The day before dispersal 2 オーロラ色の小さな欠片は飲みこむ前に口の中でひとりでに融けていった。ブラッドが撃ち落としたもう一人のマナ石はおそらく吹雪に埋もれてしまった。短い春が来るまで雪の下で眠ることになるだろう。それか誰かに掘り起こされて食われるかだ。
ブラッドが、とどめを刺した魔法使いの荷物を確認している間に俺は白樺の樹でテントを作ることにした。ここまで吹雪が激しいなら帰ることは難しい。追跡するうちに風に流された影響もあってか位置も掴みづらい。
「《アドノディス・オムニス》」
幹が太くて頑丈そうな一本の白樺に狙いを定めて呪文を唱える。落ちたのが白樺の林でよかった。白樺は一晩中、魔法で雪を掃うわけにもいかないような夜に雪から身を守るためのテントになってくれる。選んだ樹の周囲に生えていた樹々が、めりめりと轟音を立ててしなりながら円錐形になるように中心の樹に絡みついていく。吹雪がやまない夜は時折この音がどこかから聞こえてくる。北の国の魔法使いは葉の代わりに雪を茂らせた白樺の中に籠ってどこにも行けない夜を遣り過ごす。
振り返るとブラッドは検分を終えていたようだった。大袈裟に首を横に振る。瀕死の魔法使いが言った通り、盗んだものはあの指輪二つだけらしかった。ブラッドは革袋を懐にいれてテントに入ることを促した。俺たちが近づくと白樺は縄のように枝の形を変えて入り口を作る。それから、俺は指を鳴らして薪代わりの枝に火をつけた。
「灼煙草を使おうぜ」
言いながらブラッドは白樺の樹皮を指でひっかいた。次の瞬間には魔法で紙のように薄く削がれた樹皮が中指と親指に挟まれている。受け取ろうとして、右腕を怪我していることを思い出した。怪我は大したことはない。既に血も止まっているし痛みも寒さのせいもあってかほとんどなかった。問題はこのことを伝えるべきか否か。その一瞬の躊躇が差し出した右手に出ていたらしい。
てめえ怪我してるのか。そう凄まれたら白状するしかない。なるべく深刻にならないように軽く返事をすると、ブラッドは責めることもからかうこともなく俺が治してやると毛皮の袖を強くつかんだ。布地に染みた乾きかけた血の泥濘が肌に触れた。魔力が注ぎ込まれる。この目敏さに何度も救われては苦しめられてきた。向かい合った瞳は不敵に笑っていて、そうだこれこそがブラッドリー・ベインなのだと思い知らされる。
焚火を挟んで向き合うことは北の国での流浪の生活の中では珍しいことではない。俺たちは何も言わずに煙草をふかしあった。煙が体に纏いついて指先まで暖まっていく。灼煙草はいろんなミントを混ぜたような複雑な香りがした。炎に照らされてテントの中の何もかもが夕陽の中に放り込まれたように明るく輝いている。
枝の隙間から夜が更けていくのが垣間見える。吹雪の音に混じってどこかから白樺の枝をしならせる音が微かに聞こえた。もし、俺たちが気づかなければここにいて灼煙草をふかしているのはあいつらだったはずだ。ブラッドは表情こそいつもと変わらないが無意識に頻りに指輪をしまった懐をさすっている。石になった二人のうち、ブラッドがとどめを刺した方は俺たちより年嵩で盗賊団でも古株だった。それでも、ボスが慰めも励ましも必要としていないことだけははっきりしていた。
揺れる炎を眺めていると散らばった思い出がふと脳裏に蘇ってくる。
石になったあいつらはよく向かい合って焚火を囲んでいた。大勢で火の周りに集まるときも必ず向かい合っていた。そういえば、寒さが酷い日は木陰でよく灼煙草の火を吹きかけあっていたな。予兆のようなものを感じたのもたまたまその様子を見た時だった。
紙入れを差し出した手とそれを受け取る指が触れて、触れたまま動かなかった。吐かれた煙が揺れて風にとけて消えるまでのほんの一秒にも満たない時間だったけれど確かにそれは彼らの愛撫だった。
