片想い 一虎くんが居なくなった。
この時期になると一虎くんはいつも場地さんの前から姿を消す。ハロウィン前後の約二週間。それは大人になった今も続いている。
場地さんと一虎くんの関係が親友から恋人に変わっても、それでもやっぱり一虎くんはハロウィンが近づく度に場地さんから離れていく。二人で同じ家に住むようになってからも、一虎くんは家を飛び出て場地さんに近づかなくなる。
「一虎くん、帰りませんか」
だからもう、こんな風に一虎くんのところを訪ねるのも慣れたものだ。
「…ムリ」
一虎くんがマイキーくんに後ろから抱きついたままそう言った。マイキーくんは一虎くんの頭を優しく撫でている。
…あ、場地さんが見たら怒りそうだな。
何故か一虎くんはいつもマイキーくんのところに逃げ込んでしまう。この時期の一虎くんは場地さんが近づくと逃げるから、マイキーくんのところを訪ねるのはいつも俺だ。
「もうハロウィン終わったじゃないですか」
「…でもムリ」
金色の瞳は俺を映さない。気まずそうにマイキーくんの背中に隠れてしまった。
「あー隠れちまった」
マイキーくんが面白そうに言う。でもその目は子猫を見守る母猫のような、慈しむような目だ。自分の腰に回された一虎くんの手を優しく握っている。
「千冬もよく来るよな。別にほっといても良いのに」
マイキーくんは半ば呆れたような、そんな笑みを浮かべて俺を見た。
「…場地さんが悲しそうな顔してるから」
ー忘れもしない中二の秋。初めて一虎くんが居なくなったハロウィン。場地さんが一虎くんを探し出して抱き締めた時、一虎くんは怯えていた。場地さんが近づくほど、笑いかけるほど、一虎くんは逃げていく。
次の年から、場地さんは一虎くんを探さなくなった。ハロウィンさえ終われば、一虎くんはそのうち戻ってくる。場地さんはそれをただ待っている。一虎くんが怯えないように。悲しそうな顔で。心配で堪らない、とその目は雄弁に語っている。それでも場地さんは絶対に逃げた一虎くんには近づかない。その代わりと言ってはなんだけど、場地さんはいつも俺に一虎くんの様子を見てきてくれと頼む。
そんな二人の関係は端から見たら歪かもしれない。でも俺はずっと二人を隣で見てきたから。だから二人の間に決して失くならない絆があるってことを、俺は知ってる。嫌になるほど。
…その事実にどうしようもない不快感が滲む理由も。もうわかっている。
「ホント場地のこと好きだなぁ、千冬は」
マイキーくんがからかうように、でも嬉しそうに笑った。
…違う。一虎くんを訪ねる理由は、別に場地さんじゃない。もっと欲にまみれてて、汚い理由だ。でも、そんなことマイキーくんには言えるわけない。
「一虎ぁ?場地悲しんでるってよ」
「…」
一虎くんは無言でマイキーくんの背中に頭を押しつけている。
「あー…一虎まだ帰んないってさ。大変だな、お前」
同情するような目で此方を見るマイキーくんは、まだ笑顔だ。
この二人も、一虎くんの考えていることをマイキーくんが直ぐにわかるくらい、仲が良い。既にわかりきった事実は未だに俺の胸を痛めつけ、苛立たせる。
大変、か。みんなから見たら、俺は損な役割をしているように見えるだろう。でも俺はそんなこと思ってないし、このハロウィンの時期も嫌いじゃない。
だって、片想いの相手が一年で唯一恋人と離れる時期なのだ。
ー初めて会ったのは、確か場地さんが親友を紹介したいと言った時だ。あの金色の瞳から目を離せなかったのを覚えている。
いつも些細なことで喧嘩しては場地さんに殴られた。お互い気に食わない相手だった筈なのに、いつしか常に金色の瞳の彼を目で追うようになっていた。恋心に気づいたときにはもう全て遅かったのに、恋心は失くなるどころか次第に強くなっていった。場地さんと一虎くんの絆に嫉妬するほどに。マイキーくんと一虎くんの関係に苛立つほどに。年に唯一のこの時期を、未だに諦められないほどに。
なのに、金色の瞳は俺を映さない。
ピンポーン
一瞬の沈黙に、タイミング良くインターホンの音が響く。
「おーい、一虎ちょっと離せー」
「…ん」
マイキーくんは一虎くんに大きなクッションを投げて渡してから誰が来たのか確認しに行った。 一虎くんはちらりと此方を見て、直ぐにクッションに顔を埋めてしまった。
「あっケンチンだ!俺ケンチンと話してくっから!千冬強引なことすんなよ!!」
マイキーくんは嬉しそうな声をあげて部屋から出ていった。俺に忠告するのを忘れずに。
