子兎を飼うだいぶ色褪せた暖簾を潜ると現れるモルタルの壁に布張りの椅子、カウンターに並んだ食器の数々が年代を感じさせるのは店主のアンティーク趣味などではなく実際に何十年も使い込んでいるからだ。
「こんばんはフミエさん、その煮物と出汁巻き卵ください」
勝手にカウンターの端の席に腰かけながら注文すると、面倒臭そうに溜息をつきながらお通しを置かれた。椎茸の白身魚すり身詰めサッと煮。たまたま今日が椎茸だったのだろうが、なんとなくフミエさんの苛立ちが目に見える形になったように感じる。
「あんた注文より先に言う事あるでしょ。此処は子ども食堂じゃないんだよ」
「ははぁ、すみません。まぁ雑用に使ってやってくださいよ」
「雑用に使えって何にも出来ない子にいちいち教える方が手間なんだよ。あんたが引き取ったならちゃんと自分で面倒看な!」
さっさと単価高いやつ食って帰りなと客商売とは思えない事を言うと女店主は一度奥に引っ込み「仕度しな!」と叫ぶ声がしてバタバタと足音がする。奥から大きめのパーカーを着たほぼ坊主頭に近い短髪の子供がリュックを背負って現れると、近くに座っていた爺さんが「はじめちゃん、お腹空いてないかい?」と声をかけるものだから「こんな時間に食わせるんじゃないよ」と女主人が遮る。「じゃあジュース」と気にする事もなく注文して隣に座らせた子供に振る舞うと、女主人は「ちゃんと歯を磨いて寝な」とだけ告げて作業に戻った。
隣に座ってるだいぶ生え際が後退した男に「あんたも大変だなぁ、独り身なのに妹の面倒看るなんて」と労わられて「まぁ」と曖昧に返事して出汁の染みた厚揚げを齧る。此処の常連はお人好しの年寄りが多いから基が危険な目に遭う事はないがなかなか面倒臭い。
会計を済ませると「持っていきな」と女主人が余りそうな総菜を子供の手に持たせる。文句を言いながらも空のタッパーを返しに来る口実をこうやって与えるのだ。素直じゃねぇなフミエさん。
暖簾を潜るまで「お兄ちゃん」と呼んでいた子供は、人の気配のない路上に出ると「百…」と控えめに呼んだ。
離婚した親が連れて行った年の離れた妹が天涯孤独となったから引き取ったという物語は此処では必要ない。
ヤニとアルコールと生ごみの臭いが混ざったゴミ屋敷で拾った痩せた血塗れの子兎、それを飼い慣らすことが出来ないかと100年前に見たあの光源氏みたいな男の真似事をしているのだ。