ガラスの靴にはまだ遠い「すみません、スティーブさんいらっしゃいますか?」
スケジュールと打ち合わせのために現在の雇い主の職場を訪ねると社員の人々に一斉に視線を向けられてたじろぐ。以前仕事をした方からの紹介でマッコムのCEOのボディガードを短期で務めることになった。職場の人たちとも雑談をする程度には親しくなれたと思っていたのだけれどいったいどうしたのだろうか。
「今スティーブはちょっと……」
言葉を濁して目を逸らすアシュリー。いつも物事をはきはき話す彼女にしては珍しいことだ。彼女の言葉に他の面々も視線をうろつかせて思案気だ。今は都合が悪いのだろうか。外出の予定などがなければ急いで打ち合わせをする必要もないしまた出直したほうがいいかもしれない。今日は社内にいると聞いたから打ち合わせができればと思っただけだし。
「いえ、彼に行ってもらった方がいいかも」
なにがですか。モニカの視線にたじろぐしかできない。CEOのスティーブからして予測不能な人物で、彼の元に集う社員たちもみんな個性的だ。あくまでボディガードとして紹介され一時的にかかわることになっているが見ているだけでちょっと面白い。そんな彼ら彼女らの視線を一身に集めるというのは中々落ち着かないものだった。
「ちょっとスティーブの様子を見て来てもらっていいですか?しばらく急ぎの仕事はないので打ち合わせもできそうだったらしてきていいし」
アシュリーの提案に否やはないがそれにしては憂い顔なのが気になる。構いませんが、と返した時点でじゃあよろしく!と力強くスティーブのいる部屋へと送り出され理由を聞く暇もなかった。ボディガードを務めるのだから自分は当然鍛えているはずなのに彼女たちの勢いには全く逆らえなかった。強い。
ともあれスティーブがいる部屋へと向かう。ガラス張りの向こうにいる姿を見つけると彼はデスクに座って肩を落としていた。おや、と目を見張る。外出するときはたいてい機嫌よく楽しそうに話していることが多いため新鮮だ。しかし背中だけでもわかる落ち込み具合。これは社員たちも頭を悩ませるわけである。噂によると破天荒らしいがそれでもみんなそれなりにCEOの彼を慕っているようだし心配なのだろう。
見つめていては埒が明かないとドアをノックするが肩を一度揺らしただけで反応がないのでそのまま部屋に入る。所在なさげに揺らされているスティーブの足から靴が落ちたのが見えた。どう言葉をかけようか迷っていたのでとりあえずそれをきっかけにさせてもらうことにした。
「落としてますよ」
「ハイ、マイボディガード」
「こんにちは」
初めて会った時にスーツ姿の自分を見てスティーブは嬉しそうに有名な映画になぞらえて「マイ・ボディガードだ」とはしゃいだ。それ以来この呼びかけ方は定着している。
デスクに座って子どもみたいに足を揺らす彼の前に跪いて拾った靴を履かせる。もちろんこれはボディガードの仕事ではないし他のクライアントにこんな真似をしたこともない。しかしスティーブがあんまりにも落ち込んでいるのでひとつ気障な仕草でちょっとは笑ってくれないかと思ったのだ。
「ありがと」
泣いたのかスティーブの目じりは赤くなっていた。感情の起伏が激しい彼が泣くのは予想外と言うほどでもないができれば泣くよりは笑っていてほしい。彼の笑顔は本当に明るくて好ましいのだ。
「スケジュールのこと?それなら」
「いえ、ランチでもいかがですか」
本来の目的を放り投げて別の提案をすることにした。まあランチしながらでも打ち合わせはできるし。立ち上がってわざとらしく紳士的に手を出して誘ってみればスティーブはきょと、と幼い表情をしてから笑顔で手を取ってくれた。
「俺をデートに誘ってる?」
「はい」
「美味しいところがいい」
「もちろん、この間いいお店を見つけたんです」
デスクから降りて地に足をつけた彼はもう先ほどまでの悄然とした様子を消していた。こうして切り替えが早いのも魅力の一つと言えるだろう。そのまま取った手の甲に唇を落とそうかとも思ったけれど自重した。でも想像してみたら全然できるなとも思う。自分はこの雇い主をずいぶん気に入っているらしい。
「よし、行こう!みんなにも昼休憩を取ってもらって午後から仕事だ!」
「あ、スティーブ」
そんなに急ぐと転びますよと注意しようとしたところで案の定彼は足元を滑らせた。手を繋いだままなので当然自分も引っ張られるがこちらもボディガードをやっている身、一緒にこけるなんて無様な真似は許されない。手を引っ張って地面に倒れるのを回避させて自分にもたれかからせる。いやこの人軽いな。つないでいない方の手を腰に回すと想像以上に細かった。
「大丈夫ですか」
「おう……」
「?」
反応が鈍いのでどこかぶつけでもしたかと若干下にある彼の顔を見ると何故か赤くなっていた。見たことのない様子に心臓が跳ねる。
「あ、ありがと。よし、行こう!」
「は、……はい」
距離の空いた体と離された手の熱が惜しい。すっかり元気になった様子の背中を追いかけて、大きな声で休憩を告げる彼に一様に安心した面々を見てやっぱり好かれているなと思う。
「じゃあちょっとランチに行ってくるから」
社員たちに見送られてエレベーターへと向かう。まあランチはランチですけど。人の目があまりないことを確認してからスティーブの耳元に口を寄せる。
「デートでしょ?」
「っ!?」
肩を跳ねさせて見上げてくるスティーブは可愛い。いつか本当にデートに誘ってしまおうか。この人は頷いてくれるだろうか。
「ランチだよ」
美味しくなかったら承知しないぞ!とあざとく頬を膨らませるスティーブにそれはもちろん保障します、と返す。おそらく自分の頬も赤くなっているだろうことには気づかないふりをした。