n回めのデートマシンによって淡黄色の生地がまるく伸ばされていく。薄くひろがった部分からたちまち湯気がたち、うっすらと香ばしく色づいた。バターの華やかな香りと、胸を満たすような砂糖の甘い匂いに、うっとりと鼻呼吸した。
「ほぁ…いいにおい。こんなに薄く焼けるのすごいなぁ…」
クレープが作られていく様子というのは、どうしてこうも人を惹きつけるのだろうか。初めて見るわけでもないのに、いざ目の当たりにするとわくわくしてしまうのだ。ガラス越しに見える焼き場の前で悩ましげにため息をつく。
スレッタは学園フロント内ショッピングエリア、フードコートにあるクレープカフェに来ている。客である生徒が多くメニューも豊富だ。機械が生地をどんどん焼いていく横で、スタッフが手作業ですばやくクリームやフルーツをのせていくさまは目に楽しかった。
「──エランさんお待たせしました…って、あれ」
両手にそれぞれクレープスタンドを持ち、フードコート後方に確保したソファー席へ戻ってみればエランの姿がない。頼んでくるので座っていてください、と張りきって伝えたのだけれど。
「どこに行ったんだろう…」
辺りを見回していると、向こうから背の高い男子生徒が入ってきた。白手袋をはめた手で、ふたつのドリンクカップを載せたトレイを持っている。制服のたっぷりとした袖がひらめき、リボンタイが揺れて目を引く。
フードコートにいるペイル寮筆頭の姿は色々な意味で目立った。それなのに意外にも騒がれないのは、はやしたてようとする生徒を立ち振る舞いのみで牽制できる彼の雰囲気のためだ。
「スレッタ・マーキュリー。お待たせ」
「わ、わたしのほうこそ」
向かい合ってソファに腰掛ける。
「それが出来上がるまでにと思って、向こうの店で買っていたんだ。黙って行って悪かったね」
「いいえ…!ありがとうございます。飲みもののこと抜けてました…えへへ。さすがエランさん」
「大したことないよ。…これ、おすすめだって」
差し出されたのはアイスのジャスミンティー。近頃スレッタのなかでブームの味を、さりげなく選んでくれたのだとわかった。感動のあまり飲んでしまうのがもったいない、持ち帰りたいと思ってしまう。
喜びでゆるゆるになりながら、スレッタもクレープスタンドを差し出した。
「エランさんのバターシュガーです。どうぞ」
「ありがとう。…それ、思っていたより高さがあるね」
「すごいですよね。それに、中にアイスとケーキが入ってるんですよ!ずっと食べてみたかったんです」
スレッタの顔とホイップクリームが山盛りにしぼられたクレープを交互に見て、よかったねとエランはふんわり微笑んだ。
クレープを食べながら他愛もない話をしているうちに、スレッタはふと気がついた。相手の顔色から思い当たることがある。
聞いてもいいか迷ったものの、一度気になりだすと確かめずにはいられない。水星で救助活動に勤しんでいた頃から染みついた癖でもある。ジャスミンティーをひとくち含んでから居住まいを正した。
「あの、勘違いだったらごめんなさい」
「どうかした」
「エランさん、ちゃんと眠れてます?なんだかこう…うまく言えないんですけど、寝不足な感じがして」
でも否定されるかなと、いう予想はあっさり裏切られた。しばらくじっとスレッタの目を見つめていたエランがぽつりとこぼしたからだ。
「じつは、昨日あまり眠れなくて」
「そうですか…寝るの、遅かったんですか?」
ふたりが私服に着替えず制服でここにいるのも、社用を済ませたその足で落ち合うと言ったエランにスレッタが合わせたからだ。ここ最近の彼が特に忙しいのはわかっている。
白手袋の指がテーブルのうえで組まれた。
「それと…朝からずっと胸が騒いでる。たまに動悸がするような感じもあって」
「えっと…落ち着かない感じですか?熱は無さそうですし…呼吸の調子はどうですか。辛かったら医務室まで送ります」
こうなっては悠長におしゃべりしている場合ではない。相手の返事を待たずに立ちあがりかける。こういうのは早いほうがいい。
笑顔を消したスレッタを、待ってとおおきな手が引き留めた。マスカットグリーンの瞳がつやりと光っている。
「そこまでではないよ。今朝のバイタルチェックは問題なかった」
「そう…ですか?でも…」
「だからその、思い当たるとしたら…今日の約束があったから、かな」
「……!?」
がーん、とスレッタはロングビーム砲で撃たれたようなショックを受けた。
決闘だったらブレードアンテナにヒビが入っていただろう。目の前にいる素敵な恋人はいつも物事をストレートに言うが、それにしても打撃力が高かった。
「あ、あの…わたしが無理言ったからですか。エランさんやる事たくさんあるのに、デートしたいって駄々こねたから…」
「駄々はこねていないでしょ。無理を言われたとも思ってない」
青ざめるスレッタの前でエランは薄いまぶたを伏せた。
「楽しみだったんだ。久しぶりにきみの顔を見て話せるから、そのことを考えていたら眠れなかった」
「へっ?」
ビーム砲、2回目。現役ホルダーでも恋人からの追撃は交わせなかった──しかもここまでの発言から察するに、もしかしてそういうこと…!?
