救済は確かにあった昔。
万次郎とエマに読んでやった本の中にこんな話があった。
美しい天女に惚れた男が、天女が天に帰るための羽衣を隠し結婚して欲しいと迫る。
渋っていた天女はとうとう折れ、男の妻になったが数年後、羽衣を見つけ天に帰ってしまう。
それを読んだ時、思ったのだ。
───なぜ羽衣を処分しておかなかったのかと。
「天に帰れる手段があるなら、端から潰しとけばよかったんだ」
美しい白と、それに似つかわしくない赤の中で真一郎はそう呟いた。
卍
「ねぇ母さん!オレ久しぶりにハンバーグ食いたい!」
「退院したばかりなのに食べれるの?」
「大丈夫だよっ!」
仕事の合間。
いつも通り病院へ向かう真一郎の横を、退院したばかりらしい子どもが、母親の手を引き嬉しそうに通った。
その晴れやかな子どもの笑顔を眺めながら、万次郎と同い年くらいかとぼんやり思う。
子どもの笑顔に久しく見ていない弟の笑顔を重ね、目を細めた。
そのまま病室の前まで進み、扉の前で一呼吸する。
そして。
「万次郎!兄ちゃんが来たぞ〜!」
とベッドに横たわる弟、万次郎へ明るい声で呼びかけた。
白いベッドに入院着を着て横たわる万次郎は、瞳を閉じたまま真一郎の声に応える様子は無い。
それもいつもの事なので、大して気にせずベッド際に置かれたパイプ椅子に座る。
「お、圭介と春千夜も来てたのか。良かったな」
棚に置かれた花を見て目を細める。
一か月前、万次郎は自宅の階段から転落した。
真一郎がプレゼントしたプラモデルで遊んでいる最中だったらしい。
命に別状は無く、身体も打撲で済んだが万次郎はその事故以来目を覚まさない。
原因は医者も首を傾げており、目を覚ます可能性もあるがそのまま植物人間になる可能性もあると聞かされた時は目の前が真っ暗になった。
だがそれでも万次郎は生きている。
いつか絶対目を覚ますと信じ、こうして毎日声かけを欠かさないでいた。
万次郎の頭を撫で顔をよく見ると、いつもより血色が良く感じる。
いつもの人形のような色合いではない『人間』らしい顔色に安堵しながら、真一郎は少しだけ口元を綻ばせ呟いた。
「あいつのおかげかもな」
その日の夜。
掛け持ちの仕事を終え、コンビニ袋を手から下げた真一郎は自室ではなく自分の店へ向かった。
念願だったバイク屋は、万次郎が倒れてからは週に数度しか営業出来ないでいるが、それでも店を閉めずに居られるのは有難いことだった。
この時間になると祖父も妹のエマももう寝ているだろうし、掛け持ち先の仕事場から近く、軽い生活ができるスタッフルームがある店で寝泊まりするほうが家に帰るより身体的にも幾分楽だ。
それに、店で生活するもうひとつの理由がある。
「あ、おかえりなさい。真一郎君」
扉を開けた真一郎に、ソファに座っていた人物は嬉しそうに顔を輝かせ駆け寄ってくる。
見た目は14、15歳程。
ふわふわの金髪と青い目をした活発そうな少年には、一際目を引く『あるもの』が生えていた。
「ただいま。っておいおい、激しく動いたら傷に障るだろ」
「だいぶ良くなったから平気!」
抱きついた少年を受け止めながら、その細身の背に目をやる。
背中に生えるそれは、真っ白な『翼』だ。
現在小雨覆あたりに包帯が巻かれているその翼を見て慌てる真一郎に、少年は笑う。
回復具合を見せたいのかパタパタと軽く羽ばたかせたが、すぐに「痛っ」と小さく顔を歪めた。
「無理するからだ」
「うぅ…昼に動かした時はあんまり痛くなかったのに」
しょんぼりする少年の頭を撫でてやりながら、真一郎は持っていたコンビニ袋を少年の目線まで持ち上げる。
それを見て少し表情を明るくした少年の単純さに苦笑しながら、
「ほら、メシにするぞ。武道」
「はいっ!」
真一郎の声かけにソファへ向かう少年───武道に、目を細めた。
武道と出会ったのは2週間前。
ゴミ出しのため店の裏口から出た真一郎の前に、武道が倒れていた。
纏っていた緩めのワンピースのような服を見て、初めは女の子かと動揺したが、よく見れば少年だった。
そして何より目を引いたのが、その背から生える小ぶりの翼だ。
その非現実的な光景に、真一郎は呆然と立ちすくんだ。
これは、俗に言う『天使』と言うやつか?
