なぜだか泣きたくなったずっと一人で生きていくんだろうな、と思ってた。そう思うようになったのは二十代半ばの頃だ。
仲間連中が結婚していく中、俺にも付き合っていた女性がいた。向こうは普通の会社員で、休みの予定なんか到底合わなかったけれどきちんと会う努力をしたし、こまめに連絡もした。俺はたぶん、彼女にとって悪い恋人ではなかったと思う。
けれど、情熱はなかった。責任感に行動を駆り立てられただけでちっとも心なんかこもってやしなかった。かといって嫌いなわけでもなく、長年の付き合いによる情っていうのもわいていた。俺の仕事をきちんと理解してくれ、さりげなくサポートしてくれた彼女は、アスリートの妻にするにはこれ以上ないくらいの人材だった。
しかし、こんな風に計算じみた考えをしてしまった時、若く愚かな自分でも何かが違うことに気が付いたのだ。もし俺がもっとドライな考え方をする奴だったらそのまま結婚まで行きついてただろうが。
だけどそこまで割り切れなかった。考えゆくにつれて自分がとてつもなく薄っぺらい人間だということに気が付き、それを許せない若さの傲慢でもって、彼女に別れを告げていた。
そして、俺は思ったのだ。ずっと一人かもしれないな、と。
「なー堺……結婚したいなあ」
俺の隣で、焼酎ロックをぐっとあけながら丹波が言う。すでに俺の肩に手を回してるから、相当に酔いが回ってるんだろう。テーブルの上の料理もあらかた片付いている。飲み始めてからそれなりの時間が経ったのか客もまばらで、後ろの座敷席から時折大きな笑い声が聞こえてくるくらいだった。
俺らは通い慣れた小さな居酒屋で、四人で飲んでた。丹波と石神と堀田だ。変わり映えのしないメンツだったが気楽は気楽で、会話の中身もくだらねえ話ばかりになる。
「なにそれ丹さん堺さんと結婚したいの?」石神がつまんねえことを言う。俺は突っ込むのも面倒で、ジョッキになみなみと注がれたハイボールに口を付けた。
「えええ堺ぃー? 俺もう少しかわいい子がいいなあ。まあメシ作れそうだし掃除もやってくれそうだし? それに優しいけどさあ!」
腕に力が入り、グラグラと肩を揺らされる。
「俺にも選ぶ権利あるだろ」と口にしながら、やんわりと丹波を払いのける。そんな条件ばかり並べてるから結婚できないんだろ、っていう本音は飲み込んでおく。
「え? もしかして俺振られちゃった?」
「かわいいのがいいって言ったのはお前の方だろ?」
「あ、堺もしかして傷ついた?」
馬鹿な事言ってんなよ、と言い返す前に「なんか会話が気持ち悪いんですが」と堀田に口を挟まれてしまう。確かに。
ごもっともすぎる意見に俺がまた黙り込むと、「つうか俺らなんでいい年してみんな独身なんでしょーね」と石神が最大級のダメ押しをしながら、最後の焼き鳥を口に放り込んだ。
「ガミさんは適当過ぎるから」
「えー、堀田君がまじめすぎるだけじゃん?」
「まあ堀田は堺ほどじゃないと思うけどね」
「俺はそうでもねえよ。つうか、丹波はそもそも、結婚する気あんまねえだろ」
いや、たぶんみんな結婚願望なんて持ってない。それはタイミングを逃したせいでもあるし、現在の職場状況が崖っぷちなせいでもある。俺らは余裕綽々に見せかけといて何の余裕もなくて、明日が見えない刹那主義の中で生きてる。結婚、とかそんな華やかな響きからは、はるか遠いところにいるのだ。
「あーあ。結婚はともかく、愛が欲しいなあ」
椅子を通り越して後ろのテーブルに寄りかかりながら、丹波は独り言のように言った。「愛だよ、愛」
そんなクソ寒いことを言い出したから嫌な予感がしたのだが、丹波が潰れるまでは瞬殺だった。小さなテーブルの上に、器用にスペースをとって突っ伏してしまう。「あーあ、どうします?」投げやりに口にした石神の顔には『面倒』と力強く書かれていた。
「まあ赤崎でも呼んどけばいいんじゃねえの? 家近かっただろアイツ」
「うっわ堺さん悪ーい。先輩の権力濫用」
「嫌だったら断るだろ、アイツああいう性格だし」
「あ、俺電話してみます」
どうやら堀田とは意見が一致したようだ。電話するなり、小一時間後に赤崎はやってきた。
「悪いな」
「いえ、たまたま近くで飲んでましたし。タンさんひどいスね……」
黒いダウンジャケットを隣テーブルの上に置き、赤崎は腰をかがめてさっそく丹波の様子を伺う。「寝てますね……気持ちよさそうに」
「だな、別にそんな飲ませたつもりはねえんだけど。とりあえずお前の家に運ぶ形でもいいか?」
「かまわないスけど……俺明日オフだし」
赤崎が丹波を揺らす。「丹さん起きて……」ってしきりに呼びかけてるのを見つめながら、俺はつい「愛がここにあるな」なんて思っちまう。
赤崎はこう見えて面倒見がよくて、頼まれると嫌と言えないタイプだ。はっきりとした物言いに誤解されがちだが、案外情にもろかったりもする。そして小さいころから面倒をみてくれた丹波に対しては、いろいろと思うところがあるはずだ。俺は飲んだくせにやたら涼しげな赤崎の横顔を見つめながら「少ししたらタクシー呼ぶか。乗せるとこまでは手伝うから」と言った。
「いえ、世良さんもくるんで大丈夫っス」
「わざわざ呼んだのか?」訊いたのは堀田だ。「さっきまで一緒だったし。いったん帰ってチャリでくるから少しかかるっていってたんスけど」
世良か。直属の後輩も俺の知ってる限り面倒見はいいな、確かに。まあ少し鬱陶しいけど。俺は店員を呼んで会計の準備をした。
赤崎はコートを手繰り寄せ、携帯を確認する。するとその瞬間、ガラッと引き戸が開き「ちわーっす!」と世良のバカでかい声がした。
「おまえうるっせえな……ほかの客いんだぞ」
「うっわ堺さん! いたんすか!」
「いたんすかじゃねえよ……状況訊いてなかったのか?」
「俺赤崎から『丹波さん搬送するから手伝ってほしい』としか聞いてないっす……」
マフラーを引き抜きながら、世良が赤崎の隣に立つ。「おー見事に潰れてるっすねー」と妙に嬉しそうに。
「男も三十すぎっと色々あるんだよねえ」石神が世良の肩をたたく。「えええなんかあったんすか!」さらに嬉しそうな声に、俺の眉間の皺がぐっと深くなる。はぁぁああどうして何も考えねえで発言できるんだ世良……!
