絡みつく戀の当事者(清玲) いつだって俺は観客側だった。どれだけ面白いストーリーであっても俺は観賞する側に過ぎない。
とりわけ陳腐な恋愛映画であれば尚更だろう。少なからずフィクションの物語に酔いしれることはない。
だから色恋沙汰など、俺には無縁のはずだった。
* * *
「わあ……!」
感嘆の声を上げている三歩後ろで、相変わらず小動物のような動きで視線を彷徨わせる泉を見つめる。九条家の藤棚は、庭の中心から二~三分ほど歩いた先にある一角に位置している。さすがに広さは観光地の名所にも及ばないだろうが、景観はおそらく有名どころにも引けを取らない。棚の配置や植え付け方に工夫をした宮瀬の努力が反映されており、実際の面積よりもかなり広く感じる点には感心せざるを得ない。明るい紫色の藤はどれもが瑞々しく棚から無数に垂れ下がっており、足を踏み入れた俺と泉の四方を鮮やかに取り囲んでいる。
事の発端は、図らずもイッセー・ニコのギャラリーを訪れた泉が、九条家にも藤棚があると聞き目を輝かせたのがきっかけだった。
『次の休みに、あなたも見に来たらどうだろう』
『こちらの写真には及びませんが、手間暇かけて育てている藤棚なんです。玲さんさえ良ければ』
『是非! ……と言いたいところですけれど、来週末は休日出勤になりそうでして』
九条や宮瀬が嬉々として声を掛けている様子を、俺は遠巻きに見ていた。その時は、再来週のどこかで代休を取る予定とまで伝えて別れたと記憶している。ところが泉の代休当日は、九条が大森製薬での定例会議に出席する日。遠慮する泉に宮瀬が、新堂さんが庭を案内するから大丈夫だと言って譲らなかったのだ。
なぜ俺なのかと抗議すれば、宮瀬は意味深に口元を緩ませて
『藤棚の案内だけなら新堂さんでも充分でしょう。桐嶋さんは九条さんに同行しますし、僕は泉さんのおもてなしや夕食の準備で買い出しに出ますから』
などとのたまう。宮瀬や九条は俺へ泉の話をする度、愉快そうに顔を綻ばせるのだからやりづらい。こんな表情をする時はたいてい、ろくでもない状況で泉と二人きりにさせられる前兆だ。兄弟揃って始末に負えない。何が楽しいのだか知らないし知ろうとも思わない。
兄弟たちの策略にはまると、泉は決まって落ち着かない様子で視線をきょろきょろさせつつろくでもないことを喋りだす。大方沈黙に耐えかねているのだろうが、俺も泉と二人きりの状況は得意とは言い難い。ろくでもない話をするだけならいざ知らず、時折何か見透かした表情で俺を見つめることがあるからだ。
探られる腹などないから堂々としていれば良いのだろうが、泉が向ける視線にはどこか、痛いところを射抜かれるような心地を覚えることがある。桐嶋が勘を働かせ、無駄に物事の本質を言い当てる時のそれにどこか似ている気がしたが、確かめてやる義理などない。きっと知らないままでいた方が平穏無事に過ごせる類のものだろう。
藤の花言葉は〝恋に酔う〟だという。そしてもうひとつ。
泉がここを訪れる直前、宮瀬は例の愉快で不愉快な笑みを浮かべながら囁きかけてきたのだ。
『藤の花言葉には〝決して離れない〟という意味もあるそうですよ』
女性の象徴である藤が、蔓として絡みつく様を表していることが語源らしい。聞いてもないのに補足説明までもが一丁前だ。つまりは、女々しくも想いを寄せる男に縋り付いている図。まったく馬鹿馬鹿しいことだと言い聞かせつつも、気になることはあった。
今目の前で無邪気に藤を観賞する泉玲には果たして、この花言葉が当てはまるのか。
確かに縋り付く様子、という意味だけを考えるのならわからなくもない。スタンドのスカウトのために粘り強く、九条や桐嶋・カナメたちにくらいついていた一連の流れを回想するならば〝決して離れない〟という表現も大げさなことではないだろう。
だがそれは、あくまでも仕事においての話だ。
プライベートで特定の男へ執着し、縋り付く様はといえば……少なくとも、俺から見た泉玲の性質としては無理がある。妙なタイミングで遠慮がちな姿勢を見せる彼女のことだ。おそらく、私利私欲のため見境なく男に縋り付くことはなかろう。寧ろ泉なら、縋り付かれる側の方がしっくりくる。
彼女のひたむきさに魅了された男たちは大勢存在しているのだから。
だがその男たちの中に、俺は含まれない。
恋など不確かで、煩わしくて、時間を費やすだけ無駄なのだ。拝金主義・合理主義を公言する己にとっては人生の枷にしかなり得ない。
考えを巡らせながら、今もなお藤棚を無邪気に鑑賞する泉をぼんやりと見つめる。イッセー・ニコのギャラリーで観たあの作品と違い、黄色ではなくスタンダードな薄紫色の藤棚。その下に佇むのは無表情な目の青い黒髪の少女ではなく、表情豊かで躍動的に動き回る
……泉を、見つめている?
