——まだ起きてるなら、あたたかいものでも飲みに行かない?
手持ち無沙汰に眺めていた端末の画面に、見慣れた名前と気易いメッセージが一瞬だけ浮かび上がり、消えていく。行く、と簡素な返事を寄越したキョウは、のろのろとベッドから抜け出した。すっかり体の線に馴染んだ部屋着のシャツの上からパーカーを羽織る。爪先にキャンバス地のスニーカーを引っかけ、部屋を出ようとした矢先、戸口に待ち構えていたレンと鉢合わせた。
「いつから居たんだよ」
「ついさっき」
時刻は夜半に差しかかろうとしている。人気のない廊下に反響するのを気にして声をひそめるキョウに対し、レンは平生と変わらぬ調子であっけらかんと返した。
「俺が寝てたら、行かないって言ったらどうするつもりだったんだ」
「キョウが出てくれるまで泣いて喚いて、ドアを叩きまくる」
「やめろ。迷惑だ」
「でも、隣にはもう誰もいないんでしょ」
「俺が迷惑だって言ってるんだよ」
レンが指摘した通り、冬季休暇の期間はほとんどの生徒が帰省している。それでも寮に残った生徒のため、食堂や談話室には一晩中明かりが灯っていた。とはいえ、生徒だけではなく教職員も休暇に入っているため食事が提供されるわけではない。懐に余裕のある生徒なら学外のカフェテリアやダイナーを利用するが、キョウのように外出を面倒臭がって、インスタント食品や駄菓子で空腹を紛らわせる者も少なくなかった。
「お腹は空いてない? 何か食べる?」
クリスプやチョコレートバーの販売機の前で、レンが訊ねる。キョウは緩く首を振った。めいめいに湯気の立つ紙のカップを手に、がらんどうな食堂の片隅に腰を下ろす。香りだけは立つくせに、やけに風味の浅い安物のコーヒーに、レンは平然と口をつける。キョウは両手でカップを包み込むようにして捧げ持ちながら熱いココアに細く息を吹きかけ、ちびちびと舐めた。
「それで、お前はどうなんだよ」
出し抜けに訊ねかけられたレンは、対面に座るキョウを見つめながら小首を傾げる。
「だから、実家……母星? に帰らなくていいのかよ」
「そんなに気軽に帰れる距離だと思う?」
口元に手をあてがいながら、レンはさもおかしそうに笑う。何気ない雑談を交わすつもりが見当違いな質問を投げかけた気がして、キョウは羞恥を誤魔化すようにココアを口へ運んだ。耳に痛い沈黙が、ボイラーで温められた空気とともに食堂を満たす。
「それに、みんなと過ごすホリデーも楽しいよ」
校内に残っているのはキョウとレンばかりではない。見知った顔もちらほらと見かけた。休暇をいいことに徹夜でゲームに興じたり、キッチンを占領してケーキやクッキーを焼いたり、勝手気ままに過ごしている。
「キョウの誕生日も一緒にお祝いできるからね」
カップを持つキョウの手がぴたりと止まる。うつむけていた顔を上げ、怪訝な表情でレンを窺い見た。
「……知ってて、それで」
「当然。そろそろパーティーのお誘いが来る頃じゃないかな」
レンがポケットから端末を取り出す。時刻を確認すると、そのまま無造作にテーブルへ置いた。
「じゃあ、お前は何でここにいるんだ」
「俺が最初にキョウを祝いたいって、みんなに言ったから」
カップに添えられたキョウの指先へ、レンの手が伸びる。ひとまわり小さな右手はココアの熱で温められ、淡い桜色に色付いていた。短く揃えた爪の先へ口付ける。キョウは熱い湯にでも触れたように、反射的に手を引っ込めた。
「準備ができたら連絡してくれるはずだから、それまでゲームでもして待とうよ」
テーブル越しに微笑みかけるレンと目を合わせないまま、キョウは無言のうちに頷く。空のカップをくずかごに放り込み、連れ立って食堂をあとにした。
薄暗く冷え切った空気の漂う廊下を足早に進み、レンの部屋へ向かう。しかし、ドアの前まで辿り着いた途端、キョウは躊躇するように立ち竦んでしまった。一足早く部屋に入ったレンが手招きしても、キョウは曖昧な返事をするばかりで揺蕩っている。とうとう焦れたレンが半ば強引にキョウを抱き竦め、部屋の中へ引き入れた。扉を閉てるのももどかしく、くちびるを押し当てる。
「……俺、抱かれに来たつもりはないんだけど」
「どうして。新しくなったキョウを一番に見たいのに」
「馬鹿。誕生日が来たくらいじゃ何も変わらない。……それに、他に見せるような相手もいないだろ」
息が詰まるほどの力強い抱擁に身じろぎさえできないキョウは、せめてもの抵抗とばかりにそっぽを向いたまま呟く。肺の中の空気を洗いざらい吐き出すが如く長いため息をついたレンは、繊くまっすぐな髪に熱い頬を擦り寄せた。
「何というか、キョウって……時々、口説き上手だよね」
「誰が、誰を口説いたって」
キョウがけんつくを喰わせてもレンは意に介さず、しがみつく腕を解こうともしない。キョウは両手を目一杯差し伸ばし、むずがる子どもをあやすように広い背を撫で付ける。業を煮やしたキョウがベッドに行くんだろ、と促せば、レンは頑是なく頷いた。