深層 夢のような一夜だった。この世の頂点を掌握した男の手中に収まったのだから、当然なのかもしれない。
しかしあの晩、酔っぱらった俺—————潔世一を自宅に連れ込んで、見惚れるほど好き勝手にしたノアはそれ以降手を出してこなかった。俺とて、飲み会後のワンナイトなんかで恋人になれたと思い上がってはいない。しかし、憧れとの新たな繋がりに喜んでしまったのは致し方ないことだろう。
俺は、サッカー的な意味でも、男性的な意味でも、ノアに憧れていた。
▼ネスの思惑
バスタードミュンヘン一行が行きつけのバルを貸し切って行ったその飲み会は、深夜にまで及んだ。およそゼロ次会から三次会ほどまでの長い時間をその同じ店で過ごしたのは、ミュンヘンでの知名度的に、まとまって動けば厄介なことになると全員が知っていたからである。
その上で世一の隣を終始陣取っていたカイザーは、そこそこ彼に酒を飲ませた。本人には悪気はなかったらしいが、世一はカイザーが思っている数倍は酒に弱かったようだ。
僕はその様子をハラハラしながら見守っていたが、主君が恋心を寄せる相手(決して認めてはいないが!)とイチャついているのを見て、止めるのは野暮だと思った次第である。
「世一、水飲め」
まさか自分が少し飲ませたくらいでこんなにへろへろになるとは思わなかった、というのがカイザーの言い分だが、果たして途中から故意であったことは、誰も確かめようがない。
カイザーは自分に寄りかかる世一の頭を撫で、水を差しだした。口に添えてもらったコップからゴクリゴクリと水を飲む世一。出会った当初と比べれば、ずいぶんと心を許していると見える。カイザーがきゅんとしたであろう瞬間を見てしまって、思わず表情が歪んだ。あーあ、全然見たくなかった。
背後では、他のメンバーが未だにどんちゃん騒ぎを繰り広げている。深夜一時。所帯のある者は既に帰宅している。残った人間は独身のみで、深い時間ともなれば下品な話も飛び交った。なんといっても、貸切なのだから。
「で、全然勃たないのね、つったんだよあの女!」
一番遠い席から慟哭が聞こえた。さすがにうるさすぎるが、カイザーの瞳は世一だけを見つめてとろんと柔らかくなっている。世一も半分寝入った状態で、「かいざぁ?」とボヤボヤしていた。
「んだそれ、おまえ不能なの?」
「ちっげーよ! 通常時とあんまり変わらねぇっつー意味だよ。俺は元々!でかいから!!」
「そんなデカかったっけ?」
「いや記憶にない」
「うるせえ男はテクで勝負だろ!」
「デカさで勝負出来ないって認めたよこいつ」
そういえば。こうして毎度、飲み会のたびに下品なくだりに話題が及ぶが、それに世一が参加しているのは見たことがない、と思い当たった。飲みすぎというわけではないのにヘロヘロになってぐったりとしているか、もしくは比較的静かな人の傍へ逃げて、ちびちびと酒を飲んでいるだけだ。もしかして、この手の話に参加したくないのではないだろうか。自分の推理力に恐れ入った。
世一が下品な話題が苦手だとは聞いたことはないが、かくいう僕も大っぴらに話すのは苦手な部類の人間ではあるので、何も言えない。
そもそも世一という男は、僕から見れば大層童顔で、性の匂いを感じさせない人間だった。女の影すら見たことがない。もしかして、こいつこそ不能なんじゃ…とまで考えたところで、幸せそうに世一に寄り添うカイザーが直視できなくなって、考えを放棄した。
「おーいお前ら、もう店閉めるわー」
キッチンに座ってなにやらパソコン作業をしていた店主が、店内に響くように叫ぶ。どんちゃん騒ぎの中でもよく通る声だった。
すかさず、まだまだ騒ぎ足りない面々が反抗する。
「えー! おっちゃんまだ一時だろうが!」
「老人ぶってんじゃねえぞ!」
「うるせえ! 明日もこの店開けんだよ、とっとと帰れ!」
仲が良いのか悪いのか分からないやり取りである。騒ぐのが好きなメンツは酒が入るとどこでもいつも以上に口が悪くなるので、なじみのこの店以外はチーム全員では入れたものではない。
文句を垂れる男たちを眺めながら、グラスに残った酒を飲み干した。
「ネス」
カイザーに名前を呼ばれ、すぐさま向き直る。世一に接していた名残か、幾分か柔らかい声だった。黙って頷く。カイザーは世一を壁に預け、席を立った。お手洗いだ。僕は世一の寝顔を監視しながら、しなびたポテトを口に運んだ。