現金なもので、ブレードアンテナのヒビは無かったことになった。
(自惚れちゃいますよ。エランさん)
ふたりで出かけ、おいしいものを食べて、生徒手帳越しではなく直接顔を見て話ができているうえ、夢のような言葉をもらって。
「わ、わたしもそうです!寝不足なんです」
驚いた顔(とはいえ表情にそれほどおおきな変化はない)のエランに伝える。自分も同じ気持ちなんだと知ってもらいたかった。
「昨日からずっとそわそわしてました。今もしてます。デート、久しぶりですから」
「うん。待ち遠しかった」
氷の君は照れる様子なく言ってのける。この場にミオリネがいたのなら、一日中色ぼけバカップル呼ばわりするに違いなかった。
「待ち…、そうですね。わたしもずっと、楽しみで…早く今日が来ないかなって思ってました。なかなか休日にならないから」
「そうだね。ずいぶん長く感じたよ」
頬杖をついて目を細めるエランに、スレッタはいよいよ泣きそうになった。全身に広がる安堵感でクレープの存在を思い出し、照れ隠しに改めてもうひとくち。
不思議と、数分前よりも格段に美味しく感じられる。しあわせってこういう時間なのかな。
満面の笑みになっていると、いつの間に手袋を外したのか、エランの素手が目の前にあった。どうしたんだろう、と思った時には遅かった。
くちびるの端を撫でていく感触に周りの音が消えた。
若干乗り出した姿勢から元に戻り、涼しげな表情でエランが告げた。
「──ここ、クリームがついてた」
「ひょっ…あ、ありがとうございます、すみません!拭いてください、これで」
我に返り、テーブルのうえの紙ナプキンをあわてて押し付ける。子どもっぽいところを見られたはずかしさと、ぬぐわれた指の感触がまざまざと思い出されて胸がつぶれそうだ。
ところがエランはすぐに紙ナプキンを使わなかった。クリームのついた指先を見つめて、そのまま口もとに運ぶ──スレッタは悲鳴をあげた。
「待ってくださいエランさんっ」
「どうしたの」
舐めとる寸前で動きを止めたエランの顔は、泣きたくなるほど落ち着いている。
止めたい、でもそのまま見ていたい。相反する気持ちがせめぎあって爆発も時間の問題だ。
「そ、それ…その…手…」
「美味しそうに食べているから興味がわいた。味見させてくれる」
「じゃ、じゃあこっちを」
味見ならこれを食べてくださいと、かろうじて口をつけていない部分を前にして差し出すより早く、エランは指先のクリームをぱくりと食んでしまった。
「こっちもおいしい」
唖然とするスレッタに、にこ、とそよ風に揺れる花のような微笑を浮かべ、今度こそ指先を紙ナプキンでぬぐう。
「あ、あ……」
スレッタは呆然とした。普段の彼からは想像できない仕草だったが、控えめに開いたくちびるにいやらしさなんてかけらもない。むしろスレッタの目は釘付けになった──わたしの口についていたクリームをエランさんが食べた。ということは実質これは…。
刺激が強すぎる、もう限界だ。顔から火が出そうになり、ぎゅっとハーフパンツの布地を握る。
そこへエランが自分のクレープを向けた。
「スレッタ・マーキュリー。これも食べる?」
「えっ!?あ、うう…っ」
律儀にお返しをくれるやさしさに泣きそうになった。ぎゅううん、と体温がまた上がったのがわかる。このままだとオーバーヒートで制御不能だ。
お互いの食べものを交換して味見する──なんとも恋人らしいやりとり。ぜひともやってみたい。逃げればひとつ、進めばふたつ、文字通りふたつのクレープの味を楽しめるし。いやそうじゃなくて、この場合もっと重大なことがある。でも心の準備が──。
素晴らしい展開だが、照れも同じくらいに強くあるので、思考回路はぐちゃぐちゃに絡まり言葉に詰まる。押し黙ったスレッタに、エランが心配そうな顔になった。
「ごめん、無理しないで」
「えっ、いいえいいえ!ぜんぜん無理なんかじゃ…食べたいですぜひ!なんだか暑くて汗かいてきちゃっただけです気にしないでください!」
「……じゃあ、飲み物のほうがいいかな。こっちも飲む?」
支離滅裂にまくしたてると、今度はカップのストローが向けられた。こちらはマスカットティー。もちろんつい先ほどまでエランが口にしていたものだ。クレープよりもきわどい一点集中である。
すみません、わたしにはまだ早いですエランさん。
スレッタはとうとうテーブルに突っ伏した。