よーいどん すっかりと夜の帳が下りたナックルシティの片隅。夕食もシャワーも終わらせたキバナは、リビングでのんびりと読書をしながら膝に顎を乗せてくるフライゴンの頭を撫でて存分にリラックスモードだった。間接照明によって柔らかい明るさに包まれた部屋の中では、他のポケモン達ものんびりと寛いでおり平和の一言だ。ただ、少し引っかかる事があるとすれば同棲している恋人の様子が変だったこと。仕事から帰って来たと思えば夕飯もそこそこに共有してる書斎に引き篭もってしまった。
まあ、何かに集中したい時には同じような事は度々あった。キバナもたまにやる。ただ、今回は表情がいつもより鬼気迫ったというか焦っていたというか。
「…ふりゃ」
撫でる手が止まっていた事にちょっと不満げな声でフライゴンが拗ねる。それに謝るように撫でる動きを再開すると、満足そうに目を細めて擦り寄ってくる。そんな可愛い姿に、今日は甘えただなぁ。なんて思いながらキバナは読書を続ける。
結局フライゴンが満足してボールに戻り、手持ちの中で一番夜更かしをするコータスが暖炉の側で眠りについてもダンデは部屋から出てこなかった。
これはもしかすると集中モードからの寝落ちルートか?
そうだったら、寝室に運んでやろう。ついでに寝顔もじっくり堪能しよう。読み途中の本にブックマーカーを挟み、さて立ち上がろうかと思った時。バタバタと慌ただしい足音がリビングへと入ってきた。
「キバナ!駆け引きをしよう!」
仕事着の上着だけ脱いだままのダンデが、駆け足の勢いそのままに、キバナの膝の上へと跳び乗ってくる。成人男性二人分の局所的な加重に、ギジリとソファーが悲鳴を上げ、座面に置いた本は驚いたように跳ねて床の上へ。
「駆け引き…?取り引きじゃなくて?」
「駆け引きだぜ!」
全く意味が分からない。キバナは疑問符を隠さないまま興奮気味に提案してくる恋人の顔を見る。
ダンデは世間でも言われている観察眼もそうだが、頭の回転がズバ抜けて速い。例えば会議で空の話をしているうちに、空のことを考え終えて深い海のことを考えているような男だ。その為に結論を出す段階になった時には周りと解答がズレてしまう事も多々あった。「マイペース」なんて言われてもいるが、多分速度の違いから来るズレもあるのだろう。
ただ、回転が速いからといって理論整然としているかといえばそんな事もない。ぶっ飛んだ思い付きをする事もある。正に冒頭の言葉のように。回転が速い分、偶にとんでもない思考の暴走というか数段飛び故のズレが起こる事がある。
眠りを邪魔されて迷惑そうなコータスが自身のボールに避難していくのを申し訳無い気持ちで横目に見ながらも、キバナは何とかダンデが今回の突拍子もない行動をした理由を探ろうと言葉をかける。
「駆け引きって、バトルの?」
「キミとのバトルの駆け引きは魅力的だがそうじゃない。恋の駆け引きだ」
「えっ?恋?……お前が?」
予想外の言葉に思わず聞き返すと、ダンデはムッとした表情をして手に持っていた雑誌を勢いよくキバナの胸へと押し付ける。
「いてぇって!怒んなって!…なに?『恋の駆け引き!上手にするコツは?』…………なにこの雑誌?」
「バトルタワー食堂の雑誌コーナーから借りてきたんだ」
「なるほ……いや?!いやいや!お前がそういう雑誌読む時絶対ポケジャーナルじゃん!百歩譲ってポケモンのきもちじゃん?!どうした!熱ないか?!あと、駆け引きなのにオレさまに見せてくるのめっちゃ可愛い!!」
「偶に別なの読むことぐらいあるだろう!?熱もない!あと、大事な話だから茶化さないでくれ!」
ふんすっと今度は鼻息荒くキバナの顔を両手で掴みながら怒るダンデに、突っ込みたいことは山程あるがとりあえずそろそろ膝から降りてもらいたい。じゃないと可愛いがすぎて色々有耶無耶にしてしまいそうだった。