「うえ、まず」
冷めきっている。それもそのはず、飲み会開始直後に注文したものだからだ。これまで奇跡的に、誰の手にも触れられず残っていた数本のポテトには塩が溜まっていた。
遊び半分で、机の向かい側に座る世一の口にポテトを押し付ける。眠っているので当然口を開くことはない。むにゃむにゃと口元を緩めて、再び眠りについた。
まったく、カイザーはこの間抜けのどこがいいんだか。呆れながら、世一の口につけたポテトを皿の上に捨てる。その時。
「ネス」
呼びかけられて一瞬、カイザーが戻ってきたのかと思った。しかし、声ですぐに違うと分かる。
「ノア」
飲み会に途中から参加し、端で酒を飲んで居た男だ。ちなみに飲酒量はずば抜けていて、顔色は変わらないものの、ノアの周りに転がる酒瓶の量は海賊のそれである。
ノアはこちらの机に指を滑らせて問いかけた。
「……潰れたか」
「あ、はい。今、カイザーが」
カイザーが戻ってくる、そう言いかけて、言葉が止まる。驚いたからだ。ノアが世一の肩に腕を回し、持ち上げている。
「え、ノア?」
「俺が送ってく。気を付けて帰れよ」
「ちょ、まって、カイザーが」
「カイザー?」
半ば叫びながら止めると、ノアが怪訝そうな顔をして振り返った。飲み会中、世一にべったりだったカイザーのことは目に入っていないらしい。今帰ってはいけない、僕はカイザーに世一の監視を仰せつかっている。
「戻って、くるので…」
「約束でもしてるのか」
「い、いえ…」
ノアの目は据わっていた。もしかしてこの男も実は相当酔っているのではないかと疑ったが、ただ眼光鋭く睨みつけてくるだけであった。僕は驚きと恐怖で固まって、ノアが世一を連れて店を出ていくのを、ぼうっと見ていることしかできなかった。
ぴしゃり、ドアが閉まってドアベルがリンリンと音を立てる。その音にハッとして顔を上げると、ちょうどカイザーが帰ってきた。
「ネス」
呼びかけられてすくみ上る。あ、やばい。
「……世一はどこだ」
「い、いま、ノアが…」
そこまで言いかけると、カイザーは店を飛び出した。慌てて追いかけると、店から数メートル先、ノアが世一をタクシーに乗せている。いや、それだけではない。いつの間にか起きている世一と、キスをしながらなだれ込んで行った。タクシーが発進する。
去っていくタクシーを見ながら、カイザーが呆然と立ち尽くしていた。なんと声をかければ良いかわからず、黙って見ていると、タクシーが路地の角を曲がって見えなくなった。カイザーがハッとしたように携帯を取り出して、ノアだか世一だかに電話をかけ始めたようだが、誰も出ない。
もう手遅れだった。
▼潔の選択
ノアに持ち帰られた日から1ヶ月が経った。俺はあの夜を度々思い返しては、ノアに熱視線を注ぐ。もう一度抱いてほしい。あわよくば、定期的に会える関係になりたい。
—————幼い日に憧れた力強さでかき抱かれ、それが忘れられなくなっていた。
一方で、他に最近気になることがある。カイザーの様子がおかしいのだ。
つい最近までは俺に張り付いて、コイツはいつ口を閉じるのかと思う程にぺらぺら舌を回して話していたと言うのに、最近は鳴りを潜めている。
試合中こそ以前から静かだったが、プレー外では俺にべったりだったはずなのに、と疑問を覚えた。まるで、自分の家に住み着いていたハムスターが逃げ出したような感覚。
ともあれ今の俺にとって重要なのは、再びノアを誘い込むことである。かくして、練習終わりにロッカールームの前で待ち伏せをしているのだが、なかなか出てこない。もしかしてまたタブレットで振り返りに耽っているのだろうか。
「……はぁ」
脚をクロスさせたり、つま先を見たり、手を後ろに組んでため息をついたりしながら待ち構える様は、傍から見ればさながら恋する乙女だろう。
とはいえ、ノアに対する憧れは恋愛ではない。それは断言出来る。もっとこう、短絡的で衝動的な憧れだ。それは自覚しているが、止められない。…憧れと恋って、何が違うのだろう。別に混同してもいいじゃないか、と思う。
ノアはまだ出てこない。まだかな、まだかな、と目線を漂わせてそわそわしていると、視界の端にカイザーを捉えた。
「あ、カイザー」
思わず呼び止めたが、用がある訳では無い。カイザーは覇気のない顔でこちらに近づいてきた。
