットの中にあるものを確かめていたっけ。夜店で買ったお姉ちゃんへの贈り物。眠くなっちゃう前に、渡せるといいんだけど。
お兄ちゃんはまだ屋台を見たいって、善照くんと橙子ちゃんとまた商店街の方に行っちゃったから、家には僕とお姉ちゃんのふたりだけになった。
お客さんの部屋を準備してなかったからって、お姉ちゃんは自分の部屋にお布団を敷いてくれた。タオルケットを被って横になっていると、かすかにぴいひゃら笛の音がする。きっと近くをお神輿が通っているんだろう。椅子の上には小さなお人形さんが座って、僕の方を見ていた。黒い服に黒い髪。お姉ちゃんにそっくり。まるで、お姉ちゃんの妹か娘みたい。
お姉ちゃんはこちらに背を向けて、壁際の仏壇に手を合わせている。線香の匂い。少しつんとした、だけど柔らかい匂い。しゃんと背筋を伸ばして、じっと手を合わせたまま動かないお姉ちゃんと、椅子に座ったままのお人形さん。ふたりの間にいると、なんだか僕までお人形になったような気持ちになって、じっと薄いおふとんにくるまってお姉ちゃんの方を眺めていた。
仏壇の奥には写真立てが置いてあって、黒いフレームの中で男の人が笑っていた。おでこに痣があって、右目はお姉ちゃんによく似た羊さんみたいな目をしてる。なんだか、見たことあるような顔の人。オレンジ色と茶色で塗りつぶされて、ところどころ染みのついた写真のなかで、その人は時間の止まったまま笑っている。ぼんぼりに灯ったじんわりした明かりのせいかとも思ったけど、どうやらほんとに古いものらしかった。
「ねえ、魘夢お姉ちゃん」
「なあに」
「この写真の人、だれ?」
腕だけをタオルケットから出して指さすと、お姉ちゃんはああ、と声を上げた。
まるで、そのとき初めてその写真があることに気づいたみたい。そこにずっとありすぎて、もう気にしないくらいになっちゃったような、そんな感じだった。
「俺の旦那様さ。もう、とっくの昔に死んじゃったけどね」
あわせた手をこすり合わせながら、お姉ちゃんはしみじみとした顔になる。あの、いつものほんの少しだけ悲しそうな顔。
悪いことしたかなぁ、と思ったけれど、もっとお姉ちゃんの話を聞きたかった。お姉ちゃん、ふだんは全然自分のことを話してくれないんだもの。他の人のことは、いっぱい知ってるのに。
僕は改めて、写真の男の人を観察した。くしゃくしゃの髪の毛に、左目はまんまるい。古い写真だから色はわからないけど、きっと赤い目をしてるんだろうな、って、なんとなく思った。耳には花札みたいなピアスが下がってる。これ、知ってる。うちの家に昔から伝わってるって言う、大切なものだ。っていうことは、僕のご先祖様なのかなぁ。だけど、お姉ちゃんの旦那さん、なんだよね? だとしたら、こんなに写真が古びているのはへんな気がする。お姉ちゃんは、こんなに若くてきれいなのに。
じーっと写真と遠くからにらめっこしているうちに、あ、と気づいてしまった。このひと、なんだか見たことあると思ったら。僕だ。毎朝顔を洗うときに、鏡の中に居るのと同じだから。
「なんだか、僕に似てるね。この人」
そう言うとお姉ちゃんがぎょっとしたように、僕の方を見た。
びっくりしたような、悲しいような、へんな顔だった。
だけど、すぐにいつもみたいに笑って、僕の方を見てくれる。少しだけ、くちびるが震えていたような気もしたけれど。
「そうだろうとも。だって、この人が炭彦のひいひいおじいちゃんだもの」
ひいひいおじいちゃん?
