プレゼントフォーユークニヨシの同人誌製本を手伝った時の話
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無心になって手を動かすこと数時間、出来上がった同人誌をすべて段ボール箱に収め、リヒトは大きなため息をついた。壁際、山のように積み上がった箱を見つめ、しばしぼんやりと佇む。依頼された作業はなんとか終えられた。他の部屋も街も眠りにつつまれているのか、外はしんと静まって、車の走り去る音すらも聞こえてこない。
「良かったぁ、おかげさまで明日、じゃないやもう今日だね、とにかくこれでイベントの準備はばっちりだよ! 本当にありがとう!」
何度も何度も感謝の言葉を口にするクニヨシは、その丸い顔をこれ以上ないというくらいにほころばせている。つい先ほどまで猛烈な勢いでペンを走らせたり、ああでもないこうでもないと頭をひねりながら色を置いたりしていたはずが、疲れた様子など微塵も浮かべていない。友人が嬉しいのなら自分も嬉しいと、リヒトは知らず知らずのうちに頬をゆるませた。
お茶とお菓子を持ってくるねと言ってキッチンスペースへ飛んでいったクニヨシを見送る。
「……いやはや、凄まじい戦いであったな」
「はい、ご主人様」
かたわらに控えているメリュジーヌは、こんな時でも背筋を伸ばし、美しい正座姿で座布団に腰を下ろしている。とはいえさすがに疲れたとみえて、普段よりもさらに表情が消え落ちていた。お疲れ様でした、とだけ言葉を発し、あとは口をつぐんでいる。彼女に怒涛の作業をさせた――しかもメイドとしての仕事であればともかく、手伝ってもらったのは漫画の製本だった――ことを、リヒトはすまなく思った。
「遅い時間までかかってしまったな」
メリュジーヌは顔色ひとつ変えず、静かに首を振る。
「何の問題もありません。私は、ご主人様にお仕えをしている身ですから」
「う、うむ。そうであるな」
はじめ、クニヨシが製本の手伝いを依頼したのはリヒトだけだった。絵画教室のよしみでどうかお願いできないかな、という丁寧な表現ではあったものの、端末の画面に並んだ細かい文字の向こうからは切羽詰まった気配が伝わってくる。うすうす答えは分かりながらも「イベントというのはいつなのだ?」と尋ねれば、即座に「明日だよ!!!!!」という返事が飛んできた。
記号の多さは、状況の過酷さに比例する。リヒトが自室の椅子から勢い良く立ち上がったのはこの瞬間だった。
「どうなさいましたか」
ただならぬ雰囲気に、メリュジーヌが声をかける。状況を説明すれば、間髪入れずに「私も参ります」と言葉が返った。
「いや、吾輩だけで……」
「お邪魔でございますか」
まっすぐな瞳。投げかけられた言葉はきわめてシンプルで、リヒトは一瞬たじろぐ。けれどわざとらしい美辞麗句や本心の隠された駆け引きを無数に見てきた身にとって、メリュジーヌの物言いはいっそすがすがしいものとして彼の心に沁みた。
「そういうわけではない。むしろ大いに助かる。しかしメイドとしての仕事ではないものだからして……」
「構いません」
彼女は相変わらず、落ち着き払った表情を見せている。山ぶどう色の瞳は、迷いなく透き通り、輝いていた。
「ご主人様の手助けとなることならば、私は喜んで参ります」
結果、頼もしいことこの上なかったと、リヒトは思い返す。紙の山を前にひるみかける自分をよそに、メリュジーヌは顔色ひとつ変えず黙々と手を動かしていた。一切の無駄がない手際の素晴らしさを、一向に作業スピードの落ちない真面目さを目の当たりにするたび、リヒトは自分を叱咤する。目の覚めるような思いがした。
「ご主人様」
「な、なんだ」
「ひとさまに、それもご主人様のご友人にお茶を用意していただくというのは、少々居心地が悪いように思います」
淡々とそう述べる。なんだかキッチンの方へちらちらと視線をやっていると思ったら、そういうことだったらしい。常日頃は自分がお茶を淹れる身であるために落ち着かないのだろう。リヒトは小さく苦笑した。
「そうだな。しかしここはクニヨシの部屋であるし、クニヨシが是非にというのだ。彼の感謝の気持ちの現れとして、受け取ってやってはくれまいか」
「かしこまりました」
「うむ」
リヒトがふと握りしめた手のひらは大量の紙に潤いを取られたのか、明らかにかさついていた。思いもかけない影響に、眼鏡の奥の目を見開く。次のその視線は静かにすべり、メリュジーヌの手元を確かめた。糊の効いたフリルエプロンの上、行儀良く重ねて置かれている、メリュジーヌの白い手を。
そろそろ季節の変わり目ということもある。彼女の手指も、同じように乾燥してしまっているはずだ。
数日前、連れ立って街を歩いていた時、ふと彼女の視線がとある路面店に吸い寄せられたのを、リヒトは目にしている。洗練された雰囲気のそこはハイブランドのコスメティックショップだった。精油やハーブの、爽やかでありながら気持ちの安らぐ香りが漂ってくる。ガラス張りの店内では、しゃれた恰好をした人々が楽しそうに商品を見比べたり、友人や恋人と思しき同伴者に話しかけて笑ったりしていた。
信号待ちをしていた間の、ほんの少しの時間だけだったとはいえ、メリュジーヌは興味深そうにそのショップへ視線を注いでいたのだった。
「用があるのか?」
それくらいの気遣いは自分にもある、とリヒトは思う。とはいえ、あまりにもしゃれた店内は自分と不釣り合いのように思えて、もし彼女と共に店に足を踏み入れるとすれば気恥ずかしい思いをすることになる、とも考えた。けれどそれでも構わない。他ならぬ彼女が心惹かれたのならば。
しかしメリュジーヌは、そのショップからふいと視線を逸らした。うつむき、かしこまってリヒトに応える。
「特に、用というほどのことはございません。……参りましょう、ご主人様」
そこまで言い切られては、リヒトもそれ以上何か言うわけにもいかない。冷静な横顔をして主の目的の場所へと歩き出すメリュジーヌを前に、そうか、とだけ呟いた。
ふと思い出したのは、あのコスメショップのことだった。確か店頭に飾られていたのはハンドクリームだったはずだ。季節限定の、新発売の。
リヒトの手が、端末を押し込んであったポケットへと伸びる。いまどきの店なのだから、きっとオンラインショップがあるに違いない。それならば自分でも購入し、かけがえのない相手へと贈ることができるはずだ。けれどひとくちにハンドクリームといっても、香りのバリエーションだとか、テクスチャの違いだというものがあったら一体どうすればいいのか。
リヒトの眉間が、知らずのうちに狭められる。きっと自分には、メリュジーヌがいちばん喜んでくれる商品がどれなのか分からない。だからといって、本人にどれがいいのか尋ねるというのは無粋ではないかとも思う。
「あー……。ええと、うむ……」
不慣れな思考に混乱して、ぎこちない呻きがこぼれる。寡黙なメイドが顔を上げた。