近くで撮影でもしているのだろうかと、辺りを見渡しても人っ子一人居ない。
「…疲れて幻覚でも見てんのか、オレ」
そのまま裏口のドアを閉めようとも考えたが、武道の表情は歪み苦しげだったこともあり、見ないふりをするのも憚られた。
「おい、大丈夫か?」
そう声を掛けながら傍まで近づき屈むと、その翼に傷がある事に気づく。
何処かで引っ掛けたのか、それとも攻撃を受けたのか。
痛々しい裂傷に眉を顰めていると、「う…」と小さく呻き声を上げ武道の瞼が震えた。
ぼんやりとその瞳が開き、覗き込んでいる真一郎を映す。
その目が覚めるような「青」に、
どくり。
と心臓が跳ねた。
焦りとも高揚とも言い難い感情に支配されている間にも、心臓は大きく鼓動している。
その衝撃に突き動かされるように、真一郎は武道を介抱し、傷の手当をしていた。
だいぶ疲弊していたらしい武道が言葉を話せるようになったのは、それから2日後のことだった。
「本っっっ当に助かりました!真一郎…君、でしたっけ。あなたはオレの恩人です!!」
回復した武道は、あの時の神々しさは薄れ翼がある事以外は普通の少年のようになっていた。
半泣きで真一郎に感謝を述べながら、行き倒れまでの経緯を話し始めた。
武道はやはり人間ではなく天使で、人々の救済のため現世に舞い降りたらしい。
通常天使は人間に認知されないよう姿を霊体化させ活動する。
だが天使として『発現』したばかりの武道は、それが上手くいかず実体化したまま現世に降りたせいで鷹に攻撃され逃げ回っているうちに力尽きてしまったらしい。
「鷹…めっちゃ怖いですね。どこまでも追ってくるんですもん」
「天使って普通動物に好かれる存在じゃねぇのか?」
「少なくともオレは違ったみたいです」
何とも夢物語のような話だが、実際にこうして武道はここに居るのだから、信じる他なかった。
怪我を負ったまま酷使し続けた翼は少し動かすだけでも痛むらしく、話せるようになったとはいえ武道の顔色は悪い。
翼はそのうち自然治癒されるらしいが、それまでろくに霊体化もできない武道をほっぽり出す訳にもいかない。
「…狭い場所で悪いけど、ここで良かったら治るまでいろよ」
そう言ってやると、武道はぶわっと涙目になる。
「傷の手当だけじゃなく居場所まで…!真一郎君、もしかして天使なのでは?」
アホなセリフに苦笑しつつ、武道との奇妙な生活が始まったのだ。
卍
「唐揚げ…うま…オレ、サクサクの唐揚げも好きっすけど弁当に入ってる衣が柔らかいのも好きです!」
小さなテーブルで2人で夕飯を摂る。
武道が美味そうに唐揚げを味わうのを眺めながら、真一郎もカップラーメンを啜った。
「真一郎君のラーメンも一口ください」
「いいよ。じゃあ唐揚げ一つと交換な」
「えっ」
真一郎の言葉に武道はしばらく思案し、「ど、どうぞ…!!」と何度も躊躇いながら弁当を差し出してくるのに思わず吹き出してしまった。
「そんなにやりたくねぇのかよ」
「うぅっ…だってうまいんですもん…!真一郎君が悪いんです、高潔な天使にこんなジャンキーなモン教えて!」
「なーにが高潔だ。ポテチも嗜む天使サマなんていねぇよ」
そう言いながら「ほら」とカップラーメンを渡すと、先程の悲しげな表情が嘘のように輝き、武道は麺を嬉々として口に運ぶ。
「うっ…まい!!この前のシーフードも美味かったですけど、このカレーもいいっすね。カレースパイスって問答無用で食欲湧きます」
幸せそうな武道の笑顔に、元気だった頃の万次郎を思い出し目を細めた。弟との食事もこのような形で、美味そうな顔が見たくてねだられるたびに自分の食事を分けていたものだ。
「食欲って…お前食事必要ねぇんだろ?」
「そうっすけど…食事はできますし美味いもんは食いたいです」
返しますね、とラーメン真一郎に渡しながら武道は答えた。
そう、天使に食事は必要が無い。
保護した当初、それを知らず武道にインスタントのスープを出してやった時には目を輝かせその美味しさに感動していた。