「…世一」
「なにしてんの?」
「…いや、」
俺を見て苦しそうに眉間に皺を寄せる。最近、ずっとこうだ。感じていた違和感が噴出する。
「お前、なんか最近変だよな?」
カイザーらしくない、と思った。俺の隣から離れようとしないくせに、口ははっきりしない言葉を吐き出す。何があったかは知らないが、しゃんとしていないカイザーは見ていて居心地が悪い。
「おまえは何してんだ」
しかし、質問を質問で返され、はぐらかされてしまった。しかも、答えづらい質問だ。
「あー…。ノア、待ってる」
「…っ」
ノアを待っているのは事実である。何もおかしくは無いよな、と自問自答した。さすがに、セフレ関係を迫ろうと待っています、とは言えない。
カイザーは拳を握りしめた。悲痛な顔、かつイライラしているように見えた。最近変わったのは俺への態度だけ。俺、なにかしたっけ? と思い返すも、心当たりは全くなかった。
「世一、今日はだめだ」
「え? なんで」
突然、カイザーが訳の分からないことを言い始めたので、やっぱりコイツはどこがおかしいんだと思う。今日だけじゃないが、と呟くカイザーに近づく。
「なんかあった?」
聞きながら、未だ出てこないノアのことが頭を過ぎる。…今日は止めだな。半歩踏み出して、俺は既に待ち伏せをやめようとしていた。こんな疲労困憊の顔をしたカイザーを放っておくほど、嫌いじゃない。カイザーは顔を伏せて、「頼む」と懇願した。
「お前マジで大丈夫? 一旦戻ろうぜ」
俺はカイザーの肩を支えて、誰もいなくなった第二ロッカールームへと向かう。ノアがいるのは第一の方で、両部屋は隣り合っているが、その間にお手洗等を挟むため少し距離がある。
第二ロッカールームへ入室すると、カイザーはベンチに腰を下ろした。俺はその隣に腰かけて、カイザーの顔色を確かめる。よかった、今すぐ吐きそう、とかではなさそうだ。
「なあカイザー。最近、具合悪いだろ?」
隠しても分かっているぞという顔をして問いかける。カイザーはそんな純粋な心配に対して舌打ちを返してきたので、元気じゃねーか、と言いたくなった。実際、 顔色が悪いのは分かっているので我慢したが。
「世一…」
「ん?」
努めて優しく返事をする。具合が悪い奴には優しくする、俺はそうやって両親に育てられてきた。その考えは変わらない。
だから、今だけはノアのことは忘れていた。それくらい、俺はカイザーに心を許していたのだ。
「ノアと、寝たのか…?」
…だから、この質問は、俺にとって思ってもみないものだった。あの飲み会で、俺は酔っぱらっていたため周囲の状況は記憶していない。でも、ノアと帰ったことが誰かに気づかれているなんて、考えてもいなかった。
「な、んで」
「俺じゃ、だめか…?」
カイザーは弱々しく告げた。隣に座る俺の服の裾を掴み、俯いたままだ。俺はすでに練習着から着替えており、シンプルなパーカー姿だった。
「お前、自分が何言ってるか、」
「わかってる」
「じゃあ、」
「ノアが好きなのか?」
俺が話を逸らそうとするのを、言葉を畳みかけて止められる。好き? 俺とノアが、付き合っていると思ってるのだろうか。そんなまさか。認めたくないが、俺はワンナイトで切り捨てられたかもしれなくて、縋りつこうとしている立場だ。
「いや…好きではないけど…」
「は、」
戸惑いながら答えた俺の言葉に、呆気に取られて放心するカイザー。色々ぐるぐると考えている目をしている。その表情はよく見るものだった。少し気力が戻ってきているようにも感じる。
カイザーは一息ついて、俺と目を合わせた。肩を掴まれて、真剣な声色で告げられる。
「俺にしとけ」
「…っ」
息を飲む。びっくりした。でもコイツのこういう言葉は、冗談なのか本気なのか区別が付きにくい。これまでも俺に引っ付いて、やれ「恋人はいるのか」やれ「お前は童貞だろう」だの煽ってきたが、それに逆ギレして正直に答える度に、ほっとして見えたのは気のせいでは無かったのだろうか。
恐る恐る真意を探ろうとするが、恋の駆け引きなんてしたことが無い俺は、ストレートに聞くしかやり方を知らない。
「なんで、オマエ、俺のこと好きなの…?」
「すきだ」
「えっ! そう、なのか…」
えっ結局、好きなのかよ、じゃあ今まで引っ付いて来ていたのって、もしかして俺のことが好きだから…?
