もうシンプルに「道」とかでどうだ?(ゲシュ崩) なだらかな傾斜を降りていく。落下防止の柵の向こうは切り立った崖で、底が見えないほど深い。命を守るには心許ない劣化した柵を見るともなしに眺めやりながら、これでは足元の覚束ないうちの酔っ払いが転落死してしまう、とアッシュは思った。それから、肩越しに背後を見遣る。遅れてのろのろと歩いて来るムラビトの姿に、アッシュはソノーニ町を発ってからもう何度目になるか分からない溜め息を吐いた。
町で一泊しよう。アッシュはソノーニ町で提案した。ムラビト一人では不測の事態に対応しきれないかも知れないが、アッシュが居れば半魔の身なりも上手いこと誤魔化してやれる。何より、こんな真夜中に慣れない酒で疲弊したムラビトを連れ帰るのは憚られた。だが、ムラビトは首を横に振った。マオも、魔物たちも心配している。早く帰って安心させてやりたい。そう主張して譲らなかった。変なところで頑固なこの子供が、一度こうと決めたら頑として譲らないことはアッシュ自身一番よく解っている。仕方なく折れて抱き上げようとしたらそれも断られたので、取り敢えず肩を貸して路地裏を出た。王都でムラビト達が借りたという小型通信水晶をアーサー名義で買い取れないか相談してみよう、とアッシュは思った。
真夜中の町は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。賑わっている居酒屋もあったが、それも疎らだ。だが、お陰で人目につくこともなく町の中を歩けた。フードを目深に被ったムラビトはただの酔っ払いにしか見えない。事実、酔っ払いに違いないしな。軽口を叩いたアッシュをムラビトが恨みがましい目で見上げてきた。
町を出たところでアッシュはまた一つムラビトに提案した。騎乗に向く魔物に頼んで、ムラビトだけ一足先にサイショ村に帰るのはどうだろう、という提案だ。ムラビトのマオたちを心配させたままだという懸念事項が早くに解消される。何より、ムラビトも早く落ち着ける場所で休める。それでもムラビトは少し逡巡する様子を見せたあと、矢張り首を横に振った。魔物は新魔王であるムラビトのことはその背に乗せてくれるだろうが、アッシュはその限りではない。
「アッシュさんを置いて一人で帰るなんて、嫌です」
まだ酔いから覚めきっていないのか、またムラビトはめそめそと泣き始めた。泣き上戸なのかも知れない。一人でも歩けます、と貸していたアッシュの肩も返却してふらふらと歩き出す始末だ。可愛らしいが、困る。結局、魔物にはムラビトの安否だけ言伝を頼み、二人で歩いて帰ることになった。
案の定、酔っ払いの足取りは重く、サイショ村までの道程は果てしなく遠い。途中何度も肩を貸そうと声をかけたが、ムラビトは頑として首を縦には振らなかった。
「店長、このペースじゃ夜が明けちまうって」
「……すみません、もうちょっと、急ぎます」
「いや、そうじゃなくて……まぁいいや」
このまま帰り着ければ上々、途中でムラビトが意識を失ってもそれはそれで大人しくなった荷物を抱えて帰れば良いだけの話だ。アッシュは諦めて酔っ払いの好きにさせることにした。
遠く、崖下に何処か懐かしさを覚える村落を見留め、アッシュは目を細める。村の家々に灯る明かりはなく、昼間の長閑さは見る影もない。大人しい月のお陰で賑わう星々の下、サイショ村は夜の静けさに沈んでいた。崖を下り、足下の起伏がなだらかになっても暫くは畑が続く。まだまだすだち屋には辿り着けそうになかった。
剥き出しの岩肌ばかりを目にする道程から、次第に足元に緑が増えてくる。傾斜は徐々に平坦になり、やがて馬車が通れるほどの広さの街道に行き当たった。月と星を背に行儀良く並んだ糸杉が尖塔のようにそびえ立っている。奇妙な既視感にアッシュは足を止めた。何処かでよく似た何かを見たことがあるような気がした。
記憶の底を浚う。真っ先に候補に上がったのは王都で勇者アーサーが見てきた幾つもの絵画だ。だが、もっと親しみがある。アーサーの記憶ではない。だったらアッシュが今よりもっと幼い時分に手にした絵本の挿し絵はどうだろう。否、違う。もっと最近だ。記憶に新しい。サイショ村に来てからだ。そこまで思考を巡らせて、ならばムラビトも同じものを見ているかも知れないことに思い当たる。そびえ立つ糸杉と、煌々と輝く金色の――
「……店長?」
そうだ。ムラビトだ。ムラビトの右の額からすらりと伸びた、あの触り心地の良い異形の角だ。夕方、マオとも話題にしたので印象に残っていたらしい。
喉に刺さった魚の小骨が取れたかのような晴れやかな心地で、アッシュは肩越しにムラビトを見遣る。
「なぁ店長。あの杉、店長の――」
角みたいだな。言おうとして、口を噤んだ。振り返ったそこに、しゃがみ込みうずくまった酔っ払いの姿があったからだ。
渋面を作り、アッシュは踵を返した。