『人間ってこんな美味いもん食べてるんですね!羨ましいです!』
そう言って笑った顔が忘れられず、必要が無いとわかりつつもこうして毎日食事を準備し、武道と夕食を摂ることが日課になった。
自炊する暇は流石に無くコンビニや店屋物ばかりだが、武道は幸い天使なので栄養を考えなくて良い。
それに、武道と食卓を囲むことで抜きがちだった食事を摂るようになり体調も良くなってきた気がする。
武道を保護するまではいかに自分がボロボロだったかを今になって痛感していると、
「真一郎君」
そう名を呼ばれ我に返る。そして少し開いていた口に唐揚げがむぎゅと突っ込まれ、「んぐっ」と間抜けな声を漏らしてしまった。
唐揚げを食わせた張本人は悪戯っぽく「やっぱり1個あげます」と笑う。
やや強引な手段だったが、先程まであげるのを躊躇していた唐揚げを食べさせてやるという気の利かせ方に少しだけ心が温かくなった。
「…万次郎君、でしたっけ。様子はどうだったんですか?」
「ん?いつも通りだよ」
「そうっすか」
そんな真一郎の返事に武道は目を伏せた。
武道には、万次郎の事は話してある。
天使なら奇跡でも起こして万次郎を救ってくれるのではという打算もあったが、単に抱えていた不安や焦りを無関係の人間に吐露したいだけだったのだ。
だが武道は何も出来ない自分を歯痒く思っているらしく、
「オレにもっとちゃんとした力があれば、真一郎君の役にも立てるのに…」
「気にすんな、話聞いてくれるだけでありがてぇよ」
そう落ち込む武道の頭を撫でてやるが、武道はまだ気にしているようだった。
食事を終えしばらくした頃。
「真一郎君、そろそろ寝ませんか?」
ソファに座った武道がばしばしと膝を叩きこちらを見ていた。
「え、またそれやるのか?」
「この前はぐっすりだったじゃないっすか」
キラキラと期待を込めた目でそう答える武道に、気まずくなり頬を掻く。
少し前、疲れが限界だった真一郎はソファに座っていた武道の膝に倒れ込むように眠ってしまった。
単純にソファで眠るだけより、他者の温もりを感じながら眠る方が心地よかったのは認める。
だが、明らかに絵面がやばい。
少年といっても差し支えない武道の膝で眠る成人男性は犯罪の香りがする。
「そんな事しなくていいって」
「で、でもお返しできるの身体しかありません!」
「言い方!」
そう突っ込んでみせても、武道はソファから離れる様子はない。
素直で人懐っこい性格の割には頑固なんだよなと半ば諦めつつ隣に腰掛けると、優しく膝に向け上体を倒されてしまった。
膝に負担が掛かるはずなのに上機嫌な武道に、苦笑してしまう。
武道の気が晴れるなら、多少恥ずかしいがこの膝枕も受け入れることが出来た。
そうなれば膝から伝わる温もりに徐々に麻痺していた疲れが吹き出し、睡魔が体を巡り出す。
「武道、お前天使なのにあったけえな」
微睡みのままそう言い武道を見上げると、初めて会った時と変わらないあの美しい青の双眸が柔らかく細められた。
「当たり前っすよ、生きてるんですから」
卍
万次郎が目を覚まさなかったら。
たまにそんな弱気な考えに支配される事がある。
エマも祖父も自分と同じくらい不安を抱いているはずだ。
こんな時こそ、働き盛りの自分が生活と家族を支えなければ。
それなのに疲弊した頭の中には、様々な不安要素がぐるぐる巡ってしまう。
本来ならばそんな不安を抱く間もないほど働き、気絶するように眠れれば御の字なのだろう。
だがそうはいかないのが煩わしかった。
そんな時は、万次郎の笑顔を思い出すようにしていた。
『真一郎!』
もう一度自分を呼び、屈託なく笑うあの姿を見るために。
でも。
このまま目覚めないまま、声を忘れ、笑顔すら忘れてしまったら───。
『じん…い"ち"…ろ"…』
そんな考えが過ぎった途端、記憶の中の万次郎の顔がドロリと溶けた。
「───〜〜ッ!?」