「えー知らなーい。堺さん知ってる?」
「別になんもねえだろ。酒に呑まれただけだ」
「少しは面白いこと言ってくださいよー、後輩の期待ひねりつぶしちゃって可愛くないですよ?」
「期待は裏切られるためにあるんだろ」
俺は残りの飲み物を飲み干し、世良に告げた。「お前赤崎と早く丹波持って帰れ」と。
「うわああ重いっすー、タンさん自力で歩いてくださーい」
「おおお世良! タンさん歩くのしんどいぞ……」
「三十路過ぎが名前呼びしないでください。世良さん、すぐタクシー来ると思いますから」
国道までの細道の数十メートルほどを、丹波を引きずった赤崎と世良が悪戦苦闘しながら進む。
「俺あいつら見送ってからタクシー捕まえるよ」
「了解」
逆方面の石神と堀田に別れを告げ、小走りで連中の後を追う。
「悪い、面倒かけたな」タクシーの後ろドアから、丹波と共に車に乗り込んだ赤崎に声をかけた。
「別に、構わないっスから」珍しく赤崎は笑った。
車が発信する。後ろガラスから見えるだらしなくゆらゆら揺れる丹波の後頭部に呆れてると、「赤崎、タンさんのこと好きみたいっすよ」と突然後ろから声がした。振り向くと、ダッフルコートにマフラーをぐるぐる巻きにした世良が、自転車に跨っていた。
「なんだよそれ」
「ソッチョクな事実っす」
子供みたいなナリで子供みたいなことを口にした後輩に、俺は何を言えばいいか分からなくなる。結局俺は、「そういうことは他人がとやかく言うもんじゃねえだろ?」と通り一辺倒なことを言った。すると「そっすね」といつになく殊勝に、世良が頷く。
つうかマジなのか、愛……。
俺はさっき見た邪気のない赤崎の笑顔を思い出し、急に事実に身震いした。「確かにアイツはかわいいもんな」とつまんねえ感想を抱きながら。目の前を大型トラックが通る。轟音に軽い耳鳴りが始まり、砂埃に涙がにじむ。
まずい、孤独が沁みる。目を軽くこすると「堺さん寂しいんすか?」と世良が自転車ごと俺に近づいてくる。
「そんなんじゃねえよ、埃が目に入っただけだ」
「ずいぶんベタな言い訳するんすね」
「こんなんで泣くはずないだろ……」ていうかコイツデリカシーなさすぎだろ。孤独を貫くってのも苦労があるんだ。そりゃあ自分の人間性がそもそもの問題だとは知ってても、どうしようもなくなる時もあるんだ。
「堺さん、飲み行きます?」
「行かねえよ」
「俺、潰れたらちゃんと介抱しますよ?」
「だから行かねえって!」
しかもこんなガキに同情されるとか終わってる。俺の問題の根源は根深いんだ。夜の峠を超えて車通りの少なくなった国道を見つめる。まばゆく光るテールランプに紛れて、ようやく空車が近づいて来たから俺は一歩踏み出して手を上げようとした。
すると、その手を不意に掴まれてしまう。
「……何の真似だよ」
あっさりと通り抜けていくタクシーを恨めしく横目で追いながら、俺は世良を睨みつける。世良は俺の剣幕に驚いていたが……どう見ても演技だった。すぐに真剣なまなざしで見つめ返される。すげえむかつく。
「ほっとけないっす……」
俺の手首を掴んだ指先に、強く力が籠められる。
「なんかお前勘違いしてねえ?」
「してないっす……たぶん」
「俺家に帰りたいんだけど?」
「明日帰ればいいんじゃないすか?」
世良はへらりと笑い、するりとマフラーをほどき、俺の首元に巻き付けた。まったく趣味じゃないチェックのマフラーが馬鹿に暖かくて、俺は何故か泣きそうになった。