俺は恐ろしくなった。同じ所作でも相手が違えばこれほどまでに鮮明に想いが表れるものだとは思わなかったから。煙草の遣り取りなど盗賊団にいれば日常茶飯事だ。あいつらとも何度も同じことをした。
きっと目の前にいる男も気づいているだろう。俺の心に。
それをはっきりさせるのが一番恐かった。
ごう、とひと際大きな風が吹いて、唯一の光源だった焚火は消されてしまった。いつもなら眩しいぐらいの月明かりも雲に隠された今夜は差し込んでこない。闇の中で、俺はブラッドが魔法で灯をともしてくれることを期待した。このままだと全て打ち明けてしまいそうだった。白樺の樹に巣くった暗闇ごと俺の心の何もかもを打ち払ってほしかった。吐いた煙が空気にとけてブラッドを包む。そして煙と一緒に言葉も吐き出した。
「心配してもらうことより心配することを許してもらうことの方が難しいのかもな」
「どうした急に」
「いや、あいつらのことを考えててさ」
「お前は果報者じゃねえか。ボスが俺なら誰のことも心配しなくたっていい。自分のことだけ心配してやりゃ明日も生きられる」
「そうだな、ボス」
暗闇の中で声だけが先走っていた。声が上擦って、巻煙草を挟む唇がわななく。このまま煙みたいに消えてしまいたい。朝が来て日差しが枝葉の間から照らすときにはブラッドの前に俺はいない。素晴らしいじゃねえか。
そんなでたらめな妄想さえも否定するようにブラッドの手が怪我をしていた腕を握った。身動ぎできないほど強く。振り払ってから軽い口調でなんだよ急に? そう言うつもりが、俺はただ黙ってその手に手を重ねた。俺の腕に指先まで暖められた手が二つ。
「あんたは、あんたは群れで生きてる。群れは愛せても誰か一人を見ることはしねえ奴なんだ」
「どういう意味だ」
「そのままだよ」
薪の焦げた匂いの向こうから、嗅ぎなれた毛皮と血と硝煙の匂いがする。唇に指が触れる感触がした。硬い皮膚に灼煙草の香りが纏いついている。思わず息をのんだ。
「やめろよ」
火をともそうとしたのに掴まれた右腕も重ねた左手も動かせなかった。ブラッドの指が短くなった巻煙草を摘まむ。それで終わりかと思ったら武骨な親指がゆっくりと下唇をなぞっていく。冷や汗がどっと湧き出る。震える指でなんとか唇に置かれた手の袖を掴んだ。でも、払うことはできなかった。
「頼むから」
口は動かさずにかすれた声だけがこぼれた。届いたかはわからない。さっきの突風が最後だったのかいつの間にか吹雪はやんでいて煙草が燃える音が聞こえた。俺は目を閉じた。闇から逃げるために別の闇の中に逃避した。ブラッドの指が巻煙草と共に離れると、熱い煙が頬を撫でた。
瞼を開くとブラッドの瞳が俺をまっすぐに捉えていた。そこには全てを悟った瞳があった。見えない煙が目に沁みてとっさに再び瞼を閉じた。瞼が分厚い掌に覆われるのを感じた。眠れない子供にするみたいに、ブラッドの掌が俺の瞼を撫でていた。掌が離れると瞼越しに朝焼けが俺の瞳を刺した。
それから、俺たちは一言も発さずにテントを後にした。
日が昇ったばかりの空はまだ薄い桃色で、太陽はのろのろと地平線から顔を出していた。やわらかい雪が地面を覆っている。魔法がなければ膝まで埋まっているはずだ。俺たちは太陽と地形からおおかたの方角を把握すると、箒を取り出して飛び立つ準備をした。
「ねーえ!」
どこかから声がする。身構えると林の奥から黒い小さな影がひょこひょここちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「待って! あんたたち魔法使いでしょう」
白樺のテントを吹雪の中で作るのは人間には難しい。この方法で寒さをしのぐのは魔法使いだけだ。反響する声が白樺の枝に残った雪を落とす。ブラッドが長銃を手元に用意した。狙いを定めていないのは単に距離が遠いからだろう。