声にならない声を上げ、真一郎はソファから飛び起きた。
バクバクと鳴る心臓を乱暴に抑えながら、不規則な呼吸を何とか整える。背中やこめかみを伝う汗が不快だ。
目を見開いたまま視線を動かす。
窓の外は薄暗く、深夜と早朝の境のようだ。
そして気づいた。
「…たけみち?」
眠りにつくまで傍に居た筈の武道がいない。
普段なら真一郎に膝を貸したまま瞳を閉じているか、起きた真一郎の頭を撫でながら「おはようございます」と笑顔を浮かべている筈なのに。
悪夢と普段とは違う目覚めに体の芯が冷めたまま、ソファからよろよろと降りる。
初めて出会った日のことを思い出し、裏口の戸を開け静まり返る景色を見渡し、目を見開いた。
「あれ、真一郎君?」
そこには探していた武道が立っていた。
その大きな瞳は灰色の空を映しており、どことなく現実味のない雰囲気を纏っている。
そして、その背にはいつもの翼がなかった。
唖然とその様子を見ていると、武道は真一郎に気づいた。
驚いたように傍まで駆け寄ると、
「早いっすね。人間はまだ寝てる時間…ってどうしたんすかその顔!真っ青じゃないっすか!」
伸ばされた手が自分の頬に触れ、その温かさに少しだけ安堵した真一郎は、武道の存在を確かめるように強く抱き締める。
「ぐぇ、し、真一郎君、ぐるじ…」
「…いなくなったかと思った」
無意識に零れた言葉は、存外途方に暮れた子供のように情けなかった。
そんな真一郎に武道は抵抗を辞め、自分より大きなその背に優しく手を回す。
「こんなにお世話になったのに一言もなしにいなくなったりしないっすよ」
普段より柔らかな声音で囁かれ、ようやく真一郎の腕の力が幾分か和らぐ。
「……翼、どうした?」
落ち着きを取り戻し、まず浮かんだ疑問を口に出すと、武道の顔が明るく輝いた。
「そうなんですよ!だいぶ身体が本調子に戻って、ようやく翼を仕舞えるようになったんです」
そう言いながら、武道は少し真一郎から離れると背から見慣れた翼を出現させ、再び消すという芸当を見せた。
その人間とはかけ離れた仕様に、やはり武道は人間ではないのだと再確認していると、武道は口を開く。
「天使なら出来て当たり前なんすけどね。でも嬉しくて外で何度も試してみてました」
「へぇ、翼仕舞ったら人間と変わんねぇな」
「でしょ?これなら外にだっていけます!」
真一郎の反応に嬉しそうに笑いながら、「だから」と続けた。
「ねぇ、真一郎君。オレを万次郎君の病院に連れて行ってくれませんか?」
「え…?」
唐突な申し出にきょとんとしていると、武道は真一郎の手を強く両手で握った。
「回復したからには天使としての役割を果たす必要があります。オレみたいな落ちこぼれでどこまで出来るか分からないですけど、救済する人を選べるなら…オレは真一郎君がいい」
今までの恩返し、させてください。
そうまっすぐに真一郎を見つめた武道の瞳は強い意志を湛えており、いっそう「青」の虹彩が光を放つ。
その輝きに目を奪われ、真一郎は頷く他無かった。
卍
それから武道を連れ、真一郎は万次郎の病院へと向かった。
あのスタッフルームの中からあまり出れなかった武道にとって、外の世界は真新しかったらしい。
バス一つとっても楽しげにしているのがわかる。
流れる景色に釘付けになり、窓にはりつく様子に苦笑しながら、「次降りんぞ」と軽く小突いた。
そしてバス停の近くにあった花屋で花を買う。
「万次郎君は花が好きなんですか?」
「花より団子だなあいつは」
「あはは、オレもそうっすね」
そう笑いながら花束を抱える武道を見ながら、回復した万次郎と武道が縁側で菓子を食べる風景を想像し少しだけ気分が和らぐ。
普段の病院までの重たい足取りが今日は軽かった。
一人ではなく武道がいるからか。
笑顔を絶やさない存在がそばに居ることを、内心ありがたく思いながら部屋の戸を開ける。
そこには、いつものようにベッドに横たわる万次郎がいた。
「この子が万次郎君…雰囲気が真一郎君に似てますね」
