名も知らぬ零落 世一が、女に手を引かれて街を歩いているのを見た。女は素朴な外見だったが、憧憬の目で世一を見ていた。
その時、自分の中にどす黒い感情が渦巻いて、そこで初めて、俺は世一に恋をしているのだと知った。
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世一は、人好きのする顔をして、何も知らない好青年みたいな成りをして、その実、残酷な男だ。明朗な表情に隠されているその冷たさに、いったい何人が惹かれ、何人が堕ちていったのだろうか。
特定の恋人は作らずにふらふらと遊び歩いている姿は、まるで猫だ。いや、遊び歩いているというと少し語弊があるかもしれない。
世一は、来るもの拒まず去る者追わず、を体現したかのような男だった。のらりくらりと好意を躱し、相手の懐に入り込む。
柔らかく笑って、恋人にしか見せないそれだとつけ上がらせて、結局、誰も特別にはしてくれない。
男も女も来るもの拒まずだと聞いた俺が、いける、と勘違いしたのが運の尽きだった。
俺は今日も、世一の残酷さに溺れている。
「コンビニ行ってくる」
「え、なんで」
真夜中。俺と世一は一通りの行為を終えて、ベッドの上で並んで寝ていた。世一を抱きしめて、左半身を下にした格好で、世一は仰向けのままだった。
抱きしめ返してはくれないくせに、時折思い出したように俺の頭をなでるから、そのたびに嬉しくなってしまう。
少し前にふと目が覚めて、喉が渇いたな、と思ったところで、この家の冷蔵庫には何も入っていないことを思い出した。水分不足は健康の大敵だ。スポーツマンとしてあるまじきキッチンを回顧しながら、コンビニに行くと告げれば、世一がパッと目を覚まして起き上がった。
「水がない」
「じゃ俺も行く」
「寝てろ」
ああ、なんだってこいつは、俺に興味がないくせに、ふとしたところで俺を手放さない。
世一にハマってずぶずぶと沈んでいった過去の同胞を思いながら、俺だけはこの地位を維持し続けると誓う。恋人に昇格だなんて、そんなバカみたいなことを夢見てはいない。今の最善を掴み続けることこそが、幸せなのだ。
「いーから。あぶねえじゃん、夜中だし」
「俺はお前よりでかい男だぞ」
「それでも。カイザー可愛いし」
世一の言葉が、心の歪みに染みて痛かった。
可愛いと言われるのは日常茶飯事である。最初こそおっかなびっくりその言葉を受け取って大切にしていたが、誰にでも言っている常套句の「可愛い」なんて、今はもう色褪せた古着のようなものだ。それでも俺は、世一からの「可愛い」をヴィンテージ物だとはき違えて、一つ一つ大事にしまっているのだから、どうしようもなかった。
それよりも苦しいのは、行為中にしか名前では呼んでくれないことだ。今だって「カイザー」と、まるで熱を交わし合ったことなんてなかったかのように、あっけらかんと呼ぶ。
でも、広い部屋の片隅、ベッドの上で重なり合う時だけは、世一はその深く青い瞳に俺を映し出す。そして、恋人かと錯覚するような甘い声で、「ミヒャエル」そう呼ぶのだ。
空気が冷たい。吐く息が白い。
暖房をつけたままTシャツ1枚で微睡んでいた部屋の中から、暖かい上着を羽織って外へ出る。世一は俺のコートに身を包んだ。体格差から袖が余っているが、気にすることなく服に着られている。少しだけ飛び出た指先を見て、満足そうに笑う世一が可愛い。ただの気まぐれだと分かっているのに、それでも喜んでしまう自分が浅ましい。期待はするな。恋人になんか昇格しない今が幸せだと、そう思ったはずなのに。
世一は人を狂わせる。俺が世一に向ける気持ちなんて分かり切っているだろうに、拒絶はしない。だから俺は、去る者にはならない。ずっとこのぬるま湯に、浸かっていたい。
コンビニへ入店すると、間抜けな電子音が俺たちを出迎えた。
世一はまっすぐにアイスコーナーへ向かっていく。
「おい寒いだろ」
「それがいいんじゃん」
宝箱を前にした子供のように目を輝かせる世一を尻目に、ペットボトルを数本掴んですぐにレジへ向かった。
虚空を見つめた店員が待ち構えている。世一はまだ来ない。
「はやくしろ」
「あー、まって、これ新発売か…」
冷凍庫の前で難しそうな顔をする世一を放って会計が始まった。店員は俺たちの会話を気にすることなく、ピピピ、と素早くレジを打っている。
「567円でーす」
けだるげに合計金額が告げられた。真上の電灯が、チカチカ、と音を立てる。壊れかけなのかもしれない。
「待って、これ!」
ぼんやりと上を見上げていると、世一が慌ててやってきて、2つのアイスをレジカウンターに置いた。
店員は、早く持って来いよと言わんばかりの顔をして、無言で会計に追加する。その圧に、世一は「すみません…」と上目遣いをした。
「チッ」
おい、やめろ。他人にそんな目を向けるな。思わず舌打ちが零れた。
そんな風だから、世一の周りには人が集まる。虫が群がる。世一が気まぐれに放出する甘い蜜に、飢えた人間が順番待ちを作る。
財布をしまってコンビニを出ると、世一は早速アイスの袋を開けて棒アイスを口に含んだ。次に、俺が持つコンビニの袋をガサゴソと漁って、もう一つのアイスを袋から取り出し、俺に差し出す。
「はい、カイザー」
「いい」
「食ってみろって、うまいから」
寒いし、体を冷やすからいらない。そう思ったはずなのに、手は勝手にアイスの袋を破っていた。コンビニの袋を右手に持ち変えて、アイスを口にくわえる。
「うまいだろ?」
「…うまい」
「だから言ったじゃん」
世一が楽しそうに笑って、アイスを持っていない方の手で俺の左手を掬う。外での触れ合いは初めてだったので、驚きとトキメキで胸がギュッと締まった。
「世一、」
「いいだろ、誰もいないし」
世一が照れたように目線を逸らして呟く。
嬉しさと怒りでどうにかなりそうだ。お前は俺に気がないくせに、そうやって、そうやって。
でも俺は、怒りを声には出さない。世一に八つ当たりしたところで、きっと困ったように笑うだけだろう。その後で謝っても、「大丈夫」その一言で俺はまた一線を引かれてしまう。
極限まで世一に近づくためには、素直に会いたいと言い、時に従順に、時に虚勢を張って、世一から去らなければいい。
手に持ったアイスは、寒いからか、なかなか溶けなかった。口の中が冷たくて、頭がキンと凍る。うまいとは言ったが、世一が食べているものと同じものだから、うまい、ただそれだけだった。一人では絶対に、こんな体に悪そうなものは食べない。
「お、カイザー、月出てるぞ」
世一が夜空を指さした。雲が薄い今夜は、月がはっきりと見える。
上を見上げたままふらふらと歩く世一の手を引いて、振り返らずに小さく呟いた。この言葉が、聞こえなくてもいいと思った。
「……きれいだな」
世一が好きだ。かなわなくても、その他大勢でもいい。
「んー、俺、三日月の方が好きだなあ」
世一は俺に絆されない。
それでも、俺がこの地位に甘んじていれば、世一の方から離れていくことはない。
俺は世一に返事をすることなく、つかの間の、手のひらのぬくもりを享受した。