「…別にそんなことしねえし……」
一虎くんはクッションに隠れたままじりじりと俺から距離を取ろうとしている。
おい、この野郎。
「一虎くん?逃げないで欲しいんですけど」
負けじとぐいっと距離を詰める。一虎くんが驚いたようにクッションから顔を出した。
「近ぇよ!」
「一虎くんが逃げるのが悪い」
「う…だってお前、場地の味方だろ…俺はぜってー帰んないからな!」
俺が場地さんの味方?なんだよ、それ。そのことは否定しない。でも今そんな理由でここにはいない。この人は、本当に何もわかってない。俺の気持ちも何も。
「じゃあ俺が一虎くんの味方なら、一虎くんは帰ってくるんですか?」
「…は?」
困惑気味の瞳が俺を見た。クッションを握る一虎くんの手に触れる。一虎くんの肩がびくっと跳ねた。
「お前、何して…っえ、」
膝がぶつかるくらい近づいて、一虎くんの唇を軽く撫でた。一虎くんの白い頬がみるみる紅潮していく。
「一虎くんの味方になれば、俺の家に逃げてきてくれますか?」
「…?」
金色の瞳がゆらゆらと揺れている。
「この手、握り返してくれますか?」
クッションから一虎くんの手を離して力の入っていない指を握った。
「ねぇ、一虎くん」
いつも場地さんやマイキーくんばかりを映す金色の瞳には、今、俺しか映っていない。距離を詰めれば詰めるほど、金色の瞳は俺を見つめてくる。
「俺別に場地さんの味方じゃないっすよ」
「え?」
「だから、俺のとこ来てくださいよ」
俺だったら、わざわざこの時期に逃げなくても済むじゃないですか。
俺だったら、いつもこの時期に苦しむ必要が失くなるじゃないですか。
そう思ったけど、言葉にはならなかった。言ったら一虎くんが傷ついて泣き出してしまうと思ったから。
あぁ、俺のとこに来れば良いのに。あんたのこと、絶対泣かせないから。
いつになったらこの恋は終わるんだろうか。
「ねぇ、どうですか?」
一虎くんの指には力が入っていないままだ。
一虎くんの指からするっと手を離して今度は両手で一虎くんの頬を包んだ。
このままキスできたら最高なのに。こんな時、場地さんの前でこの人はどんな顔をしているんだろう。ーきっと、こんな困惑した顔じゃないんだろうな。そんなことわかってる。
俺は今、どんな顔をしてるんだろう。
一虎くんの唇がかすかに開いた。
「ちふ」
「千冬!」
でも、俺の名前を呼んだのは、一虎くんじゃなくてマイキーくんだった。
「マイキーくん…」
「マイキー!」
一虎くんがパッと顔をあげた。なんでそんなに嬉しそうなんだよ。マイキーくんが一虎くんの肩を抱いて俺から引き離す。
「今、強引なことしてただろ」
マイキーくんがじとっと睨みながら訊いてくる。一虎くんはまたマイキーくんに隠れてしまった。髪の毛の隙間から覗く耳の先はまだ赤い。
「…してないっす」
「はぁ?」
「またやってんのかぁ?」
呆れたような声が上から降ってきた。
「ケンチン!」
「ドラケン」
「ドラケンくん」
三者三様の呼び方に苦笑しながらドラケンくんが腰を降ろした。
「今年もやってんな」
「聞いてよ!ケンチン!千冬が」
「あーあーあー!もう今日帰ります!」
マイキーくんがドラケンくんに余計なことを言う前に帰りたい。俺の気持ちはきっとドラケンくんにはバレているから。その証拠にドラケンくんは俺のことを楽しそうに眺めている。俺が帰ったらもうマイキーくんはこの話をしないだろうから、今すぐ帰るのが一番だ。
「逃げんのかよー!」
マイキーくんから野次が飛ぶ。
「どっかの誰かさんがシフト減らすから忙しいんです!」
嘘だ。別に今日はもう仕事が残っていない。でも早く帰る言い訳がこれ以外思い付かなかった。
部屋の扉を開けようとした時、金色の瞳が俺を見つめていることに気がついた。
「千冬」
「何ですか」
一虎くんが未だ困惑を浮かべた表情で尋ねてきた。
「さっき、言ってたことって…」
「冗談ですよ」
マイキーくんに言ったことも、一虎くんに言ったことも。今は、それで良い。
「早く帰ってきてくださいね。場地さん、本当に心配してるんで」
一虎くんの返事は聞かなかった。閉めたドアの後ろで楽しげな声が聞こえる。
玄関のドアを開けたら、冷たい風が頬をかすった。金木犀の匂いが絡みつくように俺を包む。
もう十一月。
今年も、俺の片想いは終わってはくれない。
金色の瞳で俺を見つめていたあの人は、クロッカスの匂いがしたような気がした。