ただ、何かいつもの突拍子も無い行動とは毛色が違う。そう、キバナの勘が告げている。
「あのなダンデ。色々とお前が考えて行動してくれたんだなってのは分かるよ。だけど、理由がいまいち分からなくて…そうだなぁ、困ってるのが正直な気持ちだな」
ソファーにくっつけていた背中を起こし、持たされていた雑誌をとりあえず横に置いてからダンデの背中に腕を回す。向かい合って目線を静かに合わせ続けていると、少し冷静になってきたのか興奮気味だった琥珀色の瞳が、ゆっくりと凪いでいく。
「…ゆっくりでいいよ。もしかして、不安になることでもあったか?」
「不安」という言葉を聞いた時、僅かだが琥珀の中に揺らいだ迷いの色をキバナは見逃さなかった。でも、これ以上言葉を重ねてしまうとダンデはきっとキバナの求める解答を考えて言葉に出そうとする。
だからキバナは待つことにした。
暫くダンデはキバナの頬を抑えていた手をそのままに、ウロウロと視線を動かして静かに考えていたようだった。やがて、考えが纏まったのか頬に添えていた手を離し、先程の雑誌から一つの特集をキバナの方へと見せてくる。読めということだろう。
「(倦怠期を跳ね除ける恋の駆け引き特集…ん?)」
ザッと目を通していくと、どうやら内容は付き合って暫く経った恋人同士の事について書かれたもののようだ。そこの記事のどれにも共通して書かれているのが「倦怠期」という言葉。ダンデの不安の種を見つけられたような気がした。
「これが、ダンデが不安になったこと?」
「正直言うと、この気持ちが不安なのか自分でもよく分かっていないんだ。でも、付き合ってそれなりに経つのにオレはポケモン一色の生活だし、何より色んなことをキミに頼りっぱなしだなと…記事にそういうのは倦怠期に繋がってしまうって書いてあった」
「そんなことは無いけどな」
「いや、さっきだってオレがこの雑誌を持ってきたらキミ、驚いていたじゃないか!…オレは確かにポケモンとバトルが大好きだぜ。でも、それしか考えていないとキミにも思われているのは少し…いや、かなり嫌だなと最近考えるようになったんだ」
迷子になった子どもみたいな声だった。それきり言葉を詰まらせて黙り込んでしまったダンデの表情を、キバナは少し震えている指先の震えを頬に感じながら受け取った。
重いマントを脱ぎ、力一杯王冠を空へと放った目の前の愛しいひとは、今までよりも自由にガラルの地を走り回るようになった。それと同時に、少しずつ視野を広げたいと悪戦苦闘している姿も見かけるようになった。食事をできる限りゆっくり噛んで食べるとか、キバナが育てている観葉植物の世話を手伝いたがるなど。些細な事が多いが、十年間狭まっていたものを広げるのに慌てる必要は無いだろう。それを、側で見守れる立場に居られるようになった事がキバナは何よりも嬉しかったのだ。
そして今。視野が広がってきたその先の壁に、ダンデはぶつかったようだった。
しかも、「キバナとの関係」という壁にだ。
「なんで笑ってるんだ?」
「いや、嬉しくて」
「嬉しい?」
「お前がオレさまのこと考えて悩んでくれたってことが嬉しかったんだよ」
「そんなことが嬉しいのか?」
「そんなことじゃねえよ。いつも前だけ見て全力疾走!即断即決!なお前がさ。立ち止まって悩んでくれる事がとても嬉しい」
じわじわと喜びと一緒に胸に湧き起こるこの気持ちの名前はなんだろう。その答え合わせは、慌てることはないのだろう。時間はこれからもたくさんあるのだから。
ただ、目の前の男が感じる不安が全くの杞憂だと分かってもらうのは超特急でも良いだろう。そう思ってキバナは目一杯の力をこめて抱きしめた。
自分の駆け足だった心音を知ってもらう為に。