何かがおかしい。観賞すべきは藤棚であって、泉を観察する意味など微塵たりともない。
心臓が嫌に早鐘を打っている。冷静になれ。俺は今、通い慣れた九条家の庭で、仕事を通じて知り合った泉を連れてきている。それだけのことだ。泉との出逢いこそスタンドへのスカウトがきっかけだったが、後に彼女のSとして短期間手を組んだ。だから人となりはある程度知っていて、馴染みはある……それだけのことだ。
俺はただ、見比べていただけだ。イッセー・ニコの作品と目の前の景色との違いを。九条の目利きが良かったから、作品は観られるものだった。多少なりとも心に残った作品と、現実とを重ね合わせるのは当然のことだ。
当然のこととして答えは出た、はずなのに。納得感は薄い。どこかざわついた心地が、煩わしい。
「新堂さん」
いつの間にか振り返った泉に呼びかけられて、はっとする。
「新堂さんは、藤の花言葉をご存じですか?」
容易に答えられる問いかけだったが、束の間逡巡する。やはり考えるまでもなく、無難にイッセー・ニコのギャラリーで聞いた意味だけを伝えることにした。
「宮瀬から聞いた。恋に酔う、だったか」
「そうですね。でも……」
何故だか泉は不自然なタイミングで目を逸らし、言い淀む。
「何だ」
「もうひとつ、意味があるそうなんです」
一呼吸おいて、再びこちらを見据える。射抜かれるようなあの視線だ。
その強い視線のまま、文節を区切るように呟いたのは。
「〝決して、離れない〟」
──それをどうして、泉が知っている?
「……宮瀬から聞いたのか?」
本音とは裏腹の取り繕った問いに、泉は首を横に振る。
「いえ。せっかく藤棚を見せて頂くので、事前に調べたんです」
なるほど。この手の話に無頓着な俺とは違って熱心なことだ。
それから場違いに考える。もしかしたら宮瀬は、泉であれば自発的に花言葉を調べると読んでいたのかもしれない、と。事前に聞いている以上、下調べを疎かにしない。俺の知る泉ならば。期待と違えず、泉は二つ目の花言葉の語源まで把握していた。が。
「縋り付くなんてきっと、新堂さんには理解できない感情なのでしょうね」
後に続けた言葉に、俺は眉根を寄せた。
「何故君はそう思う」
決めつけるな、と口から零れかけて、寸前で押しとどめる。
「恋なんかメリットがないって、そう言ったでしょう? ひかるくんから聞きました」
「な……っ」
絶句した。確かに本音ではあったが。今更ながら歯噛みする。数週間前の自分は余計な口を滑らせたらしい。
「新堂さんにとっては、恋が無駄と言っているのと同義なのかなって」
確かにそうだ。そう思っていた。
けれど、なぜだ。どうして泉玲なのだろう。
よりにもよって、泉から俺の発言を復唱されるなど。
「そうなのかもしれない……いや。実際のところ、反論の余地はない。等しくどの人間の前でもそうした態度をとってきた。君の前でも同様だ」
しかし。泉の不意打ちに押されて、俺は考えなしに言葉を続けてみることにした。
「君にだけは言われたくない、とも思っている」
泉が首をかしげるのは無理のないことだろう。いつもとは違い要領を得ない発言で、合理的で無駄を省いた話し方もしていない。言葉の意図が伝わらずとも当然だ。
「今しがた気がついたのだが」
まったく、今の俺につける薬はない。これから更にこっぱずかしい台詞を口にしようとしている俺は、一体何に酔わされているのだろう。
「どうやら、藤の花言葉を体現しているのは俺なのかもしれない」
頼まれてもいないのによく喋る泉玲は、こんな時に限って無言だ。俺が続けようとする浮かれた言葉の続きを静かに待っている。
「恋が不要だと、君に思われるのは心外だ。君が何を考えているのかは知らないが、俺は君と離れがたいと、思っているようだ」
自覚しているよりも女々しい男だったな、と嘆息したくなる。
脳内で推敲することもなく伝えた求縁により、泉は見る見るうちに頬を染めだした。
「なん、で……」
大いに狼狽えているが、やはり泉だ。途中から視線を外した俺とは違い、動揺しつつも穴が開くほどこちらを見つめている様子は伝わる。だが暫くしてから忙しない気配が止み、あの、と小さく呼びかけられたことで意を決した。
再び見た泉の視線は、幾分か穏やかだ。見透かされるような焦りは感じず、ただ嘘偽りなく大切なことを伝えようと試みる瞳に僅かに涙が浮かんでいる。
「私だって、同じです」
微かに強くなった日差しが、藤の花の隙間から柔らかく漏れた。表情はくしゃくしゃだが、花びらの色が透けた光に照らされた泉はどうしようもなく、愛らしく。
「スカウトの仕事でもないのに離れない、なんて。らしくもないですけれど……でも」
そして柄にもなく、うつくしいものとして映る。
「離れがたいのは……私の、方です」
* * *
陳腐な映画なら人並みに観てきたつもりでいた。いつだって俺は観客側の立場であるはずだった。
それなのに、いつの間に俺は物語の中に放り込まれてしまっていたのだろう。よりにもよってべたべたと甘ったるい、恋愛映画の脚本の真っ只中に。日頃好んで口にするウィスキーや、藤棚の景色によく似合う日本酒でもなく、よりにもよって藤の魔力に酔わされている。
しかし、どうせ酔わされているのなら、ト書きを都合良く変更したとて文句は言われまい。
小さな温もりを腕の中に留めた今、確信する。
物語のヒロインに最も相応しいのは泉玲に他ならないことを。