一歩前の世界「ほら」
心底仕方がないという顔をした後に、宙を彷徨っていたオレの手を引いて足速に歩き出すその背中を、静かに眺めながら歩く時間が実は密かな楽しみだと言ったらキミは怒るだろうか。
何度も繰り返されるこの道案内のやり取りに、いつか愛想を尽かされてしまうかもな。なんて自嘲しながらも、自分と同じ所にタコのあるトレーナー特有のガサついた手を、少しだけ力を入れて握り返す。自分より低い体温を帯びた指先が、少しでも長く自分の手と繋がってくれてたらいいのに。
そんな自分勝手な想いを、自分より幾分か広い背中に向かって視線と共に密かに飛ばしたが、キバナの足並みは勿論全く変わらなかった。
◇◆◇
「ほら」
スイっと目の前に差し出された彼の手の意図が掴めずキョトンと見つめていたら。差し出してきた本人も先ほどジュースバーでお揃いで買ったウブのみ入りのスムージーを空いたもう一方の手に持ちながら、一緒になって首を傾げていた。
「ん、手出して」
今度こそ意味が分かって、不思議な心地でそろりと手のひらを出すと何故だか可笑しそうに笑って彼はオレの手を指と指を絡めるように握ってきた。
「…知らない繋ぎ方だぜ」
「恋人限定だからな」
「こいびとげんてい…」
ギュッと繋がれた指先を眺めてから、隣に並ぶ彼を見ると少し気恥ずかしそうにしながらも歯を見せて笑っていた。空のような、海のような色の瞳が煌めいて。
「いつも、手を繋ぐときはキミの背中ばかり見ていたが…この眺め…凄くいいな」
「オレさまも、漸くお前の手の感触以外を感じられたなって幸せ感じてるわ」
感慨深く思い、気持ちを素直に伝えると。さっきまで余裕そうに笑っていた目の前の男の瞳が少しだけ狼狽えた後に、目尻を下げながら言葉を返してくる。そう言われれば確かに、キバナが手を繋ぐときはいつだって彼が前を歩いていて目を合わせることすら殆どなかった。
「…何だか、今ならどんなもの見ても全部楽しくなりそうだ」
少しだけ思い切って自分の指をしっかりと絡め直してグイッと彼の腕を引き、その頬へと触れるだけの軽い口付けをする。ぼしゃんっとキバナの手から飲みかけのドリンクカップが落ちる。その大惨事であろう音が耳の端に聞こえてきたが、オレは目の前いっぱいに広がる男の表情を見ることで忙しかったので、少し悪いとは思ったが無視することにしたのだった。