思わずタオルケットをはねのけて、起き上がる。そうして、よつんばいになってお姉ちゃんのところへと這っていく。眠かったけど、それを押してでも身体は動いた。
「お姉ちゃんの旦那さんが、僕のひいひいおじいちゃんなの?」
「そうさ」
お姉ちゃんの隣まで来ると、僕はあらためてまじまじと写真の男の人を見た。この人とお姉ちゃんが結婚して、僕のひいおじいちゃん? ひいおばあちゃん? が生まれて…ううん。なんだか、気が遠くなりそう。だけど、ひとつだけわかったことがある。
「じゃあ、お姉ちゃんは僕のひいひいおばあちゃんなんだ」
上がる口の端が声を出す邪魔になってしまうくらいに、笑顔が溢れて止まらない。そのくらい、それは嬉しいことだった。
お姉ちゃんがどういう風に僕の親戚になったのかは知らなかったけど、きっと僕とは血が繋がってないんだろうなぁって思ってた。だって、僕とお姉ちゃんは全然似てないんだもの。お姉ちゃんとカナタお兄ちゃんも違うし。お姉ちゃんは誰にも似てない。あの、椅子に座ってるお人形以外には。
だから、お姉ちゃんが僕のひいひいおばあちゃんだとしたら、すっごく嬉しい。お姉ちゃんと僕は、血が繋がってるってことなんだから。寂しそうなあのお姉ちゃんに、寄り添っていてあげられる何かがあるってことだから。
「嘘だって思わないの?」
お姉ちゃんが、なんだか焦ったように聞いてくるから、僕は胸がきゅっとなった。きっと、お姉ちゃんは今までたくさん昔の話をして、たくさん嘘だって言われてきたんだと思う。だから、僕はお姉ちゃんの手を握って、これでもかと笑ってみせた。少し震えている指をおさえつけるみたいに、ぎゅっと強く。
「だって、お姉ちゃんこんなに優しい顔になってるもの。そんな顔で嘘つけるはずないよ」
そう言われたあと、お姉ちゃんはしばらくぼんやりと僕の顔を見ていた。信じられないものを見つけたような。もう会えない人に、もう一度会えたような、懐かしい表情。
お姉ちゃんがふっと笑ったそのときには、その色は消えていた。もっと見ていたかったけれど、なんだかずっとしまっておいてほしいような気もして。だから、僕はなんだかほっとしていた。
「お前は素直な子だねぇ。あいつによく似てる」
そう言って僕の頭を撫でてくれる手は、もう震えてはいなかった。だから、僕はまた安心して布団に戻ることができたのだった。お姉ちゃんも仏壇の戸を閉めると、僕のそばまで来てくれた。おふとんに膝を乗せてくれたから、遠慮無くお姉ちゃんの脚を枕にして甘えてみる。お姉ちゃんも嫌がるような顔をせずに、ただ僕の頭を優しく撫でていてくれた。
「ねえ、お姉ちゃん。昔のお話しして。僕、いろんな人のお話が聞きたいんだ」
好きな色は? 好きな食べ物は? 僕はそんな誰かの話を聞くのが好きだ。人の人生は物語みたいで、みんなそれぞれが少しずつ違って、素敵だなって思う。だから夢を見るのも好き。もう死んでしまった人や、まだ会ったことのない人とも、たくさんお話が出来るから。
お姉ちゃんは夢みたいな人だった。寝かしつけてくれるし、いろんなおはなしを聞かせてくれる。だから、僕はお姉ちゃんも好き。夢みたいな、ふわふわして、優しくて、けれど掴み所の無いひと。
「お前のおばあちゃんも、小さい頃そうだった。いろんな人の話を聞きたがって、俺にせがむのさ」
若くて綺麗な顔でお姉ちゃんがしみじみ言うものだから、僕はきょとんとしてしまったけれど、すぐにわかった。お姉ちゃんは僕のひいひいおばあちゃんだもの。おばあちゃんの子供の頃のことだって、知らないはずないじゃないか。
「じゃあ、おばあちゃんのお話しして」
「いいとも」
そうして、お姉ちゃんは話し出した。僕の知ってる人の、知らない話。それを、僕はお姉ちゃんの膝を枕にして聞く。ぽんぽんと背中を叩いてくれるから、だんだんと眠くなってくる。ああ、このときがとっても幸せなんだ。夢とほんとが混じり合って、うとうととふたつを行ったり来たりしてる時間。お姉ちゃんは、こういう時間をじゃまにしないで、いくらでも寝かせてくれる。きっと、夢の楽しさを知ってる人なんだろうな、お姉ちゃんも。
少し身体をこごめたときに、ズボンのポケットで何か固いのがお尻に当たった。ああ、そうだ、忘れるところだった。お姉ちゃんへの贈り物。夜店で頑張って選んだ、黄色と緑の四角いビーズで作られた指輪。
橙子ちゃんもかわいいって褒めていたから、きっとお姉ちゃんも喜んでくれる。お姉ちゃんはあんなに綺麗なのに、黒い格好ばっかりじゃ、もったいないから。もっと、いろんな色のお姉ちゃんにしてあげたい。そう言ったら善照くんにからかわれたけど、僕はいいんだ。お姉ちゃんが喜んでくれるなら。
ほんとうは今すぐにでもお姉ちゃんに差し出したいのだけれど、もう眠たくって起き上がれやしない。起きたら、忘れないようにお姉ちゃんにあげなくちゃ。
お姉ちゃんの声と、背中を優しく叩いてくれるゆらぎを感じる。その中で僕は生まれて初めて、はやく夢から醒めたいなぁ、なんて思った。