「子供の声か」
「一応、用心しとけよ。道具もないのに脚が雪に埋まってねえ。魔女か魔法使いだ」
ブラッドはこちらを一瞥もせずに、長銃に魔力を込めた。横顔が次第に険しくなっていく。魔法使いでも子供だからと言って油断できないのは北の双子で証明済みだ。俺たちは固唾を飲んで近づいてくる影を見守った。近づくにつれそれが穴熊の毛皮を着た少女だとわかってくる。ブラッドが銃を構える。それでも小さな魔女は歩みを止めなかった。
「あんたたち、お腹すいてない?」
雪がまた枝から滑り落ちた。
穴熊の魔女は北の国で行商をやっている家族の一人らしかった。彼女のお陰で人間だけの隊商と違って魔法で寒さや雪を凌げるので、あまり隊商が来ないようなところまで足を延ばしているらしい。確かに遠くの高い樹の元に家族らしい一団が見える。
「ホントはパンと燻製肉でこのお代なんだけど、なにか魔法を教えてくれるならタダでルージュベリーで作ったグリューワインをつけてあげる。どう?いい話だと思うな」
魔女は膨らんだ毛皮から商品を出しながら一人で勝手にセールスを始めた。普段、人間と旅をするこの魔女はこうして偶に出会う魔法使いに魔法を教わっているらしい。グリューワインの香りはどうしようもなく食欲を刺激した。一睡もできていない体は疲れ切っていて、いざ食べ物を前にすると何か口にしたいという欲望に駆られた。
「北の盗賊団に物を売ろうなんざ百万年早いぜ。お嬢ちゃん」
ブラッドが穴熊の魔女のフードを乱暴に撫でる。
「団? たった二人しかいないのに? 盗賊団を騙るなんてブラッドリーがきっと黙ってないよ」
「そうだな。そりゃごもっともだ」
「お嬢ちゃん、あんたの提案は願ってもないんだけどさ、俺たち一文無しなんだ」
「一文無しで二人っきりの盗賊団なんてますます聞いたことない! かわいそうだから魔法と交換にワインだけ飲ましてあげる」
そう言うと、穴熊の魔女は鼻歌交じりに両手をくるくる宙で回した。雪が浮き上がって一つになったかと思えば手の中で手持ちのついたグラスに早変わりする。指を鳴らすと毛皮のように黒いポットからワインが注がれる。コインでもあれば投げ銭してやりたくなるほど見事なパフォーマンスだった。
「どうぞ、一文無しで二人っきりの盗賊団様」
差し出されたグラスは氷の質感をしているのに雪の冷たさはなくて硝子のようだった。口に含むとベリーの甘酸っぱい香りとシナモンの香りが口腔に広がる。ワインが体に沁みていくと、どれだけ自分たちが疲れていたのか自覚した。誰にでも食べ物は平等だ。国を救った英雄でも裏切者を石にした盗賊でも、ワインは俺たちを熱くする。白い息がひと際大きくなって口から吐き出される。薄桃だった空は次第に澄んだ青に近づいていた。
「なあ、ちっせえ魔女さんよ。確かに俺たちは一文無しだが、これと交換にそのパンと肉も売ってくれねえか」
ブラッドは懐から革袋を出すと魔女の前で振ってみせた。
「なにこれ?」
指輪を取り出した魔女はきれいと小さくつぶやいた。陽光に指輪を掲げながら。ルージュベリーの色をした石が朝陽を反射して紫色に輝く。
「でも、これお揃いでつけるやつでしょう? 恋人なんていないから別のデザインの指輪が二つ欲しいんだけど」
「注文が多いやつだ。石にしてやろうか」
「おい」
凄むブラッドを思わず小突くと、不満げな表情で魔女に向かって顎をしゃくった。そこでテントを出てから初めて目が合ったことに気づく。俺たちはしばらく見つめあった。それから、困ったように口の端をあげて何も言わずにブラッドがグラスを軽く掲げる。俺も微苦笑してそれに合わせてグラスを持ち上げた。その様子を見て穴熊の魔女はなにか勘違いしたようだった。