「はは、今は眠ってるからだろ。起きたら暴君だぜ?」
くしゃり、と万次郎の頭を撫でてやりながら苦笑すると、武道は「何だか想像出来ちゃいます」とはにかんだ。
抱えていた花束を真一郎に渡すと、武道はベッドの脇に置いてあるパイプ椅子に腰掛ける。
そして、万次郎の手に触れ、両手で握りこんだ。
祈るように瞼を閉じる。
途端、空気が変わり武道の背から仕舞っていた翼が現れる。
燦燦と降り注ぐ陽の光に照らされたその光景は神々しく、思わず見入ってしまった。
どれほどの時間が過ぎたのか、武道は目を開くと万次郎の手をベッドへ戻し優しく頭を撫でた。
「…終わりました」
「目は…覚めねぇか」
「…すみません、オレがちゃんとした天使ならすぐに目が覚めたかもしれないのに」
「いいよ。万次郎も何だか穏やかそうな顔してるし、いい夢が見れてるのかもな」
普段よりうっすら微笑んでいるような寝顔を見せる万次郎に目を細めながら、そう答える。
がっかりしてないと言ったら嘘になるが、先が見えない不安をずっと抱えていたのだ。
それが少し和らいだことが嬉しかった。
武道の頭も撫でてやりながら、花瓶に花を飾ると「また来るよ」と声をかけ病室を後にした。
だがその日の夜に、万次郎は目を覚ました。
病院から連絡を受けすっ飛んできた真一郎に、
「真一郎、腹減った」
と普段の調子でそう言った万次郎に、年甲斐もなくボロボロと涙を流してしまった。
まだ起き上がるほど回復していない万次郎を力強く抱きしめながら、「良かった」と何度も繰り返す自分に、「いてぇよ」と文句を言いつつ嬉しそうな万次郎に、更に涙が止まらない。
その後知らせが届いた祖父とエマも病室に飛び込んできて、家族4人で万次郎の目覚めを喜んだ。
暫くはリハビリやらで入院が続くとのことだが、あの調子であれば退院にもそう時間はかからないだろう。
スタッフルームで待つ武道に、すぐにでも伝えなくてはと浮き立ちながら店へ向かう。
『なんかさ、名前呼ばれて手を握られたんだ。その感触が懐かしくて、握り返そうと思ったら目が覚めてた』
その万次郎の発言を思い出し、この奇跡のような目覚めは武道によるものだと確信した。
武道の好物を買い込み、店の扉を開けると武道が飛び出してきた。
「真一郎君!万次郎君はどうだった!?」
「一ヶ月寝てたとは思えねぇほど元気だったよ」
半泣きの武道を受け止めながら、真一郎は眉を下げる。
きっと万次郎を抱きしめた時の自分もこんな顔だったに違いない。
「良かった…良かった」と泣き始めた武道を抱え店に入る。
「オレ…真一郎君の役に立てた?」
「役に立ったどころじゃねぇよ、お前はオレと万次郎の恩人だ」
そう返すと、武道は涙に濡れた顔で笑った。
それから食事を準備してやりつつ、目覚めたあとの万次郎の様子を伝える。
武道は嬉しそうにそれを聞いていた。
「お前にも会ってもらいたいからさ、明日一緒に病院に行こうぜ。きっと万次郎も喜ぶよ」
「……」
てっきり元気よく行きたいと返事が返って来るものだと思いきや、武道は唐突に口を閉ざす。
その悲しげな表情に、真一郎は手を止めるとソファに座っていた武道の隣へ腰を下ろした。
「どうした?」
「……オレ、明日ここを発つんです」
「発つ…って、出ていくって事か?」
あまりの驚きに武道の言葉を繰り返すような形になった真一郎の言葉に、武道は頷く。
本来であれば、こんなに長期間一人の人間の傍にいてはいけなかった。
武道が力を使ったことにより、それが上にバレてしまい即刻戻るよう知らせが来たらしい。
「最後に、万次郎君が目覚める手助けができて良かったです」
そう言って笑う武道に、真一郎は暫く思案するよう黙り込んだのち、
「見送りくらいさせろよ?」
とぎこちない笑顔を返し、名残惜しげに武道を抱きしめた。慣れ親しんだ優しい感触に再び涙を零す武道には、その時真一郎がどのような表情を浮かべていたか気づくことは無かった。