初めてそう自覚すると、だる絡みしてくるチームメイトだと思っていた印象が一変してしまいそうで怖くなった。なんだか急にカイザーがキラキラして見える。
カイザーは、俺を下から掬い上げるように見上げて、潤んだ瞳で追い打ちをかけてきた。
「なあ、あんな男は止めておけ」
カイザーの顔が近い。勝気な表情が戻ってくる。ノアをあんな男呼ばわりするな、とか言いたいことは沢山思いついたのに、口が動かない。
結局俺は、カイザーの勢いにたじたじになって、「ちょっと考えさせて」ということで手を打ってもらった。
▼カイザーの叡智
俺は朝から上機嫌だった。
世一は時間が欲しいと言ったが、陥落も近いだろう。だから、これまで以上に世一にやさしく接したり、この手の中に堕ちてくるようにと、誰にも見られない場所で甘い言葉を囁いたりもした。
それから、二週間。
俺は毎日世一が着替え終わるのを待っている。そうして家まで送り、また明日な、と手の甲にキスをする。
その度に顔を赤くされて、気分が良かった。
俺が世一をエスコートして帰る光景は、最初こそチームメイトに目玉が飛び出そうなほど驚かれた。主に俺の甲斐甲斐しい献身具合について。しかし、既にもう慣れたものである。世一の腰を抱きながら帰っていく俺に、まーたやってら、と言われるのであった。
今日も世一が着替え終わるのを待つ。世一は練習後、俺に張り合うように自主練の時間を多くとるから、大概一番遅くまで残っていた。
クラブハウス内のカフェテリアでコーヒーを二つテイクアウトし、来た道を戻る。世一のコーヒーには、ミルクを二つと砂糖を一本だ。お子ちゃま舌の彼に合わせたカスタマイズだった。
機嫌よく関係者以外立ち入り禁止のドアを開け、ロッカールームへと進んでいく。廊下の曲がり角を右へと曲がれば、そこに第二ロッカールームがある。
と、そこに差し掛かったその時、ロッカールームの前に人影が見えた。
「あ?」
ノアだった。今の俺にとって、あらゆる意味で天敵である。 ノアは部屋に半身を踏み入れ、誰かと話していた。俺からは数メートルの距離があり、内容は聞こえない。
しかし、こんな時間まで残っている人間なんて世一しかいない。あいつ、何のつもりだ、と怒りを込めて、余裕なく廊下を走っていく。
これ以上、世一を翻弄してくれるな。今は俺が、その隣の座を獲得しようともがいているのだ。邪魔をするな。…また俺がいない隙に、かっ攫うつもりなのか。
「一緒に帰らないか」
近づくことで聞こえたノアの言葉は、危惧していことそのものだった。最悪だ。吐き気がする。
一緒に帰る。それは、俺のようにただ帰路を共にするという意味では無いだろう。
急いでノアの後ろから顔を出す。
ノアは「カイザー」と人形のような無表情で呟き、俺が現れたことにも大して動揺していない様子だ。対して世一は、顔を真っ赤にして俯いている。…なんだよ、その反応。
世一は再び顔を上げて俺の姿を認めると、「カイザー!?」とノアとは真逆の反応を見せた。
その熟れた顔に吐き気を覚える。クソが。結局、ノアの元に行くのか。何を照れているんだ。ノアは、憧れだろうが。恋ではないのだろう。俺の何がいけない。ノアの何が良いんだ。
「世一、帰ろう」
ノアの横に並び、怒りを押し殺して室内の世一に声をかける。世一は、困ったように俺とノアの顔を交互に見た。
迷うな。と力強く見つめる。ノアは黙ったまま、世一の目を見ていた。
二人の大男に見つめられ、苦しそうに眉を顰めたのが分かった。薄い唇で守られた、その小さな口をおもむろに開く。
「俺は—————」
俺を選べ、世一。