「乾杯までしてよっぽどごはんが見つかったの嬉しかったんだね。いいよ、持っていきなよ。この指輪は父さんに売ってもらってお小遣いにしてやるから」
「ああ、そうしろ。でも、二つ一緒に売ってやれよ。その方が価値があるからな」
「はいはい。じゃあ、魔法教えて」
「あー、そうだな。ワインの代わりに林檎酒を使ったり、シナモンの代わりにバニラを使ったりしても旨いと思う」
穴熊の魔女が神妙に頷いている間にブラッドは箒に跨った。俺もそれに続く。地面を蹴ると粉雪が舞い上がった。雪でできた霧の中から魔女の文句が聞こえてくる。
「ねえ、これって魔法じゃなくてただのレシピじゃない!」
「こいつは北で一番飯を作るのが旨いやつだ!味は保証してやるよ、お嬢ちゃん」
雪の反射が目に眩しい。俺たちは高度を上げて、塒までの空路を急いだ。気温は昨日より高くなっていて灼煙草がなくても凌げる寒さだ。前を飛ぶブラッドのモノクロの髪を風が乱す。俺の心を見透かしてもブラッドは俺を拒絶しないだろう。裏切りさえしなければいつでも魂を熱くさせてくれる。だが、俺だけを選ぶこともない。グリューワインのように。
任務から帰るとすっかり魔法舎は眠りの底にいて物音ひとつしなかった。夜に出歩く魔法使い達も今はいないのか眠っているのか静寂だけが広い建物を満たしていた。賢者への報告は明日にしようというファウストの提案に従って、俺たちはそれぞれの部屋に帰ろうとした。
「腹が減った。何か作ってくれ」
でも、シノの豪快な腹の音となんの媚びもひねりもないおねだりに負けて結局、俺はキッチンに立っていてテーブルには三人が席に着いていた。オーブンの中では胡桃が炒られている。二つの鍋の中ではそれぞれワインとミルクが火にかけられていた。
「疲れているのに悪いな」
「シノがわがまま言うから」
「ヒースだって腹は減ってるだろ」
「そんなに恐縮されても大したもんは出ねえよ」
オーブンのタイマーが鳴る。魔法で音が小さくなっている。おそらくファウストだろう。こういうところに気がつくのはさすが先生だ。布巾を敷いて天板ごとテーブルに置く。シノには胡桃の粗熱が取れるまで待てを言い渡す。
ワインはスノーシナモンと生姜とシュガーと一緒に煮たてる。最後に朝食で余っていたオレンジを放り込んでもう少し煮れば完成だ。お子様用のミルクにはたっぷりの蜂蜜とブランデーを少しだけ。アルコールと甘いミルクの匂いがキッチンに広がる。視線を感じて振り返ると六つの目と視線が合う。盗賊稼業に勤しんでいた時も飯屋をやっていた時もこの視線はつきものだった。鍋やフライパンからどんな旨いものが出てくるのか期待する目。どんなに嫌なやつでもこの時ばかりは愛しく思えた。
「大人にはグリューワイン、お子様どもにはホットミルクな」
四つのマグカップにそれぞれ飲み物を注いでいく。赤と白の円がテーブルに並んだ。
「子供扱いするな」
「なんだか香りがいつもと違う気がする。シナモンとなんだろう」
「任務でお疲れの魔法使い様の為にブランデーを少々」
「……悪くない」
現金なやつだ。
「今までいろいろ作ってもらったが、これは初めて飲むな」
ファウストがマグカップの上で手を煽ぎながら呟いた。香りを気に入ってくれたのか、もともとグリューワインが好きなのか口元が綻んでいる。
「体が疲れ切ってすぐにでも眠りたい時にしか作らないんだ。店でも出したことはなかったな。先生、ツイてるよ。これを飲めばすぐにでも夢の世界に行ける」
おどけて言うとファウストは目を伏せて湯気を立てるワインの表面に息を吹きかけた。
「夢なんて見ないぐらいぐっすり眠れる方がいい」
「そうかもな」
「じゃあ、夢のない夜に」
優雅な手つきでヒースがマグカップを掲げる。乾杯。四つのマグカップは控えめに音を鳴らした。